無能との訣別、有能の覚悟
「勇者様、昨夜のゴブリンへのご対応、誠に見事でございました!」
翌朝の朝食の席。国王は満面の笑みで田中の「戦果」を称えた。リリア姫も頬を上気させ、尊敬の眼差しを向けてくる。
「いえ、あれは別に…成り行きというか…」
田中がいつものように謙遜とも言い訳ともつかない言葉を口にすると、ガレスが力強く頷いた。
「『成り行き』!なんと深遠な言葉でしょう!戦況とは常に流動的、その流れを読み、自然体で最適解を導き出す!これぞ兵法の極意!勇者様はそれを無意識に体現されているのです!」
(いや、本当にただ腹減ってそうだなと思っただけなんだけど…
田中は内心で首を捻りながら、出されたスープを啜った。会社で「君の報告は具体性がない!」と怒鳴られたことを思えば、この世界の解釈力はまさに異世界級だ。
朝食後、田中は「勇者様のご指導を賜りたく」とガレスに乞われ、騎士団の訓練場へ赴いた。騎士たちが模擬戦を繰り広げている。その迫力に田中は若干気圧されながらも、会社で新入社員の研修を見学させられた時のように、当たり障りのないコメントを考えた。
「皆さん、元気があってよろしいですね。ただ、もう少し…こう、連携というか、周りを見ながら動いた方が良い場面もあるかもしれませんね」
昔、営業部の新人たちが個々の成績ばかり気にしてチームプレーが疎かになっているのを見て、ポロッと漏らした感想とほぼ同じだ。あの時は「具体的にどうしろと言うんだ!」と部長に一喝されたが。
ガレスは雷に打たれたような顔をした。
「な、なんと!勇者様は我々の訓練の核心を一瞬で見抜かれた!『個々の武勇に頼らず、連携による集団戦術の重要性』!これぞ我が騎士団が目指すべき道!皆の者、聞いたか!今日より訓練内容を改める!勇者様のご指導に従い、連携重視の訓練を導入するぞ!」
「「「「おおおおお!!」」」」
騎士たちの雄叫びが訓練場に響き渡る。田中は(え、そんな大袈裟な話…?)と目をパチクリさせた。
その後は、魔法使いエルミナによる「勇者様への魔法体系のご説明」の時間だった。エルミナは様々な属性の攻撃魔法や補助魔法を実演してみせる。炎が舞い、氷塊が出現し、光の盾が展開される。
「これが我が国で研鑽されてきた魔法の基礎でございます、勇者タナカ様。何かお気づきの点は?」
エルミナが期待に満ちた目で問いかける。田中は、昔見たマジックショーを思い出しながら、正直な感想を述べた。
「はあ…すごいですね。手品みたいで…いや、本物なんでしょうけど。色々と複雑なんですね」
会社で新しいシステムの説明を受けた時と全く同じ反応だ。あの時は「君は理解する気があるのかね?」と冷たく言われた。
しかし、エルミナは感銘を受けたように深く頷いた。
「『手品みたい』…!まさしく!魔法とは現象の裏にある法則を操る技。一見不可思議に見えるが、全ては緻密な理論に基づいております。そして『複雑』…その通りです!勇者様は魔法の本質、その多岐にわたる奥深さを一言で喝破された!恐るべき慧眼!」
(いや、本当にただ複雑そうだなーって思っただけ…)田中は心の中でため息をついた。この世界の人々は、彼の言葉をどこまで高尚に解釈すれば気が済むのだろうか。
そんなある日、城下に不審な影が現れたとの報告が入った。魔王軍の斥候と思われる低級な魔物、インプが数匹、夜陰に紛れて情報を探っているらしい。インプは単体では弱いが、素早く、悪賢い。集団で情報を持ち帰られると厄介な存在だ。
「勇者様、出番でございます!」と息巻くガレス。しかし、田中は(またか…戦闘とか無理だって…しかもインプって、なんか素早そうな名前だし…)と内心で頭を抱えた。
「うーん…まあ、夜道をウロウロされるのも物騒ですしねぇ…あまり騒ぎ立てずに、穏便に済ませたいものですね」
田中が、近所の不審者情報に対する町内会の役員のような感想を述べると、リリア姫がハッとした。
「勇者様は民の安寧を第一にお考えなのですね…!そして『穏便に』…!さすがです、無用な血を流さず、最小限の力で事を収めるのが真の勇者のお考え!」
結局、田中はガレスと数人の騎士と共に、夜の城下町の見回りに出ることになった。月明かりも乏しい裏路地、物陰に潜む小さな影を騎士の一人が発見した。
「勇者様、あちらに!三匹おります!」
騎士が小声で報告し、剣の柄に手をかける。ガレスも静かに頷き、包囲の指示を出そうとしたその時だった。
田中は、暗がりに目が慣れず、足元に転がっていた何かの石ころに気づかず、思い切りつまずいた。
「うおっ、とっとっと!」
体勢を崩し、派手に転倒しそうになる。会社で書類の束を抱えて廊下を歩いている時によくやった失敗だ。あの時は「田中君、またか。少しは注意深くなれんのか」と呆れられたものだ。
慌ててバランスを取ろうと、無意識に両手をバタバタと振り回した。その拍子に、昼間リリア姫から「喉が渇いた時にお使いください」と渡され、腰に提げていた革製の水筒がベルトから外れ、ポーンと弧を描いて飛んだ。
カラン、コロン、コロン…!
水筒は硬い石畳の上を音を立てて転がり、ちょうどインプたちが潜む物陰のすぐ手前で止まった。
「「「キィィイイ!?」」」
インプたちは、その音と、突然目の前に現れた謎の物体にギョッとした。さらに、暗闇の向こうで人間が奇妙な動き(田中が転びそうになってじたばたしているだけ)をしているのを見て、何か得体の知れない攻撃を仕掛けられたと勘違いしたらしい。
一匹が甲高い警戒音を発すると、他のインプたちもそれに呼応し、蜘蛛の子を散らすように一目散に四方八方へ逃げ去ってしまった。あっという間の出来事だった。
静まり返った路地に、田中がぜえぜえと息を切らしている音だけが響く。
騎士たちは一瞬呆気にとられていたが、最初に口を開いたのはガレスだった。その目は、驚愕と尊敬で見開かれている。
「み、見事…!見事という他ありません、勇者様ッ!」
「は? え? いや、あの、つまずいて…」
田中が慌てて弁解しようとするが、ガレスの興奮は止まらない。
「『つまずいた』と!?なんと謙虚な!あれは明らかに、敵の意表を突くための擬態行動!一見、無防備な隙を見せることでインプどもの警戒心を解き、油断したところへあの水筒を…!」
ガレスは落ちている水筒を拾い上げ、恭しく田中に差し出した。
「この水筒こそが、勇者様の策の要!音を立てて転がすことで、インプどもの注意を一点に集中させ、その間に我々が包囲する隙を作る…あるいは、あの水筒自体が何らかの魔力を帯びており、インプどもを威嚇したのかもしれません!そうでなければ、あの臆病なインプどもが、あれほど慌てて逃げ出すはずがない!」
他の騎士たちも口々に称賛の声を上げる。
「勇者様の予測不能な動き…あれぞまさしく『無形の型』!」
「あの手の動き…何かの呪文を詠唱しておられたのでは?」
「水筒を投擲武器として使うとは…我々には思いもよらぬ発想です!」
田中は(いや、普通にドジっただけだし、水筒もただの水筒で、中身はお茶だったはず…)と思ったが、キラキラとした尊敬の眼差しを向けてくる騎士たちを前に、もはや何も言えなかった。
「勇者様の奇策、恐れ入りました!我々はただ剣を振るうことしか考えておりませんでしたが、戦いとはかくも奥深いものかと!」
「一滴の血も流さず、敵の情報を持ち帰らせることなく退けるとは…まさに聖戦でございます!」
騎士たちの称賛が、田中の心の奥底にじんわりと染み込んだ。会社では「お前がいると仕事が増える」「ドジで周りに迷惑をかけるな」とまで言われたこともある。しかし、ここでは――。
(そうか…俺のドジすらも、この世界では戦略になるのか…)
無能の烙印を押され続けた男の心に、確かな自信と、万能感にも似た高揚感が満ち溢れていく。失敗すらも「深遠な考え」と解釈され、何気ない行動が「神業」となる世界。それは田中にとって、麻薬のような心地よさだった。
あの薄暗い蛍光灯の下、パソコンのモニターに映る数字と睨めっこしていた日々。課長が、眉間に深い皺を刻んで田中を見下ろす顔。
「田中君、またか。その資料、何度言ったら分かるんだ? 君の頭の中はどうなってるんだね?」
「だいたい君は、気が利かないというか、段取りが悪いというか…周りが見えていないんじゃないか?」
隣の席の鈴木先輩は、いつも助け舟を出すでもなく、憐れむような、あるいは「また始まったよ」とでも言いたげな諦めの目でこちらを見ていた。給湯室では、若手社員たちが「窓際さん、今日も絞られてたねー」「まあ、あの人じゃ仕方ないっしょ」と囁き合っていたのも知っている。
彼らは、田中の「つまずき」を、ただのドジとしか見なかった。書類のちょっとしたミスを、致命的な欠陥のようにあげつらった。善かれと思って提案した改善案を、「余計なこと」「的外れ」と一蹴した。
(あの人たちは、俺の何を見ていたんだろうな…)
今、この異世界で、田中の一挙手一投足は称賛の的だ。つまずけば「擬態行動」、水筒を落とせば「陽動作戦」。気の抜けた相槌は「冷静沈着な状況把握」、当たり障りのない感想は「深遠なる洞察」。
ふつふつと、腹の底から何かがこみ上げてくるのを感じた。それは怒りというより、もっと冷たく、見下すような感情だった。
(なんだ、結局、あいつらには俺の真価が分からなかっただけじゃないか)
あの課長も、鈴木先輩も、陰口を叩いていた若手たちも、結局は「見る目がない」連中だったのだ。自分の尺度でしか他人を測れず、少しでも理解できないものは「無能」のレッテルを貼って安心する。そういう器の小さな人間たち。
「勇者様? 何かお考え事で?」
ガレスが心配そうに声をかけてきた。田中は、ふっと口元に自嘲とも優越ともつかない笑みを浮かべた。
「いえ、少し…昔のことを思い出しましてね。つまらない連中のことを」
その言葉を聞いたガレスは、またしても何か深遠な意味を読み取ったかのように、神妙な顔で頷いた。
「そうでございますか…勇者様ほどの御方にも、そのような…俗世の些事にご苦労された過去がおありとは…それすらも、今の勇者様を形作る糧となっていらっしゃるのですね…!」
(まあ、そう解釈してくれるなら、それでもいいか)
田中はもはや、彼らの誤解を訂正する気もなかった。この心地よい全肯定の世界で、わざわざ過去の泥水を持ち出す必要はない。
あの会社の人々は、今頃どうしているだろうか。相変わらず、誰かの粗探しをしたり、自分の保身に汲々としたりしているのだろうか。もしかしたら、田中の席が空いたことを「これで少しは仕事がスムーズになる」と喜んでいるかもしれない。
(せいぜい、そう思っていればいいさ)
心の中で、田中は彼らに向かって軽く手を振った。もう、彼らの評価などどうでもよかった。自分を正しく評価してくれる世界を見つけたのだから。
(間違っていたのは、やっぱり俺じゃなくて、あいつらの方だったんだ)
その確信は、インプを退けたという小さな(しかしここでは偉大な)成功体験によって、さらに強固なものになっていた。
翌朝、国王から新たな情報がもたらされた。
「勇者様。魔王軍の幹部の一人、『黒曜の騎士』と呼ばれる強大な魔族が、近隣の廃都に出現したとの報せが入りました。勇者様には、その討伐をお願いしたい」
いよいよ本格的な戦いが始まる。田中はゴクリと唾を飲んだ。しかし、不思議と恐怖はなかった。
「任せてくれ」
その根拠のない自信は、もはや彼の中で揺るぎないものとなりつつあった。窓際おじさんだった田中一郎は、今や全てを肯定される「万能の勇者」として、次なる試練へと歩みを進めようとしていた。