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無能の決意、有能の残骸

どれほどの時間が経っただろうか。

田中が自分の半生を吐露した後、魔王は長い沈黙を守っていた。その沈黙が、田中には何かの裁きを待つ罪人のような心地にさせた。


やがて、魔王は重々しく口を開いた。


「…くだらんな」


その一言は、地を這うような低い響きを持っていたが、そこに侮蔑の色はなかった。むしろ、深い諦観のようなものが感じられた。


「お前も、我らも、結局は同じことだ。あの『背広の悪魔』どもに、人生を弄ばれているに過ぎん」


魔王は、ガシャリ、と自らの枷を鳴らした。

「奴らは、我らの力を奪い、道具として使役する。そしてお前は…その存在そのものを、都合の良い偶像として祭り上げ、利用する。やり方が違うだけで、本質は変わらん」


その言葉は、田中の胸に深く突き刺さった。

エルドリアの国王やリリア姫、枢機卿。彼らは善人だったかもしれない。しかし、結局は、田中一郎という人間ではなく、「預言の勇者」という便利な記号しか見ていなかった。そして、その記号が役に立たないと分かると、あっさりと見捨てた。


「俺は…どうすればよかったんだ…」

田中は、誰に問いかけるでもなく、力なく呟いた。


「知るか。己の道は、己で決めろ」

魔王は、冷たく言い放った。

「だが、一つだけ言っておく。奴隷のまま、あるいは偶像のまま、みすみす死んでいくのは、愚の骨頂だ。たとえ無様であろうと、足掻き、抗うことこそが、生きるということだろう」


その言葉は、田中の心に小さな波紋を広げた。

足掻き、抗う。

会社員時代、田中が最も避けてきたことだ。波風を立てず、目立たず、ただ嵐が過ぎ去るのを待つ。それが、彼の処世術だった。しかし、その結果が、今のこの惨めな自分なのだ。


魔王は、ゆっくりと立ち上がった。

「我は行く。奴らに飼い殺しにされるつもりはない。この首輪を破壊する方法を、必ず見つけ出す」

「どこへ行くんだ?」

「さあな。だが、お前がこれからどうするのか、少しだけ興味が湧いたぞ、偽物の勇者よ」


魔王はそう言うと、巨大な背を向け、岩陰の向こうへと去っていった。その足取りは重く、奴隷の身の過酷さを物語っていたが、その背中には、決して屈しないという不屈の意志が感じられた。


一人残された田中は、ただ呆然と、魔王が消えていった方向を見つめていた。

(足掻き、抗う…か)


その時、遠くから、必死に自分を呼ぶ声が聞こえた。


「タナカーーーッ!」


リリの声だ。

田中は、ビクッと体を震わせ、反射的に岩陰に身を隠そうとした。こんな情けない姿を見せたくない。合わせる顔がない。


しかし、その足は動かなかった。

魔王の言葉が、頭の中で反響していた。

ここでまた逃げたら、俺は、本当にただの「くだらない男」で終わってしまうのではないか。


田中は、震える足で、ゆっくりと立ち上がった。


声のする方へ、おぼつかない足取りで歩いていく。やがて、視界が開け、息を切らしながら、必死の形相で自分の名前を呼び続けるリリの姿が見えた。彼女は一人だった。その小さな服はところどころ破れ、泥に汚れている。


「リリちゃん…」

田中が声をかけると、リリはハッとして振り返った。


「タナカ!」

リリが、目に涙を浮かべながら駆け寄ってきた。そして、そのまま田中の胸に飛び込んできた。


「よかった…生きてた…! 本当に、よかった…!」


田中は、その小さな体をどうすればいいか分からず、戸惑いながらも、そっとその背中を抱きしめた。


「すまない…俺は…逃げた…」

俯いて、そう謝罪するのが精一杯だった。


しかし、リリは、田中の胸に顔を埋めたまま、首を横に振った。

「ううん。タナカは、悪くない」

「え…?」


「だって、怖かったもん。あたしも、すっごく怖かった。だから、逃げたっていい。生きててくれたら、それでいいんだもん…」


リリのまっすぐな言葉に、田中は目頭が熱くなるのを感じた。


「エルミナさんは…どうしたんだ? 一人なのか?」

田中は、恐る恐る尋ねた。


その言葉に、リリの体がビクッと震えた。彼女は顔を上げ、その瞳は悲しみと悔しさでいっぱいだった。

「エルミナは…敵に…捕まった…」

「なっ…!」


「生き残った兵隊さんたちが言ってた…。『もうだめだ』って。『勇者様は逃げた』って…。でも、あたしは信じなかった! タナカは、そんな人じゃないって! だから、兵隊さんたちの言うこと聞かないで、探しに来たの…!」


エルミナが捕まった。

その事実は、重い鉄槌のように田中の頭を殴りつけた。

自分のせいで、また仲間が犠牲になった。俺が、あの場でしっかりしていれば。俺が、逃げ出したりしなければ…!


激しい罪悪感が、再び田中を暗い闇に引きずり込もうとする。

しかし、腕の中のリリの温もりと、彼女の涙が、それを許さなかった。

俺がここで潰れてしまったら、この子はどうなる?

この子まで、俺のせいで不幸にするわけにはいかない。


その時、田中は、自分が着ている、あの金の刺繍が施されたスーツに気づいた。

泥と埃にまみれ、ところどころが破けている。それは、かつて自分が憧れた「有能な自分」という幻想の、惨めな残骸のようだった。


田中は、ゆっくりと、その上着を脱ぎ始めた。

そして、それを地面に投げ捨てた。


「タナカ…?」

リリが、不思議そうに声をかける。


田中は、リリの肩を掴み、その目を見て、はっきりと告げた。

「リリちゃん、聞いてくれ。俺は、勇者じゃない。預言の英雄でも、奇跡を起こす救世主でもない」


「俺は、ただの田中一郎だ。日本の会社で、26年間、窓際で燻っていた、ただの頼りないおじさんだ」


それは、彼の、初めての、完全な告白だった。

もう、偶像を演じるのは終わりだ。

勘違いに乗り、万能感に浸っていた、弱い自分との決別。


リリは、田中の言葉を静かに聞いていた。そして、ふっと、涙を拭って微笑んだ。


「うん。知ってる」

「え…?」


「タナカは、勇者様じゃない。タナカは、タナカだよ。あたしが、サラおばちゃんを亡くした時、一緒にいてくれた、ただのタナカだよ」


その言葉が、田中の心を救った。

偶像ではない、ありのままの自分を、この少女は受け入れてくれている。


「行こう、リリちゃん」

田中は、決意を込めて言った。


「どこへ?」

「エルミナさんを助けに行く。そして、お前を…リリちゃんを、絶対に守り抜く」


もはや、国のためでも、預言のためでもない。

仲間のため、そして、目の前の少女のため。

その個人的で、しかし何よりも切実な目的が、田中の心に、新たな火を灯した。


「うん!」

リリは、力強く頷いた。


田中は、地面に打ち捨てられたスーツの残骸を、最後にもう一度だけ見つめた。そして、それに背を向けて、リリの小さな手を、強く、強く握りしめた。


空っぽの偶像は、ティターン平原の荒れ地に、静かに打ち捨てられた。

そして、ただのおじさん、田中一郎の、本当の戦いが、今、始まろうとしていた。

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