二人の未来⑤
年が明けた。
サフィリナの生活は相変わらずだ。休日もなく朝から晩まで働いて、くたくたになってベッドに倒れこむ毎日。
それでも朝はいつも変わらずにやってくる。
瞼の裏側からなんとなく光を感じる。おかしい。いつもなら太陽が顔を出すころにはリリが起こしに来るのに。
「うぅ……ん……」
意識はあるのに瞼が重くて目が開かない。
体が重い。……寝ても体が疲れているなんて……。でも、起きないと。
体を捻ってなんとなく気合いを入れて瞼を上げる。
「おはよう、サーニャ」
サフィリナのぼやけた視界に、懐かしい黒髪の優しい笑顔。
「……最悪……見たくなかった……」
「サーニャ?」
「ドナの夢なんて、見たくないの」
そう言って目を閉じて、腕で両目を覆った。
「それは、ひどいな」
「……ひどいのは、あなたよ。……嫌いよ」
「俺は好きだよ」
「……うそつき。ドナは夢でもうそをつくのね。いやな人」
「……うそつき? 俺が? 早く帰ってこなかったから怒っているの?」
そう言ってサフィリナの両目を覆っていた腕をどかし、サフィリナの頬にくちづけをする。
「……え?」
驚いたサフィリナが目を大きく開き、目の前にいるドナヴァンの顔をまじまじと見つめた。
「夢じゃなかったら許してくれる?」
「え……?」
「帰ってきたよ」
「……ドナ?」
サフィリナは勢いよく上半身を起こし、ドナヴァンを見つめ、眉間にしわを寄せて険しい顔をした。
ぼやけた視点を合わせるような、そんな顔だ。
しかし、どんなにサフィリナが眉間にしわを寄せても、置物に姿を変えないし、サフィリナを起こしに来たリリと見間違えているわけでもなさそうだ。
「……帰って、きたの?」
「ああ、遅くなってしまったけど、帰ってきたよ」
「……」
サフィリナのぎゅっと結んだ口元が震える。
「……サーニャに会える日を、ずっと心待ちにしていた」
サフィリナの心臓が大きく速く動く。かすかに震える手でぎゅっとシーツをつかみ、鼻の奥のほうがツンと痛くなるのを感じながらうつむいた。
「……私は……待ってなんかいないわ」
「うん」
「待ってない」
「わかっているよ」
ずっと聞きたかったドナヴァンの優しい声。彼がいる。すぐ手の届くところに。
顔を上げたサフィリナの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「でも、会いたかった……」
「俺も、会いたかったよ」
そう言うと、サフィリナは勢いよくドナヴァンに抱きついた。すでにその顔は涙でグシャグシャに濡れ、ドナヴァンが少し乱れた金色の髪をなでると、サフィリナは次第に子どものように声を上げて泣きだした。
「遅いわ」
「ごめん」
「寂しかったんだから! わ、私は、本当に、寂しかったんだから!」
「ごめん、もうどこにも行かないから――」
「もう、帰ってこないと、思ってた……」
また、一人になってしまうのだと。
「俺の帰る場所はサーニャの所って決めているから」
「……」
愛おしさがこみ上げて、ドナヴァンの背に回したサフィリナの手に力が入る。ギュウギュウと抱きしめて久しぶりの温もりを堪能して、ドナヴァンの匂いを嗅いで、ようやくドナヴァンがここにいることを実感して、大きく息を吐いた。
それからドナヴァンの胸にぐりぐりと頭を押しつけていたサフィリナが、恥ずかしそうに顔を上げる。
「……おかえりなさい、ドナ」
「ただいま、サーニャ」
少し鼻先を赤くして微笑むサフィリナはかわいらしく、ドナヴァンはとびきりの甘い笑みを浮かべサフィリナを再び抱きよせた。
しばらく使われていなかった、ネルソン男爵邸の居間のソファーでくつろぐ屋敷の主は、久しく見せなかった穏やかな顔で、隣に座る男の肩にもたれかかっている。
人と会う約束もないから、と今日は仕事を一切しないと決めた。
甘い紅茶を飲んで体の中に流れていくのを感じながら、愛しい男の心地よい声を聞く。
「帰ってくるのが遅くなったのは、兄の手伝いをしていたからなんだ」
「ドナのお兄さん?」
「ああ」
思いがけない事故や、悪天候による災害で混乱している最中に父ブランドンが倒れ、急遽エドガルドが当主を代行することになった。
しかし、それなりに仕事を覚えているとはいえ、実務を引き継ぎしないまま代行するには無理があった。
対応の遅れからさまざまなところで問題が発生し、回復の兆しが見えない。
慣れない仕事に追われ精神的に追いつめられていたところに、思いがけずドナヴァンの帰郷とあって、エドガルドは心底安堵した顔をした。
「あんな兄を見るのは初めてだったよ」
エドガルドはなんでも完璧にこなす優秀な男だったから、顔色の悪い兄を見たときは罪悪感でいっぱいになった。
「両親も体調を悪くしていて、とてもじゃないけど兄が彼らに頼れる状態じゃなくてね。……その原因を作ったのが俺だから、どうしても兄の役に立ちたくてさ」
仕事を手伝い、社交を積極的に行い、プリシパル伯爵家の健在をアピールした。
そのうち父ブランドンと母カナリカの体調も徐々に回復しはじめ、半年もすると元気に歩きまわるようになった。
「そのとき、本当に俺が出ていったことが原因なんだと実感して、不謹慎ながら不思議な気持ちになったよ。どうしようもない息子だったけど、ちゃんと愛されていたんだなって」
もしエルシアに会わなければ、実家に帰ることもなかったし、そうなれば今ごろ兄は、両親はどうなっていただろうか?
そんなことを考えるとぞっとする。
「きっとエルシアと会うべくして会い、俺は帰るべくして帰ったんだと思う」
「そう……。ご両親とはちゃんと話をしたの?」
「ああ」
ドナヴァンが職人として頑張っていること、状況が落ちついたらザンブルフ王国へ戻るつもりであることを話したという。
「でも父は、職人の俺を認めてはくれなかった。それに、公爵家から俺宛てに求婚が来ていて、その話を受けようとしていたから、サーニャのことを話したらますます機嫌が悪くなって」
「そう……」
やはり親切な友人が教えてくれた、公爵令嬢との婚約の話は本当だったのか。
「反対されたのでしょう?」
サフィリナは、離婚歴のある領地も持たない他国の男爵。どう考えても反対される理由しか浮かばない。
「父はまったく聞く耳を持ってくれなかった。だけど、エルシアが俺の味方になってくれたんだ」
パーティーに参加したエルシアは、サフィリナにかなり心酔していたようで、ドナヴァンよりずっと熱く、サフィリナの素晴らしさを訴えてくれた。
そして、その素晴らしい女性を支えているのが、職人のドナヴァンである、と力説してくれたのだ。
ついでに、こんな自分勝手な人間をコントロールできるのは彼女しかいない、なんて毒も吐いていたが。
その様子を思いだして、ドナヴァンが小さく吹きだした。
「ドナ?」
「いや、エルシアがずいぶんたくましくなったなと思ってさ」
「そう」
ドナヴァンが家を出ていくとき、自分はただ泣くだけで引きとめることができずに後悔したから、二度と同じ後悔をしたくはないの、と彼女は笑っていた。
「それで、父が、君のことをいろいろ調べたんだ」
調べたといっても、世間的に知られていることだけ。
家族を失ったこと。離縁歴があること。事業家であること。綿産業の拡大やファイネルコットン。
中でも特にブランドンが驚いたのはロイヤル・パープルを復活させたことだそうで、興味津々に聞いてきた。
ドナヴァンの仕事に対しても一定の理解を示したらしく、かなり残念そうだったが職人を続けることを許してくれたとか。
「それで、父が、今度君を連れてきなさいだって」
「……え?」
「サーニャと話がしたいらしい。……あいさつも兼ねて、どうかな?」
申し訳なさそうな顔をして、控えめに聞くドナヴァン。サフィリナはクスリと笑う。
「もちろんよ。私もあなたのご家族にあいさつをしたいと思っていたの」
ドナヴァンがいかに重要な仕事をしているかを、サフィリナの口からしっかり説明して、彼の家族の不安を取りのぞきたい。そして、安心してサフィリナに預けてほしい。
ドナヴァンも家族が安心をしてくれれば、心置きなく仕事に没頭できるはずだ。
(ドナが気持ちよく仕事をできるよう、社長としての責任をしっかり果たさなくてはいけないわね)
サフィリナは己の重要な使命をしかと胸に刻んだ。
「サーニャ、ありがとう」
ドナヴァンがそう言ってサフィリナを抱きよせる。
「俺の家族に会ってあいさつを済ませたら、ついでに結婚式も挙げてしまおう」
「え?」
「あ、もちろん簡易でいいよ」
「は?」
「ちゃんとした式はこっちで挙げたいから」
「ちょ、ちょっと待って!」
サフィリナが慌ててドナヴァンから体を離して、顔を見あげる。
「結婚式……? あいさつって……」
そっち?
「べつに、時間を置く必要なんてないだろ?」
そう言ってドナヴァンがポケットから、小さなリングケースを取りだして蓋を開けた。そこにはキラキラと輝く指輪。
「これ……」
ドキンとサフィリナの心臓が跳ねあがる。
「俺は君に雇われている身だし、頼りないかもしれないけど……」
しかし、サフィリナは首を振る。
「サーニャがつらいときに、一番に顔を見たい相手が俺で、うれしいことがあったとき、一番に聞いてもらいたい相手も俺であればと思っている。そんなふうに寄りそって一緒に歩いてくれないか?」
少し顔を赤くしたドナヴァンを見つめるサフィリナの瞳に涙が浮かぶ。
「……私は、ドナを頼りないなんて思ったことはないわ。だって、あなたはいつだって私の期待に応えてくれたもの。……私も、あなたと寄りそって生きていきたい」
一人で前へ進むのではなく二人で。その相手がドナヴァンならきっと幸せな未来が描ける。
「サフィリナ。俺と結婚してください」
「はい、喜んで」
二人は見つめあい口づけを交わし、抱きしめあう。
しばらく忘れていた満たされる感覚が、サフィリナの体を駆けめぐり、埋めつくし、溢れでる。
それは自信に変わり勇気になる。
だから認めてしまおう。頑なに否定しても、本当はそうではないとわかっていたのだから。だから、もう意地を張る必要もない。
「本当は、あなたが帰ってくるのをずっと待っていたわ」
「サーニャ」
「あなたは絶対に私のもとに帰ってきてくれるって信じていたの。だって……私たちのあいだに約束なんて必要ないもの」
サフィリナはとろけるような美しい笑顔でドナヴァンを見つめ、ドナヴァンの体が熱を帯びる。この美しい人は、意地っ張りで素直で愛らしい。
ドナヴァンは甘い熱に浮かされたようにサフィリナの唇を塞いだ。
最後までおつきあいくださりありがとうございます。
本作はこれにて完結となります。
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