無能の悲劇、有能の瓦解
聖都アークライトでの勝利から一週間。エルドリア軍は、魔王軍の前線基地となっている「グレイロック砦」への進軍を開始した。もちろん、その先頭には「救国の英雄」として祭り上げられた田中がいた。
旅の道中、田中は常に落ち着かなかった。聖都で見た、あの密偵の男の冷たい目が忘れられないのだ。ガレスに話そうかと何度も思ったが、「勇者様がそこまでおっしゃるなら!」と、またしても大袈裟な捜索が始まることを恐れ、結局言い出せずにいた。その小さな躊躇が、取り返しのつかない事態を招くとは、この時の彼は知る由もなかった。
グレイロック砦は、険しい山岳地帯に築かれた天然の要害だった。遠見の魔法で砦の様子を窺うが、魔王軍の動きは不自然なほど静かだった。
「静かすぎる…何か罠があるのでは?」
エルミナが警戒を露わにする。ガレスも同意し、慎重に斥候を放った。しかし、返ってきた報告は「敵兵の姿、ほとんど見当たらず」という意外なものだった。
「もぬけの殻だというのか? 我々の進軍を知り、恐れをなして逃げ出したか?」
騎士の一人が楽観的な声を上げる。
「ありえません! 魔王軍が、これほど重要な拠点を易々と明け渡すはずがない!」
ガレスがそれを一喝する。会議の場は、再び田中の顔色を窺うような雰囲気に包まれた。
「勇者様は、どのようにお考えですか?」
まただ。田中は、うんざりしながらも、何かそれらしいことを言わなければと頭を捻った。
「…まあ、敵の意図が読めない以上、リスクマネジメントが重要でしょう。最悪の事態を想定して、慎重に行動するべきです」
会社で、プロジェクトの先行きが不透明な時に、責任を回避するためによく使った言葉だ。
「リスクマネジメント…!なんと!勇者様は、我々が認識している危険の、さらに裏にある『真のリスク』を管理せよと!つまり、これは敵の陽動であり、我々の知らない場所に本命の罠がある可能性を示唆されている!」
エルミナの超解釈が、またしても炸裂した。ガレスは深く頷き、周囲への警戒をさらに強めるよう指示を出した。
その夜、エルドリア軍は砦から少し離れた森に野営した。警戒網は、これまでにないほど厳重に敷かれている。しかし、敵は、彼らが全く予期せぬ方向から現れた。
「奇襲だーっ! 敵襲! 敵襲!」
悲鳴が上がったのは、野営地の中央、まさに田中たちがいる本陣のすぐ近くだった。森の暗闇から、黒ずくめの兵士たちが音もなく現れ、エルドリアの騎士たちに襲いかかったのだ。
「馬鹿な! どこから!? 警戒網はどうした!」
ガレスが叫ぶ。しかし、黒ずくめの兵士たちの動きは人間離れしており、エルドリアの騎士たちを的確に、そして無慈悲に切り伏せていく。彼らは魔物ではなかった。屈強な、人間の傭兵部隊だった。
「こいつら…ヴァンス皇国の傭兵部隊『黒狼団』! なぜここに!?」
ガレスの顔に驚愕と絶望の色が浮かぶ。ヴァンス皇国は、エルドリアと長年緊張関係にある、北の軍事大国だ。
「くそっ! やはり罠だったか!」
ガレスは剣を抜き、田中の前に立ちはだかった。
「勇者様! ここはお任せを! どうかご無事で!」
しかし、敵の狙いは明らかだった。傭兵たちは、他の騎士には目もくれず、田中に向かって殺到してくる。
「あれが『預言の勇者』か! 大したことなさそうだな!」
「噂じゃ、とんでもない奇跡を起こすらしいぜ?」
「ハッ、教会の作り話だろ! 所詮はエルドリアの田舎侍よ!」
傭兵たちの下卑た笑い声が響く。彼らは、田中のスーツ姿を見ても、全く動じていなかった。聖都の民や魔族のように、その姿に特別な意味を見出してはいない。彼らにとって、田中はただの「賞金首」でしかなかった。
全肯定の力が、初めて全く通用しない敵。
その事実に、田中は全身が凍りつくのを感じた。
「ガレスさん!」
エルミナが魔法を放とうとするが、傭兵たちは巧みに連携し、詠唱の隙を与えない。ガレスと数人の近衛騎士が必死で田中を守るが、多勢に無勢だった。
一人の傭兵が、ガレスの防御をかいくぐり、田中に向かって剣を振り下ろした。
「うわっ!」
田中は、情けなく尻餅をついてそれを避けた。その姿は、英雄でも勇者でもなく、ただの怯えた中年男だった。
「ハハハ! 見ろよ、あの様を! こいつが勇者だって?」
傭兵たちが嘲笑する。
その時だった。
「貴様らァッ!!」
怒号と共に、ガレスが全身全霊の一撃を傭兵に叩き込んだ。傭兵は吹き飛んだが、その隙に、別の傭兵の剣がガレスの脇腹を深々と貫いた。
「がっ…!」
ガレスの巨体が、ぐらりと揺れた。
「ガレス団長!!」
騎士たちの悲鳴が響く。
「勇者…様…お、お逃げ…くだ…」
ガレスは、血を吐きながらも、田中のことだけを案じていた。その瞳には、最期の瞬間まで、揺るぎない信頼の光が宿っていた。そして、その光が消える前に、彼の体はゆっくりと地面に崩れ落ちた。
「ガレスさーーーーんっ!!!」
田中の絶叫が、森に木霊した。
いつも、どんな時も、自分の無責任な発言を信じ、力強く支えてくれた騎士団長。その彼が、今、目の前で、自分を守るために死んだ。
田中の頭の中は、真っ白になった。
責任。その言葉が、現実の重みを持って、彼の全身を押し潰す。
しかし、悲劇はそれだけでは終わらなかった。
「グオオオオオオオッ!!」
野営地の反対側から、地響きと共に、新たな雄叫びが上がった。もぬけの殻だと思われていたグレイロック砦から、解放されたはずの魔王軍の別部隊が、突如としてエルドリア軍の背後を襲ったのだ。
「な…ぜ…!? 魔族まで…!?」
エルミナが絶望の声を上げる。
「我らの仇は我らが討つ…! 貴様ら人間に、手柄は渡さぬ!」
魔族の指揮官らしきオークが、そう叫びながら、傭兵部隊にもエルドリア軍にも、無差別に襲いかかった。
陽動。罠。そして、三つ巴の混戦。
全ては、仕組まれていたのだ。聖都で見た、あの密偵の男の顔が、田中の脳裏に浮かんだ。あの時、報告さえしていれば…!
「タナカ様!」
エルミナが、田中の腕を掴んだ。
田中は、エルミナの手を握り返し、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
目の前で、仲間たちが次々と倒れていく。
傭兵に。
そして、魔族に。
ガレスの亡骸は、乱戦の中で、無惨に踏みつけられていく。
彼の「全肯定」の力は、信仰を持たない者には通用しない。
彼の「奇跡」は、偶然と勘違いの上に成り立っていた、ただの砂上の楼閣だった。
偶像は、音を立てて崩れ去った。
残されたのは、血と絶望と、自分の無力さに打ちのめされた、ただの「田中一郎」だった。
これが、戦争。
これが、人が死ぬということ。
会社での失敗など、ままごとに過ぎなかった。
田中は、激しい自己嫌悪と後悔の念に、奥歯をギリリと噛み締めた。頬を伝うのが、涙なのか、雨なのか、もう彼には分からなかった。




