一人きり⑧
ホルステイン侯爵邸の朝はとても早い。騎士学校に通っているジュエルスの起床時間が早いことから、セージやケイトリンの朝も早くなってしまったのだ。そのため、休日の今日も、朝日が昇りはじめたばかりだというのに、すでにセージとケイトリンは席に着いていて、紅茶を飲みながらそれぞれ手にした新聞を読んでいる。少し遅れてジュエルスがやってきて、間もなくサフィリナも食堂へとやってきた。
無理をしなくていい、と言われたが、一人のんびり寝ていることもできず、これまでよりずっと早い時間に起床するようになってから二週間。ようやくこの生活にも体が馴染んできたようだ。
「おはようございます」
「おはよう、リナ」
サフィリナのあいさつに笑顔で返すセージとケイトリン、そしてジュエルス。
全員が席に着くと料理が運ばれ、穏やかな朝食の時間が始まった。
「ねぇ、リナ。今日は一緒に遠出でもしない?」
食事を半分ほど食べたところで、ジュエルスがサフィリナに聞いた。
「遠出?」
「馬に乗ってさ」
「え? 馬に?」
「ああ。乗馬なんてしばらくしていないだろ?」
ジュエルスの言葉を聞いて、そういえばと気がついた。
「そうね、ぜひ行きたいわ」
サフィリナはかわいらしく微笑む。
「ああ、それがいい」
「ええ、そうね。気分転換は必要よ」
セージとケイトリンも賛成のようだ。
「決まりだね。食事が終わったらすぐに準備をしよう」
そう言ってジュエルスがニコッと笑った。
食事を終えると、サフィリナとジュエルスは着替えをして厩舎に向かい、馬に跨ると屋敷から一時間ほどの所にある高原へと向かった。中心街から離れたその場所は、ただ草原が広がっているだけで人けが少なく、のんびりとした時間が流れていて、ジュエルスのお気に入りの場所だ。
高原に着いて馬から降りたサフィリナは、周囲を見わたして感嘆の溜息をついた。
「素敵ね」
ジュエルスからは草が生えているだけと聞かされていたが、実際にはまったくそんなことはなく、背の低い黄色の小さな花が一面に咲いていて、所々にサフィリナの膝くらいの高さの花も咲いている。ふと辺りを見まわしていたサフィリナの視線が止まった。
「もしかして……ルドベキア?」
ネルソン男爵邸の庭にも咲いていた花だ。
「なんて素敵なの」
そう言って、ルドベキアの一群へと近づく。
「私、花の中でもルドベキアが一番好きよ」
ルドベキアはキク科の花で、一輪ではそれほど強くない香りも、大輪になればはっきりとわかる。
「とてもいい香り」
ルドベキアに顔を近づけ、香りを楽しむサフィリナ。
「エルも香りを嗅いでみて」
そう言ってサフィリナが手招きをし、ジュエルスがそれに応じて顔をルドベキアに近づけた。
「うん、いい香りだ」
「そうでしょ?」
サフィリナはジュエルスの様子を見て満足そうな顔をしている。
「ルドベキアはね、隣国スリザンロード王国が原産国なんだけど、二十年ほど前くらいからザンブルフ王国でも見られるようになったのよ」
「つまり、外来種ってことか」
「そうなの。でも、誰かが種を持ちこんだのか、偶然持ちこまれたのかはわからないけど、こんなに素敵な花を見ることができるのだから、幸せなことよね」
ジュエルスは、そうだな、とうなずいた。
「実はね、ルドベキアは花びらの色や形でわけると十種類以上もあるの。中でも、赤い花びらのレッドキャニオンは、スリザンロード王国でもめったに見ることができないんですって。でも、私は緑がかった黄色い花びらの、フォレストグリーンという種類が好きなの。これもとっても珍しい花でね――」
サフィリナはつらつらとルドベキアについて語り、ジュエルスはうなずきながら話を聞いた。
「――ね? 素敵だと思わない」
「ああ、とても素敵だと思うよ」
ジュエルスから共感を得ることができ、ますます満足そうな顔をしているサフィリナ。ジュエルスはそんなサフィリナを見てクスクスと笑う。
「リナが好きなら、屋敷の庭にルドベキアを植えてもらおう」
「え、でも」
「俺もルドベキアがとても気に入ったんだ。それに庭に咲いていたらいつでも楽しめるだろ?」
ジュエルスがそう言うと、サフィリナはうれしそうにうなずいた。
二人はしばらく花の美しさを楽しんで、それからサフィリナは草の上にごろりと寝ころがった。
「気持ちいいわね」
サフィリナは幼いころから野を駆けまわっていて、草の上に寝ころぶことなんて当たり前だったせいか、ついなにも考えずに貴族令嬢らしからぬことをしてしまった――と気がついて慌てて起きあがろうとしたが、それよりも先にジュエルスもサフィリナの横に寝ころがる。
「ああ、気持ちいいね」
「……っ」
きっとジュエルスはこれまで、平気で草の上に寝ころがる令嬢なんて出あったこともないだろう。それに気がついてサフィリナは顔を赤くした。しかしジュエルスはそんなことまったく気にしていないようで、心地のいい風を受けて、機嫌のよさそうな顔をしている。
(……まぁ、いっか)
いまさら体裁を取りつくろうのも面倒だし。
ゆっくりと風に流されていく雲を見つめ、ジュエルスが体を捻ってサフィリナのほうを向くまで、二人は風を頬に感じながら黙りこんでいた。
「……リナ、大丈夫?」
気遣わしげにジュエルスがサフィリナに聞く。
「なにが?」
「いや……」
「フフフ、心配してくれているの? 私は大丈夫よ。いつまでもかなしんでいられないもの」
そう言ってサフィリナが笑顔を見せた。
「そうか。……でも、かなしいときはかなしんでいいんだよ?」
「……ありがとう。でも、大丈夫よ」
「……そう、か」
二人きりのこのときでも、サフィリナがジュエルスに、その心の奥にしまったかなしみを吐きだすことはない。
自分が頼りないからだろうか? もっと信頼の置ける関係だったら違ったのだろうか?
そんな悔しい気持ちをぐっと押さえて、ジュエルスは努めて優しい笑顔を見せる。今、彼がサフィリナにしてあげられることはそれくらいだ。
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