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無能の烙印、有能の証明

社会に出ると人は有能か無能かにこだわるけれども、有能か無能かなんて相対的だ。

「なあ、あの窓際の田中さんって、いつも何してんスか?」

給湯室で、若手社員の佐藤が先輩の鈴木に小声で尋ねた。鈴木はコーヒーを淹れながら、やれやれといった顔で答える。

「ああ、田中一郎さん? もう48歳だっけな。あの人、バブル崩壊後の就職氷河期ギリギリでウチに滑り込んだクチだよ。で、見ての通り、ずーっとあそこが指定席」

「へえ…じゃあ、もうベテランじゃないですか。でも、なんかいつも課長に怒られてません?」

佐藤が不思議そうに首を傾げる。

「ベテランはベテランでもなぁ…。田中さんが出す書類、いっつも課長に『もっと工夫しろ』って突き返されてるだろ? 会議でたまに発言すりゃ『君のは的外れなんだよ』って一蹴。善かれと思って何か提案しようもんなら、『余計なことするな!』ってピシャリだ」

鈴木は肩をすくめる。

「うわぁ…きっつ…」

「だろ? だから、田中さんにとって、この会社はもう『お前は無能だ』って毎日言われてるようなもんなのよ。そういう烙印を押される場所、ってわけだ」

佐藤は湯気の立つ自分のマグカップを見つめ、小さく息を吐いた。


その日も、課長から「田中君、君の報告書、小学生の読書感想文かね?」と嫌味を言われ、ため息混じりに自席でインスタントコーヒーを啜っていた。視界がぐにゃりと歪んだのは、その時だった。


「――勇者様! お目覚めください!」


気づけば、田中は豪華な天蓋付きベッドの上にいた。目の前には、金髪碧眼の美しい姫君と、威厳ある国王、そして見るからに知恵者といった風貌の魔法使いが傅いている。


「ここは…?」

「ここはエルドリア王国。貴方様は、魔王を倒すため、古の預言に従い召喚された勇者、タナカ様でございます!」


姫――リリアと名乗った――は熱っぽく語る。

田中は混乱しつつも、長年の会社生活で培われた「とりあえず話を聞く」スキルを発動した。


「魔王…ですか。はあ、それは大変ですね」

気の抜けた相槌だったが、国王は深く頷いた。

「おお! さすがは勇者様! この状況を『大変』の一言で的確に把握されるとは! その冷静沈着さ、まさに勇者の器!」

魔法使いも続く。

「『はあ』という短い感嘆詞に込められた、事態への深い洞察! 我々には及びもつかぬ慧眼でございます!」


田中はポカンとした。いつもなら「もっと危機感を持て!」と怒鳴られる場面だ。


その後、城の騎士団長を紹介された。鎧姿の厳つい男だ。

「勇者タナカ殿、我が名はガレス! この国の剣、勇者様をお守りいたします!」

「あ、どうも。田中です。…ええと、剣とか持ったことないんですが」

会社では「そんなこともできないのか」と呆れられる発言。しかし、ガレスは目を輝かせた。

「なんと! 武器に頼らぬ強さをお持ちと! それでこそ真の勇者! 我々も固定観念に囚われず、新たな戦術を模索せねばなりませんな!」


田中は思った。「いや、普通に非力なだけなんだが…」


しかし、ガレスはじめ騎士たちは「武器に頼らぬ勇者様、万歳!」と盛り上がっている。もはや訂正するタイミングを完全に失っていた。


数日間、田中は城で「勇者様」としての日々を送った。

朝、目が覚めると侍女たちが数人がかりで身支度を手伝ってくれる。田中が寝癖のついた頭をボリボリ掻けば、「おお、勇者様は自然体であられる!」「気取らぬお姿こそ、民に愛される秘訣!」と侍女たちは囁き合い、感心する。会社では「田中君、みっともないぞ」と注意されるポイントだ。


食堂へ行けば、豪華な食事が用意されている。慣れないナイフとフォークの扱いに戸惑い、パンをポロポロこぼせば、料理長が飛んできて「なんと! これはパンくずを小鳥に分け与えるという、古の勇者の慈悲の儀式ではございませんか!?」と感動し、厨房に「勇者様がお示しになった慈愛の心をパンに込めるのだ!」と檄を飛ばす始末。田中は(いや、普通に不器用なだけなんだが…)と口をもぐもぐさせながら思った。


国王やリリア姫との歓談の時間も設けられた。

「勇者タナカ様、この世界の成り立ちについて、何かお気づきの点はございますかな?」

国王にそう問われ、田中は会社で上司に意見を求められた時のように、当たり障りのない返事を考えた。

「はあ…まあ、色々と複雑な事情がおありのようで…」

すると国王は目を輝かせた。

「なんと!この短期間で世界の複雑性を見抜かれるとは!リリア、聞いたか?勇者様の洞察力は我々の想像を遥かに超えておられるぞ!」

リリア姫も頬を染めて頷く。

「はい、お父様!タナカ様の静かなお言葉の裏には、深いお考えが隠されているのですね…!」

田中は(いや、本当に何も分かってないだけなんだけど…)と内心でため息をついた。昔、企画会議で同じようなことを言って「具体性がない!」と一蹴されたことを思い出す。


ある日、魔法使いのエルミナが、田中のために「魔力適性検査」を行うと言い出した。水晶玉に手をかざすよう言われ、田中が恐る恐る触れると、水晶玉はピクリともしない。

「む…これは…」エルミナが眉をひそめる。

(ああ、やっぱり俺には何の力もないんだな…)田中が落胆しかけた、その時。

エルミナがハッとした顔で叫んだ。

「なんと!勇者様の魔力はあまりにも強大すぎて、この程度の水晶玉では計測不能ということか!あるいは、既存の魔力の枠に収まらぬ、未知のエネルギーをお持ちなのかもしれません!」

周囲にいた文官たちがどよめく。「さすがは勇者様!」「規格外のお方だ!」

田中は(いや、多分ゼロなんだと思うけど…)と自分の手を見つめた。会社の業績評価が毎回「特記事項なし」だったのを思い出す。


そんな日々が続き、田中は徐々にこの世界の「肯定の嵐」に慣れ始めていた。何をしても、何を言っても、彼らは勝手に良いように解釈してくれる。それは、会社での日々とは真逆の、奇妙な心地よさがあった。まるで自分が本当に万能な存在になったかのような錯覚。


そして、ある日の朝食後。

国王が神妙な面持ちで切り出した。

「勇者タナカ様。実は近頃、城の近くの森にゴブリンの小隊が出没し、旅人を襲っているとの報告が上がってきております」

リリア姫も心配そうに眉を寄せる。

「まだ大きな被害は出ておりませんが、放置すればいずれ脅威となりましょう」

ガレスが田中に向き直り、力強く言った。

「勇者様!ここはひとつ、勇者様のお力をお示しいただく絶好の機会かと!もちろん、我々騎士団も全力でサポートいたします!」

皆の期待に満ちた視線が田中に集まる。

田中は内心(ええー…ゴブリンとか、ゲームでしか知らないし…しかも俺、戦えないんだけど…)と狼狽えた。しかし、ここで「無理です」と言ったら、この心地よい肯定の世界が崩れてしまうかもしれない、という妙な不安もよぎる。

そこで、彼はまた、会社で面倒な仕事を振られた時に、とりあえず時間稼ぎで言うセリフを口にした。

「なるほど…まずは、現状を把握することが肝要ですな」

すると、国王がパアッと顔を輝かせた。

「おお!勇者様は現場主義でいらっしゃる!まずはご自身の目で状況を確認されると!素晴らしいお心がけです!」

ガレスも興奮気味に頷く。

「左様でございますな!勇者様が赴かれるとあれば、ゴブリンどもも震え上がりましょう!早速、出立の準備を!」


田中は(いや、ただ見に行くだけって意味だったんだけど…なんか大事になってないか?)と思いつつも、もはや流れを止めることはできなかった。

こうして、田中は人生初の「試練」へと、半ば流されるような形で、しかし周囲からの絶大な期待と称賛を一身に浴びながら、向かうことになったのである。

彼の頭の中では「なんでこうなった…」という呟きと、「まあ、なんとかなるか…?」という、根拠のない万能感が奇妙に同居していた。


最初の試練は、城の近くに出没するゴブリンの小隊討伐だった。

リリア姫が心配そうに見守る中、田中はガレス率いる騎士たちと共に森へ向かった。

ゴブリンを見つけ、騎士たちが剣を抜こうとした時、田中はぼそりと言った。

「なんか…あいつら、お腹空いてるみたいに見えますね」

普段、会社の昼休みにお弁当を忘れた同僚に「腹減ってると力出ないよな」と言うのと同じノリだった。


瞬間、ガレスがハッとした顔で叫んだ。

「勇者様のご慧眼、恐れ入ります! 敵の弱点は飢え! 兵糧攻め、いや、この場合は慈悲による懐柔か!?」

騎士の一人が慌てて携帯食料を取り出し、ゴブリンの前に置いた。ゴブリンたちは警戒しながらも食料に群がり、満足するとどこかへ去っていった。


「おお…! 勇者様の深きお考え、戦わずして敵を退けるとは!」

「武力のみが解決策ではないと、身をもって示されたのだ!」

騎士たちの賞賛の嵐。田中は(え、マジで? あれでよかったの?)と内心首を傾げるばかり。


その夜、田中は故郷の「カレーライス」という料理を懐かしんで作り方を説明した。

「玉ねぎを飴色になるまで炒めて、肉と人参、じゃがいもを…スパイスを何種類か入れて煮込むんです」

料理長はそれを聞き、試作を重ねた。出来上がったものは、異世界の食材とスパイスで作られた未知の料理だったが、兵士たちの間で「勇者様の秘伝料理」として大人気になり、士気が爆上がりした。

「勇者様は食という側面からも我々を強化してくださる! なんという多才さ!」

「勇者様ならきっと、いや必ずあの魔王を討伐してくださります!!」


田中は、元の世界では評価されなかった「ちょっとした知識」や「何気ない一言」が、この世界では全て称賛と尊敬に繋がることに、最初は戸惑い、次に快感を覚えた。

会社で「無能」と蔑まれ続けた日々。ここでは、彼は間違いなく「有能」であった。


田中は、少しだけ口角を上げて微笑んだ。元の世界では決して得られなかった自信と高揚感が、彼を満たしていた。

(まあ、なんとかなるだろう。俺がいるんだから)

窓際おじさんだった彼の心には、本物の勇者のような不思議な確信が芽生え始めていた。


彼が本当に魔王を倒せるのか、それはまだ誰にも分からない。

少なくとも、田中一郎は今、人生で最も輝いていた。たとえそれが、壮大な勘違いの上に成り立っていたとしても。

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