無能の敗走、有能の空虚
地獄のような乱戦は、夜明けと共に終わりを告げた。
ヴァンス皇国の傭兵部隊『黒狼団』は、魔族との激しい消耗戦の末、目的を果たしたと判断したのか潮が引くように姿を消した。魔族たちもまた、多くの犠牲を出し、憎々しげにエルドリア軍を睨みつけながらも、グレイロック砦へと撤退していった。
後に残されたのは、夥しい数の死体と、絶望的な静寂だけだった。エルドリア軍の被害は壊滅的だった。屈強な騎士たちの亡骸が、森の至る所に無残な姿で横たわっている。その中には、変わり果てたガレスの姿もあった。
「う…うぅ…」
生き残った兵士たちの嗚咽が、朝霧の立ち込める森に響く。彼らの目から、かつて田中に向けられていた尊敬や信仰の光は、完全に消え失せていた。代わりに宿っているのは、空虚な絶望と、そして、偶像に裏切られた者特有の、冷たい軽蔑の色だった。
「勇者様…だと…? 何が勇者だ…」
「奇跡など、起こらなかったじゃないか…」
「ガレス団長は…仲間たちは…犬死じゃないか…!」
ひそひそと交わされる声が、刃のように田中の心を突き刺す。誰も、もう彼に意見を求めようとはしなかった。彼はもはや、預言の英雄ではなく、多くの仲間を死に追いやった「空っぽの偶像」でしかなかったのだから。
田中は、ガレスの亡骸のそばに、ただ膝をついていた。泥と血にまみれた騎士団長の顔は、安らかとは程遠い、悔しさに満ちた表情のまま固まっていた。
(俺のせいだ…俺が…もっとしっかりしていれば…)
あの密偵を見過ごしたこと。根拠のないビジネス用語で軍議を乗り切ろうとしたこと。その全てが、この悲劇に繋がっている。後悔が、黒いヘドロのように心の底から湧き上がってくる。
「タナカ様…」
エルミナが、おずおずと田中の肩に触れた。彼女の瞳もまた、恐怖と悲しみで揺れていた。
「…すまない」
田中は、かすれた声で言った。エルミナは、力なく立ち上がる田中を一瞥したが、何も言わなかった。彼女は、数少ない生き残りの兵士たちを必死でまとめ、負傷者の手当てを始めた。彼女もまた、片腕に深い傷を負い、その顔は蒼白だった。
敗走。それは、惨めなものだった。
武器も食料もほとんど失い、傷ついた兵士たちは、互いに肩を貸し合いながら、とぼとぼと聖都への道を戻るしかなかった。誰も口を開かず、ただ重い足を引きずる音だけが響いていた。
数日後、エルドリア王国の王宮に、グレイロック砦での惨敗の報が届いた。
「ガレスが…死んだだと…!? 我が軍の半数以上が失われた…? 馬鹿な…!」
国王は、報告を聞いて激昂した。玉座の間には、絶望と混乱が渦巻いていた。
「勇者タナカ様は…勇者様は、ご無事なのか?」
リリア姫が、震える声で尋ねた。
「は…ご無事では、あられますが…」
伝令の騎士は、歯切れ悪く答える。その態度が、全てを物語っていた。奇跡は起こらず、勇者は何もできなかったのだ、と。
その数日後、国王は、苦渋の決断を下した。
「――ヴァンス皇国に対し、宣戦を布告する!」
玉座の間で、国王の宣言が響き渡った。グレイロック砦での奇襲は、ヴァンス皇国による明確な敵対行為であり、もはや看過できない。エルドリア王国の誇りと、死んでいった兵士たちの無念を晴らすため、国を挙げて戦うしかない。
しかし、その宣言に、かつてのような熱気はなかった。兵の半数を失い、民の心の支えであった「勇者の奇跡」という幻想も砕け散った今、大国ヴァンスとの戦争など、無謀としか思えなかった。
その頃、田中たちは、聖都アークライトに辛うじて帰り着いていた。しかし、彼らを出迎える民衆の歓声は、もうどこにもなかった。人々は、敗残兵のような一行を、冷たい、あるいは憐れむような目で見ているだけだった。
「あれが…勇者様…?」
「嘘でしょ…ガレス団長が死んだって…」
「預言は…どうなったの…?」
聖都を支配していた熱狂は、同じくらいの熱量を持った失望へと変わっていた。大聖堂に飾られていた田中のタペストリーは、いつの間にか取り外され、市場で売られていた木彫りの偶像も、姿を消していた。
田中は、人々からの無言の非難に耐えながら、大聖堂へと向かった。アルバス枢機卿が、厳しい表情で彼らを待っていた。
「タナカ様。今回のこと…誠に、遺憾に思います」
枢機卿の言葉には、あからさまな失望が滲んでいた。
「貴方様は…預言の勇者では、なかったと…? それとも、我々の信仰が足りなかったとでも言うのでしょうか…」
「…俺は…」
田中は、何も答えられなかった。自分は元々、ただのおじさんだったのだ。それを勝手に祭り上げ、期待し、そして勝手に失望している。理不尽だとは思ったが、ガレスの死を思えば、その怒りを口にすることはできなかった。
戦争の象徴。
国王は、ヴァンスとの戦争において、田中をそういう役割で担ぎ出そうと考えていた。たとえ力がなくとも、「預言の勇者」という存在は、兵士たちの士気を繋ぎ止めるための、最後の蜘蛛の糸だったからだ。
田中は、その決定を、ただ無気力に受け入れた。
もはや、彼に選択権などなかった。彼は、自分の意思とは関係なく、ただ「勇者」という役割を演じ続けるしかない、空っぽの偶像なのだ。
その夜、田中は一人、割り当てられた薄暗い部屋で、窓の外を眺めていた。窓の外では、戦争の準備のために、兵士たちが慌ただしく動き回っている。
(これから、どうなるんだろうな…)
自嘲気味に呟く。
もう、誰も彼に期待などしていない。
全肯定される心地よさも、万能感も、今はもうない。
あるのは、仲間の死への罪悪感と、自分の無力さに対する、深い絶望だけだった。
コンコン、と控えめなノックの音がした。
扉を開けると、リリが小さな盆を持って立っていた。盆の上には、スープの入った椀と、一切れのパンが乗っている。
「タナカ…何も食べてないでしょ」
リリは、田中の返事も待たずに部屋に入り、テーブルに食事を置いた。
「…食欲、ないんだ」
「一口でもいいから、食べて。じゃないと、本当に死んじゃうよ」
リリの言葉は、ぶっきらぼうだったが、その瞳には、純粋な心配の色が浮かんでいた。
田中は、何も言わずに椅子に座り、スプーンを手に取った。温かいスープが、冷え切った体にじんわりと染み渡っていく。それは、彼がこの世界に来てから、最も心に染みる味だった。
偶像は砕け散った。
しかし、その瓦礫の中から、小さな、確かな絆が、かろうじて彼を繋ぎ止めていた。




