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無能の責任、有能の失敗

黒曜の騎士との一件から数日。田中は自室の粗末な鏡に映る自分の姿を見て、深いため息をついた。くたびれたスーツはもはや限界だ。特に先日の戦いで泥まみれになった部分は、拭いても薄汚れたシミとなって残っている。


「さすがに、これじゃあな…」


祝宴の席でも、一人だけ場違いな格好で居心地が悪かった。意を決してリリア姫に相談すると、姫は「わたくしの配慮不足でしたわ!」と恐縮しきりで、すぐに王室御用達の商人を手配してくれた。しかし、提示された金ピカの礼服やシルクのローブは、田中にとってあまりにも現実離れしていた。冠婚葬祭でたまに着る窮屈な礼服を思い出し、丁重に断った。


(もっとこう、普段着で、動きやすいやつがいいんだが…)


そんな田中の様子を見ていたエルミナが、「勇者様は民と共にあることをお望みなのですね!そのお心、素晴らしいです!」といつもの調子で感銘を受け、城下町の庶民的な店へ案内してくれることになった。


翌日、田中はエルミナが用意した簡素なフード付きの外套を羽織り、二人で城を抜け出した。活気あふれる市場の一角、エルミナが指差したのは、古びてはいるが手入れの行き届いた小さな服屋だった。店先には、麻や木綿の素朴な服が並んでいる。


「ここなら、良さそうなものが見つかりそうですね」

エルミナが言うと、店の奥から「いらっしゃいませ!」と明るい声がした。

現れたのは、年の頃三十代半ばだろうか、日に焼けた肌に快活な笑顔を浮かべた女性店主だった。サラ、と名乗った彼女の傍らには、14、5歳くらいの栗色の髪の少女が、不審そうにこちらを見ている。

「この子は姪のリリです。人見知りでね、すみませんね」

サラは悪びれずに笑う。


田中は、サラの気さくな人柄と、店の素朴な雰囲気にホッとした。

「あの、普段着るような、丈夫で動きやすい服を探しているんですが」

「あいよ!それならお任せください。うちは旅人さんにも好評でね」

サラは手際よくいくつか服を見繕ってくれた。田中は、厚手のコットンのシャツと、ゆったりとした麻のズボン、そして革製の丈夫そうなブーツを選んだ。


試着室で着替えていると、サラとリリのひそひそ話が聞こえてきた。

「サラおばちゃん、この人たち、もしかして…」

「しっ、リリ。余計なことは言わないの。お客さんだよ」

「でも、もし本当に…」

何か訳がありそうな会話だったが、田中は深く詮索する気にはなれなかった。


試着を終えて出てくると、サラは「おお、よくお似合いですよ!まるで最初からお客さんのためにあったみたいだ」と手放しで褒めてくれた。エルミナも「勇者様!そのお姿、まさに市井に溶け込む達人の風格!これぞ真の勇者の隠密行動術!」と目を輝かせている。

(まあ、褒められるのは悪い気はしないけど…)

田中は苦笑しながら、代金を支払おうと財布を取り出した。


その瞬間だった。


「動くなッ!!金目のものを全部出しやがれ!!」


店の入口に、凶器をギラつかせた二人組の男が立ちはだかった。明らかに強盗だ。

サラはとっさにリリを背後にかばい、強盗を睨みつけた。

「あんたたち!こんな昼間から、何のつもりだい!」

「うるせえ!早くしろ!騒ぐとこのガキがどうなっても知らねえぞ!」

強盗の一人が、リリに手を伸ばそうとする。


「させません!」

エルミナが杖を構え、魔法を放とうとした。しかし、強盗は素早くリリの細い腕を掴み、ナイフを突きつけた。

「動くな魔法使い!下手に動けばこのガキの命はねえ!」

リリは恐怖に顔を歪ませ、小さな悲鳴を上げる。


サラの顔から血の気が引いた。

「やめて!その子には手を出すな!金なら…金なら渡すから!」

サラが震える手でレジの引き出しを開けようとした、その時だった。


「おっとっと!」


田中は、強盗の出現に驚き、慌てて後ずさろうとして、足元に置いてあった古い織り機に気づかず派手につまずいた。会社で、急ぎの書類を抱えてフロアを横切ろうとして、よくやったミスだ。あの時は「田中君、君は歩く時くらい前を見たまえ!」と課長に怒鳴られたものだ。


バランスを崩した田中は、近くにあった服を陳列していた棚に激突。棚は大きな音を立てて倒れ、大量の服や布地が雪崩のように強盗たちに降り注いだ。

「ぐわっ!?なんだ!?」

「前が見えねえ!」

突然の出来事に強盗たちは完全に不意を突かれ、視界を奪われた。リリを掴んでいた男の手も緩む。


その隙を見逃さず、サラは強盗に体当たりし、リリを引き離そうとした。

「リリ、逃げて!」

しかし、もう一人の強盗が逆上し、サラの腹部にナイフを深々と突き立てた。

「このアマァッ!!」


「サラおばちゃん!!」

リリの絶叫が店内に響く。

サラはその場に崩れ落ち、鮮血が石畳に広がっていく。


エルミナは即座に魔法で強盗たちを拘束し、駆けつけた衛兵に引き渡した。しかし、サラの傷はあまりにも深かった。

「サラさん!しっかり!」

田中が慌てて駆け寄るが、サラの呼吸は浅く、瞳からは光が失われつつあった。


「リリ…ごめんね…守ってあげられなくて…」

サラはか細い声でリリに語りかける。リリは泣きじゃくりながらサラの手を握りしめている。

「勇者…様…」

サラは、薄れゆく意識の中で、田中の顔を見つめた。なぜか、彼女は田中が勇者であることを知っているようだった。どこかで噂を聞いたのかもしれない。

「この子を…どうか…この子を…安全な場所へ…連れて行って…ください…」

サラの指が、田中が選んだ服と、リリのためにと用意してあったのだろう小さな可愛らしい服を弱々しく指差した。

「この服は…手間賃…代わりに…リリのこと…お願い…します…」

それが、サラの最期の言葉だった。彼女の手から力が抜け、リリの手を握ったまま、静かに息を引き取った。


「サラおばちゃーーーーんっ!!!!」

リリの悲痛な叫びが、静まり返った店に木霊した。


エルミナは静かに目を閉じ、祈りを捧げている。田中は、目の前で起きたあまりにも突然で残酷な出来事に、ただ立ち尽くすしかなかった。会社で経験したどんな理不尽よりも、これはずっと重く、痛ましい。


(俺が…俺がもっとしっかりしていれば…)


つまずいて棚を倒したことが、結果的にリリを助ける隙を作ったのかもしれない。しかし、サラは死んでしまった。自分のドジが、またしても意図しない結果を招いた。だが、今回はあまりにも悲しい結末だ。


エルミナが、静かに田中に語りかけた。

「勇者様…これもまた、運命の導きなのかもしれません。この少女、リリ殿を救い、育むことこそが、勇者様に与えられた新たな試練…そして、サラ殿の魂を救済する道なのでは…」

いつもの全肯定だが、その声には深い哀悼の念が込められていた。


田中は、泣きじゃくるリリの小さな背中を見た。この子から唯一の肉親を奪ってしまったかもしれないという罪悪感と、見捨てられないという無力感が胸を締め付ける。

会社では、誰かの役に立ちたいと思っても、空回りばかりだった。しかし、今、目の前には、助けを求める小さな命がある。


(俺に…できるのか…?)


サラが最後に指差した服。田中が選んだ動きやすいシャツとズボン、そしてリリのための小さなワンピース。それは、ただの布切れではなく、託された命の重さそのもののように感じられた。


田中は、ゆっくりとリリの前に膝をついた。

「リリちゃん…俺は…勇者なんて大層なもんじゃない。ただの、頼りないおじさんだ。でも…」

言葉が詰まる。しかし、リリの涙に濡れた瞳が、じっと田中を見つめている。

「でも…サラさんの最後の言葉を…無駄にはしたくない。もし…もし君が良ければ…俺と一緒に、来るか?」


それは、何の確証もない、無責任な言葉だったかもしれない。しかし、その言葉を聞いたリリは、しゃくりあげながらも、小さく、小さく頷いた。


田中は、サラから託された服を手に取った。

(この服は…俺が着るには、少し重すぎるかもしれないな…)

物理的な重さではない、責任の重さを感じながら、田中は立ち上がった。


エルミナが、涙を浮かべながらも厳かに言った。

「勇者様のご決断、必ずやサラ殿の魂も安らぎ、リリ殿の未来を照らす光となるでしょう!このエルミナ、命に代えても、お二人をお守りいたします!」


こうして、窓際おじさんだった田中一郎は、新しい服と共に、一人の少女の未来という重すぎる荷物を背負うことになった。それは、異世界に来て初めて、彼自身が明確な意思を持って下した、大きな決断だった。

魔王討伐という壮大な使命とは別に、彼の旅には、もっと個人的で、もっと切実な目的が加わったのだ。

これから先に何が待ち受けているのか、田中には全く想像もつかなかったが、今はただ、目の前の小さな手を、強く握りしめることしかできなかった。

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