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なぜ私が④

 クローディアは疲れて重くなった足を必死に動かして、どうにかホテルへと戻った。そして自身の部屋へ向かおうとしたとき、部屋の奥からホッとした表情でヨハンがやってきた。


「ああ、やっと帰ってきた。早く君に言いたいことがあったんだ」


 なにがやっとだ。予定よりずっと早く帰ってきたというのに。


「……今は疲れているのよ。あとにして」


 クローディアは不機嫌に言いはなつ。


「いや、どうしても今聞いてほしい。実は、投資先が決まりそうなんだ」

「は?」


 ヨハンは早く話をしたい、とクローディアの手を引いてリビングまで行き、クローディアをソファーに座らせた。


 そしてニコニコしながら紅茶を淹れ、カップとクッキーをクローディアの前に置く。


 ヨハンはクローディアが座っているソファーの向かいに腰を下ろし、クッキーをひとつ口へ放りこんだ。


 クローディアは不機嫌な顔をしながら、カップに口を付ける。


「……それで?」


 クローディアは面倒臭そうに聞いたが、ヨハンはそんな態度にはすっかり慣れてしまっているのか、まったく気にする様子も見せずに顔を輝かせた。


「実は、さっきまでネルソン男爵の屋敷にいたんだ。そこで投資の話をしてきた」


(なによ! またあの女なの?)


 クローディアは聞きたくもない名前を聞かされて顔をゆがめたが、ヨハンはそんなことを知る由もなく話を続けた。


 サフィリナは新しい染色技術を開発するための投資家を募っていて、すでに大物貴族たちが投資に名乗りを上げていた。


 しかしヨハンはサフィリナと面識もないし、資金も少ないため自分など歓迎されないだろう、とずっと声をかけられずにいた。が、彼女の人あたりのいい笑顔を見て決心し、知人に頼んでサフィリナと顔をつないでもらったのだ。


「今日はもっと詳しく話を聞かせてもらうために、屋敷にうかがったんだ」


 ヨハンが興奮気味に話をしながらクローディアを見ても、クローディは不機嫌な顔をしたままヨハンと目を合わせようともしない。いつものことだ。


 サフィリナの屋敷に集まったのは、ヨハンのほかに三人の投資家。中には平民もいたが、皆、人望と財力に申し分のない人たちばかり。


 対してヨハンは、節約をして金を集めなくてはならないほど金に余裕がなく、その場にいるのが恥ずかしかったくらい。


 それに、ヨハン以外の人たちは、すぐにでも契約する準備があると乗り気で、彼らの勢いに気後れしたヨハンは、いつまでもサフィリナに話しかけることができずにいた。


 さらにヨハン以外の人たちはサフィリナと次に会う約束を取りつけていくのに、自分は断られるのではないかと思うと次の約束なんて口にすることもできない。


「場違いって私のためにある言葉だったんだなって思ったよ。ハハハハ」


 なぜ、そんな情けない話を笑いながらするのか理解できない。プライドは? 悔しいと思わないの? そんな言葉がクローディアの口からこぼれでる前に、ヨハンが言葉を続けた。


「私以外の人は帰っちゃってさ、私もさすがに居づらくなって帰ろうとしたら、ネルソン男爵が君の話をしてきたんだ」

「……」

「君、昨日男爵と話をしたんだろ? びっくりしたよ。まさか君がネルソン男爵と知り合いだったなんてさ」


 名前が出たついでに少しクローディアの話をして、勢いがついたところで自分も投資をしたいと申しでたところ、サフィリナはにこやかにうなずき握手を求めてきた。


「次に会う約束も取りつけることができたんだ。君のおかげだよ。本当にありがとう」


 そう言ってヨハンは顔を輝かせる。


「染色の研究をしているペスマン氏は染色の第一人者で、とても有名な方なんだ。新しい研究も間違いなく成功するよ。その研究に投資できるなんて本当にラッキーなことだよ」


 そう何度もくり返すヨハン。


 ヨハンの声が軽くなればなるほどクローディアの気分は落ちこみ、イライラが募る。ついに我慢ができなくなったクローディアは、スクッとソファーから立ちあがった。


「ディア?」


 ヨハンは驚いてクローディアを見あげたが、クローディアはヨハンと目を合わせることもなく寝室へと入っていった。そしてバタリとベッドに倒れこむ。


 なぜこんなにも違うのか。サフィリナと自分の違いはなんなのだろうか?


「最近こればっかり……」


 自分の未来は輝いていたはずだった。それなのに、いつの間にかこんなにも惨めな人生になってしまっている。こんなはずではなかったのに、なぜ――。


「クローディア」


 ドアの向こうからヨハンの声が聞こえる。


「……」

「なにかあったのかい?」


 しかしクローディアは答えない。


「……もしかして、気に入ったドレスがなかったのかい?」


 クローディアはベッドのシーツをぎゅっと握りしめた。


「……そうじゃないね」


 気に入ったドレスがなかったのではなくて、買えるドレスがなかったのだ。


 ヨハンはそう理解して申し訳なさそうに口を開く。


「……ごめん、私が不甲斐ないばかりに君には苦労ばかりかけて」

「……」

「でも、きっと君が欲しいものを買えるようになるから、もう少しのあいだだけ我慢をしてくれ」


 投資で得た利益を元手にさらに投資をする。大きな金額ではないけど焦らずにやっていけばきっと――。


「……そんなに簡単にいかないわよ……」


 小さく呟いたクローディアの声がヨハンに聞こえたのかはわからない。しかし、ヨハンは言葉を続けた。


「きっとうまくいくよ。なんといっても君は私の幸運の女神だからさ」

「……なにを言ってんのよ」

「君が私と結婚をしてくれてから、私は毎日が楽しいんだ。君には華があって、そこにいるだけで周りが輝いて見えるし、君がいると頑張ろうと思えるんだ。君はいつも不機嫌な顔をしているし、私も……まぁ、ときには腹が立つこともあるけど、私たちの関係って案外悪くないと思うんだよね」

「……」

「だからさ、お互いもう少し言いたいことを言って、信頼を深めていけたらいいなって思うんだ」

「……」

「……機嫌が直ったら、ゆっくり話をしよう」


 それっきりヨハンの声はしなかった。クローディアはベッドに倒れこんだまま、壁の複雑な模様を見つめていた。


 頭の中にこれまでの出来事が駆けめぐる。


 ヨハンと結婚をしたことも今の生活も、自分が望んだものではなかった。クローディアが本来歩むはずだった未来は、もっと美しく輝かしいものだったのに、あるとき突然まったく別のものになってしまった。


 でも、ジュエルスの婚約者に選ばれなかったのは、自分が努力をしなかったからで、こんな惨めな思いをしているのは、自分が立場を弁えていなかったから。いつまでも、過去にとらわれてばかりで今を見ていないから。


「わかっているのよ、本当は。ただ――」


 認めることができなかっただけだ。もう、昔のようにはなれないと。


 そもそも、過去のクローディアだって自分の力で輝いていたわけではない。


 ジュエルスやアレクサンドロ、そしてマシュートと一緒にいたから、周囲の人たちがクローディアにすり寄ってきていただけ。


 ホルステイン侯爵家の分家の娘だからケイトリンがかわいがってくれただけ。それだけなのだ。決して自分の力ではない。


「わかっているの。もうわかっているのよ……」


 シーツに顔をうずめると、流れた大粒の涙がすべて吸いこまれていった。


 言葉にできない正体不明の感情を、大粒の涙と嗚咽と共に吐きだすと、それと一緒に、クローディアの表面に張りついていた倨傲がボロボロと剥がれおちていく。


 それは、これまでクローディアがクローディアであるために塗りかためた張りぼてのような矜持で、今のクローディアには無価値なものだ。


 クローディアが寝室を出たのは、それから三時間ほどしてから。


 普段厚塗りされている化粧は崩れ、目元も鼻先も真っ赤なまま。正直に言えば、普段のクローディアからは想像できないほどひどいありさまだ。


 しかし、ヨハンはそのときのクローディアの表情を、そしてその日の出来事を生涯忘れることはない。


 クローディアが一歩前に踏みだしたその日のことを。


読んでくださりありがとうございます。

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