無能の再起、有能の背広
季節が一周し、森の木々が再び芽吹き始めた頃。
田中一郎は、もはやかつての彼の面影を残してはいなかった。無駄な肉は削ぎ落とされ、その目には、深い洞察力と、揺るぎない意志の光が宿っている。
「――よし、そろそろ時間だね」
ある朝、エヴァはそう言うと、洞窟の奥から一つの包みを持ってきた。
「餞別さ。持っていきな」
包みを解くと、中から出てきたのは、一着の、黒いスーツだった。
それは、田中がこの世界に来た時に着ていたものとも、枢機卿から渡された豪奢な「聖衣」とも違う。丈夫で動きやすい特殊な布地で作られ、内側には、防御魔法の術式がびっしりと刺繍されている。エヴァが、この一年の間に、夜なべをして作ってくれたものだった。
「これは…」
「あんたにとって、『背広』は、過去のトラウマの象徴であり、同時に、偽りの偶像の象徴でもあった。だがね、これからは違う」
エヴァは、煙管をふかしながら言った。
「あんたが、あんた自身の意志で、それを『戦うための服』として選ぶんだ。過去を乗り越え、自分の足で立つ。そのための、けじめの服さ」
田中は、そのスーツを、静かに受け取った。
それは、重かった。布の重さではない。エヴァの想い、エルミナの遺志、そして、これから自分が背負うべきものの、重さだった。
田中がスーツに袖を通すと、まるで自分の体の一部であるかのように、ぴったりと馴染んだ。
「どうだい? 似合うじゃないか」
「…ありがとうございます、師匠」
田中は、初めてエヴァのことを「師匠」と呼び、深々と頭を下げた。
エヴァは、照れくさそうに「よせやい」と顔をそむけた。
「タナカ、かっこいい…」
傍らで見ていたリリが、目を輝かせて言った。この一年で、彼女も少しだけ背が伸び、少女らしい顔つきになっていた。
「さあ、行きな」
エヴァが、洞窟の出口を指差した。
「あんたのやるべきことは、分かってるね?」
「はい」
田中は、力強く頷いた。
彼の目的は、もはや復讐ではない。
鈴木の『魔力集積回路』を無効化し、奴隷とされている魔族たちを解放する。そして、戦争を終わらせ、リリが安心して暮らせる未来を作ること。そのために、彼は全てを懸ける覚悟だった。
「リリちゃんは、ここに…」
田中がそう言いかけると、リリは、きっぱりと首を横に振った。
「嫌だ。あたしも行く」
その瞳は、一年前の、ただ駄々をこねていただけの子供のそれとは違っていた。
「タナカが戦うなら、あたしも、あたしにできることをする。もう、ただ守られてるだけじゃ、嫌なんだ」
この一年、彼女もまた、エヴァから薬草学や、簡単な護身術を学んでいたのだ。
田中は、リリの強い意志を前に、何も言えなかった。そして、静かに頷いた。
「…分かった。一緒に行こう。絶対に、無茶はするなよ」
「うん!」
田中とリリは、エヴァに別れを告げ、再び外の世界へと足を踏み出した。
向かう先は、エルドリアとヴァンスの国境地帯。現在、最も戦闘が激化している場所だ。
道中、二人は、戦争の爪痕を目の当たりにした。焼かれた村、荒れ果てた畑、そして、避難民たちの疲弊しきった姿。
その光景が、田中の決意を、さらに固いものにしていく。
数週間後、二人は、エルドリア軍が最後の砦としている、「鷲ノ巣砦」の近くにたどり着いた。
砦は、ヴァンス皇国軍の猛攻を受け、陥落寸前だった。鈴木が開発した『魔力集積回路』を装備した魔術師部隊が、休むことなく強力な魔法を撃ち込み続けている。
「ここまでか…」
砦の司令官が、絶望の声を漏らした、その時だった。
戦場の真ん中に、一人の男が、静かに姿を現した。
黒いスーツに身を包み、その手には何も持っていない。
「なんだ、あの男は?」
「ヴァンスの刺客か!?」
両軍の兵士たちが、訝しげにその姿を見つめる。
ヴァンス軍の陣地では、佐藤が、その姿を認めて、不愉快そうに顔を歪めた。
「…田中さん? しつこいゴキブリみてえなオッサンだな。まだ生きてやがったのか」
隣の鈴木も、眉をひそめた。
「また、あの格好を…懲りない人ですね。ですが、今度こそ、完全に終わらせてあげますよ」
鈴木は、部下に合図を送り、田中に向けて、最大級の攻撃魔法を放たせた。
凄まじい破壊力を持つ炎の槍が、轟音と共に、田中に向かって殺到する。
エルドリアの兵士たちが、息をのんだ。
誰もが、あの黒いスーツの男は、一瞬で消し炭になるだろうと、そう思った。
しかし、田中は、動かなかった。
ただ、静かに、迫り来る炎の槍を見据えている。
彼の頭の中に、エルミナの知識と、エヴァの教えが、明確な形となって浮かび上がる。
(あれは、火属性の魔力を、槍の形に高密度で圧縮したもの。構造は単純。弱点は、そのエネルギー効率の悪さだ)
(俺がやるべきことは、防御じゃない。破壊でもない。『無効化』だ)
田中は、右手を、すっと前に出した。
その手のひらの前に、小さな、しかし極めて緻密で複雑な魔法陣が、一瞬だけ、青白く輝いた。
「――『逆位相魔力干渉』」
田中が静かに呟くと、彼の手のひらから、目には見えない、微弱な魔力の波が放たれた。
次の瞬間、信じられない光景が、両軍の兵士たちの目の前で繰り広げられた。
凄まじい勢いで迫っていた炎の槍が、田中の数メートル手前で、まるで陽炎のように、フッと、音もなく消え去ったのだ。
「「「な…!?」」」
戦場にいた全ての者が、言葉を失った。
佐藤も、鈴木も、例外ではなかった。
「ば、馬鹿な!? 魔法が…消えた…?」
佐藤が、狼狽の声を上げる。
「ありえない…! 防御障壁の反応はなかった! 相殺したわけでもない! まるで…最初から、そこになかったかのように…!」
鈴木の冷静な表情が、初めて、驚愕に歪んだ。
田中は、静かに、ヴァンス軍の陣地を見据えた。
その姿は、かつての、怯えて震えていた無能なおじさんではなかった。
偶像でも、英雄でもない。
ただ、静かな怒りと、確かな力をその身に宿した、一人の戦士の姿が、そこにはあった。
空っぽの偶像は、ティターン平原で死んだ。
そして今、この鷲ノ巣砦の戦場で、窓際おじさん、田中一郎は、本当の意味で、再生したのだ。




