狙われたドレス⑨
「だからといって、こんな時間は迷惑ではないかしら?」
日が沈みかけた夕闇の中、馬車を走らせているサフィリナは、ジェイスの「時間が開けばますます気まずくなってしまいます」という強引な言葉に押されて、ドナヴァンの家へと向かっている。すでにエリスは戻ってきていて、家にはドナヴァンが一人。エリスの話では、ドナヴァンは屋敷から帰ってくるなり自室にこもり、それ以降顔を見ていないという。
エリスは「お食事の用意だけはしてきましたけど、いったいどうしたのでしょうね?」と首を傾げていたが、その理由を知っている屋敷の使用人たちは、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「こんな時間に行って、なにかあったらどうするのよ! ……いえ、なにかってべつにあるはずないんだけど! でも、男女が二人きりよ? なにかあるかもって警戒するのは普通よ」
大きな独り言で自分を納得させようとしているのか、自分を擁護しようとしているのか、とにかくサフィリナは落ちつかない。
そんなことをしているあいだにドナヴァンの家に到着し、御者が馬車のドアを開けた。
「ありがとう」
そう言って御者の手をとって馬車を降り、家の扉の前に立つ。すでに二階のドナヴァンの自室から出てきているのか明かりは消えていて、一階に人影が見えている。
サフィリナは大きく深呼吸をし、それから意を決して扉をノックした。しかし返事がない。もう一度ノックをしようとしたところで、扉の向こう側から声が聞こえた。
「誰?」
「……私です」
「私?」
「……サフィリナです」
「……」
普段だったら、ノックをして返事も待たずに扉を開けるが、今日ばかりはそれもできずにドナヴァンの許可を待っている。
少しして扉が開き、ドナヴァンが顔をのぞかせた。
「こんな時間になにをしに来たの?」
「話を、したくて」
「俺はする気はないよ。帰ってくれ」
そう言って扉を閉めようとする。
「ドナ、お願い。話を聞いて」
サフィリナの必死な声に諦めたのか、ドナヴァンは溜息をついて扉を少し開けた。
「……入って」
そっけなくそう言ってドナヴァンは扉から離れ、サフィリナはおずおずと中へ入っていった。
御者は中へ入っていくサフィリナの背中を見つめ、心の中で、頑張れ、サフィリナさま! と拳を握って声援を送った。
中に入ると一番に目に入るのは大きな織機。作業場を抜けて奥へ行くと小さな食堂と居間があって、居間に置かれたソファーには先ほどまで座っていたと思われる乱れと、ソファーの前に置かれている低めのテーブルには、ワインが注がれたグラスが置かれている。
「ワイン、飲んでいたの?」
「少しね」
食堂のテーブルにはエリスが作った料理が並べられているが、まったく手をつけていない。
ドナヴァンはサフィリナの分のグラスを持ってきて、そこにワインを注ぎ、自身が座っていたソファーの向かい、普段サフィリナが座る場所にグラスを置いた。
「私、ワインは飲めないわ」
「……飲まなくてもいいよ」
そう言ってボスンとソファーに腰を下ろしたドナヴァンは、グラスを傾けてワインを飲みほした。
「……」
少し勢いよくグラスを置いたせいで、カンと硬い音がする。
「それで、なにしに来たの?」
変わらず冷たい視線を向けるドナヴァンだが、サフィリナと目が合うとぷいと逸らす。
「……」
なにから話したらいいのだろうか? 取り付く島もないとまでは言わないが、明らかに居心地の悪そうな顔をして、サフィリナとかかわりたくないと全力でアピールしているドナヴァンが、いまさらサフィリナの話を聞こうと思うだろうか? そう思うと、急に先ほどまでの勢いが消沈し、声が少し小さくなった。
「謝りに。……それから、ちゃんと話をしたい」
「……謝られることなんてないけど」
「……私、あなたにうそをついたわ」
「……」
しかし次の言葉が出てこず、サフィリナはうつむいて口をぐっと結んだ。ドナヴァンが口を開くことはない。いったいどんな顔をしてサフィリナの言葉を待っているのだろう。苦々しく思っているのだろうか? そんなことを考えると顔を上げることもできない。
サフィリナは大きく息を吐いて決心したように顔を上げ、ドナヴァンの瞳を見つめて口を開いた。
「あなたを手放したくないのは優秀な職人だからって言ったけど、本当は違うわ。あなたは、ドナは私の大切な人だから、だから、どこにも行ってほしくないの。あなたのことが、好きだから……失いたくなかったの」
体がひとつの心臓になってしまったのではないかと思うほど、全身で早鐘を鳴らし、頭の中に心臓音が響く。握りしめる手が震え、体中が熱い。きっとサフィリナの顔は真っ赤になっているはずだ。
(なにか言って)
心の中で訴えても、うつむいたドナヴァンは顔を上げないし、口も開かない。しんと静まりかえった部屋がますますサフィリナの緊張を煽るのに、ドナヴァンは物音も立てない。
(怒っているのかしら? それとも呆れている?)
次の瞬間ドナヴァンの長く大きな溜息が聞こえて、サフィリナの体がビクンと震えた。サフィリナの瞳にわずかに浮かぶ涙は緊張のせいだ。目の前に座っているドナヴァンは、体を前かがみに倒し額に手を当てている。
「ド、ナ……? あの……」
「サーニャさぁ、やめてよ、そういうの」
「え……?」
ドナヴァンは前かがみに体を倒したまま、 再びこれでもかというほど大きく息を吐く。きっとサフィリナの手の平を返したような態度に呆れてしまったのだ。
「ドナ……」
呼んでも返事はない。きっと、サフィリナへの気持ちもなくなってしまったのだろう。面倒くさいと思っているかもしれない。
(……もう、だめなのね)
緊張がかなしみに変わり、涙がこみ上げてくる。
(ここには……いられないわ)
「ごめんなさい、勝手なことばかり言って。……帰るね」
「待って!」
そう言ってドナヴァンが少し上半身を起こし、顔を半分ほど上げてサフィリナを見た。
「え……?」
ドナヴァンの顔が額まで真っ赤になっていることに気がついて驚いた。
「俺さ、心の準備ができてなかったんだよ。本当に……そういうのやめてよ」
「え? な、に……?」
ようやく上半身を起こしたドナヴァンが、赤くなった顔を片手で覆ってそっぽを向く。
「俺、八つ当たりしたのに、本当に恥ずかしい」
「八つ当たり?」
視線だけを動かしてサフィリナを見たドナヴァンは、ますます大きな溜息をつく。
「サーニャの言葉に腹が立っていじわるをしたんだ」
「え? いつ?」
まったくそんな記憶はないのだけど。
「屋敷で、あとさっきも」
わざと「さようなら」と言ってサフィリナの執務室を出ていった。そうやって去っていくドナヴァンを見て、サフィリナに傷ついてほしかった。
そして今は、話すことなんてないと言って追いかえそうとした。本当は驚いてあたふたしていたし、来てくれてうれしかったのに、緩んだ顔を見られるのがいやで、そっけない態度をとって顔を隠した。紅茶を淹れようと思ったのに、動揺してワインを用意してしまったのは失敗だ。
「みっともないことをして……本当、情けないよ」
サフィリナからそっぽを向いたまま、独り言のように呟きチラッとサフィリナを見る。そのサフィリナは、さてこの状況をどう判断したらいいのか、と思案をしている。
結局彼は怒っているのか怒っていないのか。もしかして、怒っているというより照れている? 都合よく考えすぎ?
「……もう、怒ってないよ」
サフィリナの考えていることがわかるのか、ドナヴァンはそう言ってそれからクスッと笑った。
「最初から本当は怒っていない。呆れてはいたけど」
「呆れ……どうして?」
ドナヴァンの言葉に首を傾げたサフィリナを見て、なぜか機嫌をよくしたドナヴァンは、サフィリナの横まで来て隣にボスンと座り、サフィリナの顔を見つめた。
「あ、あの……」
突然距離が縮まったことに驚いたサフィリナだが、逃がさないとばかりにドナヴァンがその細い体を抱きしめた。
「俺のことを好きなくせに、気がつかないふりをしてうそをついたからだ」
「――っ! き、気がつかないふりなんて……」
しかしサフィリナが言いおわるより先に、ドナヴァンが大きく耳もとで息を吐いて「だめかと思った」と呟いた。
「え?」
「サーニャが逃げてばかりいるから、正直だめかと思った。……とりあえず酒でも飲むかと思ったけどそういう気分でもなくてさ」
実はグラスに注がれたワインは、ひと口も飲んでいなかったらしい。
「そ、そう……」
サフィリナの心臓かドナヴァンの心臓かわからないけど、サフィリナの耳に大きな鼓動が聞こえる。
「愛している」
「……」
これまで聞いたことがない、甘くとろけるような声がサフィリナの耳に入ってきて、そのまま体中をとろとろと溶かしていく。恥ずかしさとうれしさと緊張で、ドナヴァンの服を握りしめた手に力が入り、湯を沸かせるのではないかと思うほど顔が熱い。
「私も……愛しているわ」
認めてしまえばこれまで悩んでいたことなんて、本当に些細なことだったと思えるほどどうでもよくなってしまう。サフィリナを包みこむ腕の力強さに身を任せ、温もりを存分に堪能すれば、どうして悪いことばかり考えてしまっていたのかと、少し前の自分に説教をしてしまいそうだ。
「俺は絶対にサーニャから離れないから」
「……うん」
「俺に首輪、つけてもいいよ?」
「フフフ、考えておくわ」
本当に用意してみようかしら? なんていたずら心が湧いてサフィリナがクスリと笑う。
「くちづけ、したい」
ドナヴァンの甘えるような声に耳をくすぐられ、サフィリナの体を熱が駆けめぐる。
「サーニャ、顔を上げて?」
サフィリナは言われるまま顔をゆっくりと上げる。頬は赤く上気し、瞳がしっとりと潤んでいる。
ドナヴァンの手が頬に触れるとサフィリナの体がかすかに震え、愛しい男の唇を見つめていた翡翠色の瞳は、唇が重なるより先に静かに閉じられた。
二人の唇が重なり、探るようにドナヴァンの舌がサフィリナの口内に差しこまれ、二人の舌が絡みあう。甘い吐息が二人きりの空間に艶めかしく響き、十分に堪能したところでようやく唇が離れた。
体をドナヴァンに預けたサフィリナは、頬をその胸に押しつけて甘い余韻に浸っている。サフィリナの金色の美しい髪をなで、その頭上にくちづけを落としたドナヴァンが、サフィリナの耳元で囁いた。
「今日……泊まってく?」
「な――っ! そ、そんなのだめよ!」
驚いてドナヴァンから体を離したサフィリナ。
「ハハハハ、冗談だよ」
「そんな冗談はやめて」
そう言いながら心の中では、もっと強引でもいいのに、なんて残念に思っていることをドナヴァンは知らない。
その日二人は、御者が扉を叩いてサフィリナを呼ぶまで、甘い時間を過ごした。
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