二人の未来③
「本当に素敵だったわ。きっと主催しているネルソン男爵は、広い知識と人脈を持った方ね。モデルに侯爵夫人を起用するくらいだもの。それにあの多彩なドレス……! ぜひ、一度ごあいさつをさせていただきたいわ」
エルシアは席を立つと辺りを見まわして、友人のパトリシアを捜した。少し遅れて来たためあいさつもしていないし、なによりネルソン男爵を紹介してもらわなくてはいけない。
「えっと……人が多い……。今日はピンクのドレスを着るって言っていたわね。えっと、ピンクのドレス、ピンク……のドレス。……え……?」
視線の先に想像もしていない人物を見つけたエルシアは、見間違いではないかとじっとその人を見つめた。
その人は長めの黒髪をひとつに結わき、品のいいスーツを着ている。すらりとした長身で、エルシアが知る彼より体格がよくなっている気がする。
彼の横に立つ美しい女性は誰だろうか? そもそも、なぜ彼がこの場にいるのか?
エルシアは人のあいだを縫って、その人物のもとまで行きぐっと腕を引いた。
「お兄さま?」
腕を引っぱられて驚いたドナヴァンは、相手の顔を見てさらに驚いた顔をして、それから、ぎゅっと眉根を寄せて困ったような顔をした。
「……エルシア」
「ここでなにをしているの……? 私が、私たち家族がどれほど心配をしたと思っているの! なぜ、なにも連絡をしてくれなかったの?」
エルシアは、場所も人の目も気にせず、涙を流してドナヴァンを責めたてる。
「エルシア、落ちつくんだ」
ドナヴァンは慌ててエルシアの肩を抱いた。サフィリナはその様子に驚いたが、それと同時に彼とよく似た容姿の女性になにかを察したようだ。
「皆さま、申し訳ございません。少し休憩をさせていただきますね」
サフィリナはていねいに招待客に頭を下げ、ドナヴァンを見た。
「ドナ、こちらへ」
ドナヴァンにそう言うと、サフィリナは二人の前を歩きだす。
人々の視線を集めた三人は、残念ながらそっとその場をあとにすることはできず、彼らが出ていったあとの会場は次第にざわめきが大きくしていった。が、それを収めたのはケイトリン。
「あら、せっかくのお披露目パーティーに主役がいなくなってしまいましたわね。でも、本当の主役はこのドレスたちよ。皆さま、ぜひこの機会に、新しいデザインを検討されてみてはいかがかしら? もちろん、私はすべてのデザインを手に入れるつもりよ」
「まぁ、それはちょっと欲張りじゃないかしら?」
ケイトリンの言葉に、前ペリエティ公爵夫人リザリアがクスクスと笑いながら言葉を足した。二人のとっさの機転でその場は和み、徐々にパーティーの雰囲気を取りもどしていった。
そのころ、エルシアは応接室、そしてサフィリナとドナヴァンは応接室の前の廊下にいた。
「私のことは気にしないで」
サフィリナがドナヴァンにそう言うと、ドナヴァンは申し訳なさそうな顔をする。
「すまない」
「いいのよ」
「……あとで、ちゃんと話を」
「ええ、もちろんよ。でも、今は彼女と誠実に向きあってちょうだい」
「……すまない」
いったいなにに対する謝罪なのか。
サフィリナは小さく息を吐くと踵を返した。
ドナヴァンはその後ろ姿を見つめ、それから静かに応接室に入ってドアを閉める。エルシアが座るソファーの前まで行ったドナヴァンは、涙を流しながら鋭く自身を見つめる妹の様子にたじろいだ。
ドナヴァンの知るエルシアは、こんな目をするような子ではなかったから。
「……元気だったか?」
ソファーに座り、ドナヴァンが頼りなく笑う。
「ええ、おかげさまで。お兄さまも、お変わりなさそうね」
「ああ」
エルシアは強い口調で返事をし、ドナヴァンは短く答えた。二人のあいだに沈黙が流れる。
「……お兄さまは、職人になったの? それとも、貴族の愛人でもしているの?」
除籍も覚悟で家を出ていったのに、こんな華やかな場所で上等なスーツを着て、美しい女性を横に侍らせている兄に怒りが湧くのは当然だ。
「職人になったよ」
「うそよ! このパーティーは、外国からも招待客が来る注目のパーティーなのよ? 職人が参加できるはずがないじゃない!」
「……」
普通ならそう考えるだろう。職人なんて平民の仕事だし、裕福でそれなりに名が知られていない限り、平民が貴族の集まるパーティーに参加できるはずがない。
「私の隣にいた女性は、ネルソン男爵サフィリナ・ナーシャ・ラトビア。今回のパーティーの主催者で、お披露目されているドレスは彼女が作ったものだ。まぁ、正確には彼女は繊維工場とブティックの経営者で、直接作っているわけではないけど」
「うそ……。あの女の人が、ネルソン男爵? アンティオークの経営者?」
エルシアが想像していた経営者像は、貫禄のある中年女性だったのに、まさかあんなに若くて美しい女性だったとは。
「私は、糸を作る紡績機や布を織る織機を作る職人をしている。彼女の会社でね」
「……職人? 本当に、職人なの?」
「ああ。今回お披露目されているドレスは、私が作った紡績機で糸を作って、私が作った織機で布を織っているんだ」
「……うそ……」
エルシアは信じられないという顔で、ドナヴァンを見つめている。
「本当だよ」
そう言ってうなずいたドナヴァンは、これまで見たことがないほど穏やかな笑顔だ。
「……お兄さまは、今の生活に満足しているの?」
「ああ」
「家を出ていったことを後悔していないの?」
「……ああ」
「そう……」
兄は本当に後悔していないのだ、と思うと寂しい。あの家が、出ていきたくなるほど兄を苦しめていたのだと実感すると、かなしくてたまらない。
「……お兄さまは変わったわね」
「そうかい?」
「ええ、とても生き生きしているわ」
「それなら、それは彼女のおかげだな」
「彼女? ネルソン男爵?」
「ああ」
サフィリナはドナヴァンをどこまでも自由にしてくれた。
「彼女と出会って、自分のやりたいことをやらせてもらって、やっと自分らしく生きられるようになったんだ」
ドナヴァンの表情から、本当に今の生活に満足していることがわかって、エルシアの鼻の奥がツンと痛くなる。
「ごめんなさい……。私、ひどいことを……」
そう言って両手で顔を覆ったエルシアは、大粒の涙を流して声を詰まらせた。
「いや、私も悪い。自分の責任から逃げて好き勝手したのは私だ。すまなかった」
幼いころからずっと居心地の悪さを感じていて、貴族として生きる自分の未来を想像することができなかった。息苦しくて息苦しくて、呼吸ができなくなる寸前で屋敷を出て、少しだけ自由な時間を過ごして屋敷に戻る。
そのたびに父ブランドンは失望の色を見せたが、彼は決してドナヴァンの手を離そうとはしなかった。それがますますドナヴァンの首を絞めていき、ついにあの屋敷では呼吸ができなくなってしまった。そして逃げだした。
「私は、とても弱くて。……すべてを兄さんに押しつけて逃げたんだ。そんな卑怯ものなんだ、私は。……本当にすまない」
自由を得たと心から喜んだ。もう二度と屋敷には帰らないと決めると、背中に羽でも生えているのでは、と思うほど体は軽くなり、心には穏やかな風が吹きぬけた。その風は心に降りつもった灰色の煤をさらい、目が眩むような光が降りそそいだ。
もちろん、現実はそんなに美しいものではなかったけど、それでも貴族の世界に身を置くよりずっとましだったような気がする。自分の望むことができない状況ではあったが、生きていることを実感することができたから。
「お兄さまは……家を出て幸せだったのね?」
「……ああ」
その言葉を聞いたとき、兄は本当に帰ってくるつもりはないのだとわかった。もうあの屋敷が彼の帰る場所ではないのだといやというほど理解した。
それでも、エルシアには彼に伝えなくてはいけないことがある。
「実は……まだお兄さまは除籍されていないの」
「そうか……」
もしかしたらとは思っていた。ブランドンはドナヴァンに厳しかったが、実際には情に厚い人だから。
「お父さまはすっかり元気を失くしてしまったの。お母さまもよ」
「……」
「今は、エドガルド兄さまが一生懸命頑張っているけど、このままじゃエドガルド兄さまも倒れてしまうわ」
「……そうか」
「一緒に帰りましょう? ドナヴァルト兄さまが帰ってきたら、お父さまとお母さまはきっと元気になるわ。エドガルド兄さまだって喜んでくださるはずよ」
しかし、エルシアの期待に応えることはできない、とドナヴァンは首を振る。
「私が生きていく場所はもう決まっている。どんなことがあっても、あそこに帰ることはできない」
「それなら! それなら、せめてお兄さまが生きていることだけでも教えてあげたいの。一緒に住もうなんて言わないわ。でも、一度帰ってちゃんと話をしましょう? このままでは、私たちは前に進めないわ」
「……」
「お願い、お兄さま」
エルシアの切実な願いは、決して無視できるものではなく。
少し眉間にしわを寄せて、しばらく考えていたドナヴァンだったが、顔を上げてエルシアを見ると、静かにうなずいた。
「わかった。……そうするよ」
「本当?」
「ああ」
「うれしいわ! きっと皆喜んでくれるはずよ!」
エルシアはそう言って無邪気に笑い、ドナヴァンは久しぶりに見た妹のかわいらしい笑顔を、複雑な気持ちで見つめていた。
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