狙われたドレス⑥
間違いなくそれはリリの声ではなく、しかしサフィリナが聞きたいと思っていた声だ。
「どうして?」
声に驚いて振りかえった先には、やはり思っていた人が立っていた。
「元気か?」
お湯とクッキーが盛られた皿をのせたワゴンと一緒に、執務室に入ってきたドナヴァンは、驚いて目を見ひらいているサフィリナにお構いなしにお茶の準備を始めた。
「あれ? そういえば、なんでこんなに茶葉がいっぱいあるんだ? えーっと、これはハーブティーかな? サーニャはなにが飲みたいんだ?」
「え? あ、なんでも……」
「そうか、それならこれでいいな」
ドナヴァンはそう言って適当に選んだ瓶の茶葉をポットに入れ、お湯を注いだ。
「――アチッ!」
勢いよく注いだお湯が跳ねて、ドナヴァンの手に当たったようだ。慌てて手を引っこめた勢いで、ポットからさらにお湯がこぼれる。
「うわっ、なんでだよ」
慌ててお湯の入ったポットを置いてクッキーののった皿を移動しようとしたら、五枚のうち三枚が皿からするりとすべり落ちてワゴンの上で割れてしまった。
「どうしてそうなるんだ!」
その様子を見ていたサフィリナはおかしくてぷっと吹きだし、次第に声を上げて笑いだした。
「大騒ぎね」
そう言ってワゴンまでやってきたサフィリナが、ドナヴァンの手伝いをしようと手を伸ばすと、その手をドナヴァンが制する。
「俺がやるから座っていていいよ」
なんて言っていることは頼もしいが、ワゴンの上は湯とクッキーでぐちゃぐちゃだ。
「心配でゆっくり座って待っていられないから手伝うわ」
サフィリナが布巾でワゴンの上を拭き、ドナヴァンがカップにお茶を注いだ。
「あれ? 少し変わった色だな、このお茶。香りも独特だ」
そう言ってドナヴァンが首を捻る。
「紅茶にハイビスカスをブレンドしたお茶なの。ポルゼットで特に人気の限定商品よ」
肌がきれいになるという評判が評判を呼んで、常に商品は品切れ状態。伝手を使ってようやく手に入れた特別なお茶だ。
「そうか。そんなことを聞いたら、この酸っぱい香りがいい香りに感じてきたよ」
ドナヴァンは少し首をすくめて、おどけたような表情。
「フフフ。あなたにはこっちのほうがいいと思うわ」
サフィリナはそう言って、くせのないダージリンティーを淹れてカップに注いだ。
二人は向かいあってソファーに座り、二枚になったクッキーをわけあう。
「そういえば、あなたどうしてここにいるの?」
「今ごろそれを聞くか?」
「だって」
登場してから今まで大騒ぎで、聞くタイミングなんてなかったではないか、と言いたいのだけど、先ほどの出来事を思いだしてまたぷっと吹きだした。
「サーニャが全然顔を見せないから、仕事をパーシに任せて様子を見にきたんだ」
最近ドナヴァンは、助手として十四歳になったばかりのパーシを雇い、仕事を教えている。パーシに機械の調整を行わせて、ドナヴァンは自分の作業に没頭するためだそうだ。
「そう」
サフィリナに対してもそうだが、ドナヴァンは意外と面倒見がいい。パーシの適正というのもあるが、仕事を始めて一か月しかたっていないのに、簡単な作業なら任せられる程度にパーシが成長したのも教え方が上手だからだろう。
「仕事が忙しいの?」
ドナヴァンは紅茶に口をつけてからじっとサフィリナを見つめて聞いた。
「いいえ、いつもと変わらないわ」
サフィリナは首を振る。
「そうか、最近顔を見せないから心配していたんだ」
「ちょっといろいろと考えちゃって。でももう大丈夫よ!」
サフィリナが笑顔をドナヴァンに向けた。しかし――。
「全然大丈夫そうじゃない顔でそんなこと言われても信じられないよ」
「え……?」
サフィリナが見せた笑顔は完璧で隙がないほど美しい。でも彼女が自然とこぼす笑顔はそれではない。目尻が垂れ、頬が緩んで愛らしく笑う顔こそがサフィリナの本当の笑顔だ。
「無理して頑張らなくていいよ」
「なに言っているの……? 私が頑張らないとだめでしょ?」
サフィリナがクスクスと笑う。
「……無理をして頑張る必要はないって言っているんだ。少し手を抜いてさ」
「え?」
「いろいろあったんだから、少しゆっくりしたほうがいいよ」
ドナヴァンがそう言えば、サフィリナは、それもそうね、とうなずいてくれると思った。でもそうではなかった。
「なにを言っているの? いろいろあったからこそ、私が頑張らないといけないんじゃない」
「サーニャ……」
「どうしてそんなわけのわからないことを言うの?」
ドナヴァンなら頑張っていることを認めてくれると思ったのに、それどころか頑張っているサフィリナを否定するなんて。
「そんなつらそうな顔をして頑張ってほしくないんだ」
「誰だってつらいときはあるわ。でも頑張って乗りこえているのよ。私はそうやって今まで生きてきたの」
自分が頑張らないと、みんなが付いてきてくれなくなる。もっと頑張らないと、本当に一人きりになってしまう。どうしてそれをわかってくれないの。
「私は皆を引っぱっていかないといけないの。私が頑張らないと……! 私が弱い姿を見せるわけにはいかないのよ!」
「いい加減にしろ、サーニャ」
ドナヴァンの少し鋭い声にサフィリナが肩をビクリと震わせた。
「なんでまた同じことをくり返そうとするんだ。一人で頑張らなくていいって言っているんだよ」
これまでのドナヴァンとは違う冷静で淡々とした声。
「だって、私は――!」
「皆を引っぱっていかないといけない、か?」
サフィリナを遮って口にしたドナヴァンの言葉は、間違いなくサフィリナがあとに続けるはずだったものだ。
「……」
ぐっと口を噤んだサフィリナは、ドナヴァンの少し険しい表情を見て顔をゆがめる。
「誰も、サーニャだけに無理させようと思っていないよ」
「……」
「アメリアさんやシャルズさんは頼れない人たちか? レイラさんや工場の従業員、ブティックの店員たちは?」
「……」
(そうじゃない。皆のことは信頼している。でも、ずっと一緒にいてくれるとは――)
「俺が……ここでしか生きていけないと思うか?」
「――っ! どう、いうこと? それ、どういうこと?」
「サーニャ」
「辞めるの? ここを出ていくっていうの?」
眉間にしわを寄せ必死の形相でドナヴァンに詰めよるサフィリナ。
「サーニャ、落ちつけ!」
「答えて! なにが不満なの? 直すから! 待遇? いやなことがあった? 全部直すから!」
顔を蒼白にして言葉を発するサフィリナは鬼気に迫るものがある。
「サーニャ、違うんだ」
「なにが違うの?」
「聞いてくれ」
「そんな話聞きたくない。私を捨てるの? また私は捨てられるの?」
ドナヴァンの腕をつかむサフィリナの手に力が入り、ドナヴァンが顔をゆがめた。
「すまない、サーニャ。俺の言葉が悪かった。俺はどこにも行かない」
「うそ。ここでなくても生きていけるって言ったじゃない!」
そう言って責めるようにドナヴァンを見あげたサフィリナの頬に、堪えきれなくなった涙が大きな粒となって伝う。
「サーニャに守ってもらわなくても、自力で生きられると言いたかっただけで、出ていくつもりはない」
「本当に……?」
「俺はここが好きだし、この仕事が好きだ。今の生活が気に入っているし、エリスさんの料理が食べられなくなるのは考えられない」
破格の好待遇だしな、とドナヴァンが笑う。
「……」
「俺がサーニャから離れることはない。だから、そんなふうに泣くな」
先ほどまで険しい表情をしていたドナヴァンが、小さな子どもをあやすように笑う。
(私ったら独占欲を丸出しにして)
サフィリナは恥ずかしそうに顔を赤くした。思いだしたくないけど思いだしてしまう先ほどの自分の言葉が、サフィリナの心に次々と大ダメージを与えていく。
「私がさっき言ったことは忘れて!」
いたたまれなくて慌てて離れようとするサフィリナの腕をつかんだドナヴァンは、少し強引に腕を引いてサフィリナの細い体を抱きよせた。
「ド、ドナ?」
驚いたサフィリナは抵抗することも忘れて、たくましい腕に抱きしめられたまま目を見ひらく。
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