狙われたドレス⑧
「サフィリナさまが負った傷はとても大きく、私など到底想像もできないほどの苦しみだったことでしょう」
その言葉にサフィリナは大きく首を振る。
「あのとき、本当は私どもがお支えできればよかったのですが、それもかなわず歯がゆい思いをいたしました」
「ジェイス……」
サフィリナがホルステイン侯爵邸で生活をすることを選んだとき、少なからず落胆したのは、自分たちではサフィリナを慰めることはできないのだと思いしらされたからだ。
「ですから、せめてサフィリナさまがお戻りになったときには、気持ちよく過ごしていただこうと思っておりました」
フルディムの仕事を継ぎ、慣れないながらも一生懸命仕事に取りくむ姿を見ていたし、ジュエルスが行方不明になってからは、ホルステイン侯爵家を支えようと頑張っていたことを知っている。
だからサフィリナが帰ってきたときくらい、ゆっくりと過ごさせてあげたいと思っていた。それと同時に、自分たちにはそれくらいしかできることがないことが心苦しかった。
「そうだったの」
「思いかえせば、サフィリナさまは人のことばかりでしたな」
「え?」
使用人やホルステイン侯爵家、従業員のことを一番に考えて自身を二の次にしている、とジェイスが指摘する。
「そんなことないわ」
サフィリナが否定しても、ジェイスは首を振る。
「いいえ。今でもサフィリナさまは人のことばかりで、わざと自分の幸せから目を背けているように見えます」
「そんなつもりは……」
サフィリナがジェイスを見ると、ジェイスはニコッと笑った。
「僭越ながら、私はサフィリナさまを孫のように思っておりました」
サフィリナは驚いたように目を見ひらく。
「こんな爺にそんなふうに思われてご不快とは思いますが」
するとサフィリナが首を振った。
「そんなことないわ。私……とてもうれしい」
「ハハハ、そう言っていただけて私もうれしいです。しかし、私も七十二といい歳です」
一般的にはとっくに仕事を引退している年齢だ。
「ごめんなさい、私が不甲斐ないばかりに」
「まったくです。私は早くひ孫が見たいので、いつまでも仕事を辞めることができません。それもこれもすべて不甲斐ないサフィリナさまのせいです」
「……は? ひ、ひ孫?」
想像もしていなかった言葉を耳にして驚いたサフィリナは、涼しい顔をして微笑むジェイスを見て顔を赤くした。
「大切な人がすぐ近くにいるのに、その手をふり払うのはいかがなものですかな?」
「もしかしてドナヴァンのことを言っているの?」
「ほかに誰がいますか?」
サフィリナの言葉に即答するジェイス。サフィリナは次に続く言葉が見つからないまま唖然としている。
「彼はなかなかいい男ではないですか」
「な、なにを言うの」
「腕のいい職人だし頼りになる。なによりサフィリナさまをとても大切に思っておりますからな」
サフィリナは驚いた顔をしてジェイスを見た。なぜ、ジェイスはそんなことを知っているのだ、と。そんなサフィリナの思いを察したのかニッと口角を上げたジェイス。
「見ていればわかります。私はそれなりに経験の豊富な爺ですからな」
経験豊富とは? もしかしてジェイスは恋愛の達人なの? というサフィリナの心の声は置いておいて。
「サフィリナさまも、彼のことを憎からず思っていらっしゃるのではないですか?」
「私も……憎からず……」
一気にサフィリナの顔が赤くなる。
「そ、そんなこと。いえ……やっぱり……そうなの、かも……」
自身の熱くなった頬を両手で覆って恥ずかしそうにジェイスを見ると、子や孫を見まもっているかのような顔をしたジェイスがニコニコしている。
「でも……私、彼にひどいことを言ったの」
それにやっぱり躊躇してしまう。彼の優しさを知っていても、彼の気持ちを知っていても、その先を想像してしまうのだ。
「誰しも、出会いがあり別れがあります」
「わかっているわ……」
「怖がってその場にとどまっていたら、手に入るはずだったものも手に入れることができなくなってしまいます」
「……」
サフィリナはカップの持ち手に手をかけ、かすかに揺れる紅茶を見つめた。
「もし、彼がサフィリナさまを裏切るようなことがあったら、私が容赦しません」
「え?」
ジェイスの少し過激な言葉に驚いて、じっと彼を見つめる。まさかドナヴァンに対して乱暴なことをすることはないだろうが、ジェイスは主に忠実な男だ。
「しかし、それは皆が思っていることです。皆、サフィリナさまを守るためならなんだってやる気概だけは持っているつもりですよ」
「ジェイス……ありがとう」
「まぁ、彼に限ってはそんな心配もしておりませんがな」
ドナヴァンは少々マイペースだが包容力があり、なかなか情熱的だ。
「もし身分を気にしているのなら、その必要はないでしょう。旦那さまは貴族同士の結婚にこだわっていらっしゃいませんでしたから」
「……そんなこと気にしていないわ。だ、だいたい結婚だなんて」
今はそんなことを考える余裕もないというのに。
「その前に、もうドナは私と話をしたくないかもしれないわ」
サフィリナに失望したような表情を浮かべていたドナヴァン。彼の言葉を思いだせば、今でも泣きたくなる。
「それなら、このまま雇用主と従業員の関係を続けますか?」
「……」
ジェイスの問いに即答することができない。なぜなら、もう自分の気持ちを自覚してしまったから。でも、踏みだせないのは、どうしても自分のもとを去る姿を想像してしまうから。
「雇用主と従業員の関係なら……彼を失うことはないでしょ? 彼の望む環境であれば、ずっと――」
「そんな考えはおやめください。間違いなくお二人の関係はすでに以前とは違います。それはサフィリナさまが一番わかっていらっしゃるはずです」
ジェイスはそう言いながら、サフィリナのカップにお茶を注ぐ。
サフィリナは複雑そうな笑みを浮かべた。正しすぎるジェイスの言葉がサフィリナに逃げ場を与えず、向きあう以外に選択肢がないということを突きつけた。
少しのあいだ黙りこんでいたサフィリナが、カップに注がれたお茶を見つめながら口を開く。
「私は、どうするべきなのかしら?」
「彼に素直な気持ちを伝えるのです。先のことを心配したところで、向きあわなくては心配する未来さえ手にできません。何度も言いますが、私の老い先はそれほどながくありませんので、早めにひ孫を抱かせていただけるとうれしいのですが」
「……フフフ」
思わず頬が緩む。冗談とも本気ともとれるその言葉が、不思議なことにサフィリナの背中をぐっと強く押してくれた。
(べつに彼と結婚を考えているわけではないけど……)
素直な気持ちをぶつけてくれたのだから、せめてこちらも素直になるべきだ。
「私……頑張ってみるわ」
これまでのように接してくれなくてもいい。彼の気持ちがなくなったとしても、冷たくされたとしても仕方がない。一歩踏みだして臆病な自分と決別しなくてはいけない。そうしなくては本当の意味で前に進むことなんてできないから。
「その意気です。もし玉砕したときには、旦那さまが大切にしまっていた上等な酒を飲みほして、きれいさっぱり忘れてしまいましょう」
なんてとんでもないことを言ってジェイスは楽しそうに笑った。
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