ブティック始動⑥
「……っ」
うつむくトレイシーの体が震えている。が、決して彼女は泣いているわけではない。実際、顔を上げたトレイシーは、彼女の評判からは想像もできないほど険しい表情をしていた。トレイシーは観念したのか不敵な笑みを浮かべながら口を開いた。
「クローディアの取り巻きは皆、クローディアがジュエルスさまの婚約者に選ばれるなんて言っていたけど、私はありえないって思っていましたわ。だって、あなたは賢い女性じゃないと認めない人だもの。クローディアがあなたのお眼鏡に適うわけがない。だから、絶対私が選ばれると思っていた。それなのに! 平民も同然の男爵令嬢ですって? 冗談じゃないわ」
だからクローディアに言ってやった。サフィリナを傷ものにしてしまえば、ジュエルスと結婚することはできない、と。クローディアはまんまとトレイシーの言葉に乗って行動を起こし、挙句失敗をしたわけだが。
「クローディアは本当に使えない女でしたわ。まぁ、あの女なんてその程度。単純で、生まれた環境と、ジュエルスさまやアレクサンドロさまに寄生することで注目されていたにすぎない、特別でもなんでもない女。……なんの努力もしないで!」
トレイシーは苦々しい顔をして言葉を吐きだす。
「私は努力をしました。淑女としての教養はもちろん、政治や外国の文化。外国の言語だってふたつ習得しました。あなたに認めてもらうために、私は努力をしてきたのです。それなのに、あなたは私を認めようとしない。あなた以外の人たちは皆、私を認めているのに」
「……」
「都合のいいときだけ、私を利用しようとして」
お茶会なんていい例だ。トレイシーはこれまで何度もケイトリンにお茶会の招待状を送っているのに、ケイトリンがお茶会の招待に応じたことはない。
なぜ? どうして? いったい私のなにが不服なのよ!
ケイトリンに知ってほしかったのに。トレイシーの開くお茶会の素晴らしさ、トレイシーの教養の高さ。それらをケイトリンが直接見れば、絶対にトレイシーこそがジュエルスにふさわしいと気がついてくれると思っていたのに。
「そんなチャンスも与えてくれないどころか、卑しい平民に私の招待を受けさせるなんて」
マニシャに送った招待状は社交辞令のようなものだった。それが時間を置かずに返事を送ってきた。
「手紙を見て目を疑いましたわ……。誰が本気で平民なんて招待するとでも?」
怒りや憎しみしか湧いてこなかった。ばかにするのもいい加減にして! そう言って返信された手紙を床に叩きつけて踏みつけた。
「こんな侮辱を受けるいわれはありませんわ」
すっと目を細めケイトリンを見すえるトレイシーは、その眼光で人を傷つけることも可能なのではないか、と思わせる冷たさを宿している。
しかしケイトリンはトレイシーよりさらに冷々たる笑みを返す。
(マニシャが招待を断れば、それはそれで気に入らないくせに)
しかし、ケイトリンは小さく溜息をついて、それを音にすることなく飲みこんだ。
「……私にそのつもりがなくても、あなたが侮辱と受けとるのならそうなのでしょう。でも勘違いしないでほしいわ。なぜ私が、特別親しいわけでもない令嬢の開くお茶会に参加すると思うの?」
「っ……!」
それに、トレイシーが招待する客は自身と歳の近い令嬢や夫人が多く、少し歳が離れていても伯爵以下の下位貴族。
「人にはそれぞれに相応というものがあるの。もし、あなたのお母さま、オレガノン伯爵夫人が招待状を送ってくれたのなら、参加することも考えたかもしれないけど」
「つまり、私の開くお茶会が、夫人にはふさわしくないということですか?」
「はっきり答えていいのかしら?」
「……」
トレイシーは悔しそうに顔をゆがめ、ケイトリンはクスッと笑った。
「ああ、そういえば」
ケイトリンは自身の胸の前で両手を合わせて、今思いだしたように口を開く。
「サフィリナやマニシャに脅迫めいた手紙を送ってきたのはあなたよね?」
「――っ!」
お前はジュエルスの妻にふさわしくない、早くホルステイン侯爵家から出ていけ、お前のせいでジュエルスが行方不明になった、お前が殺した――。
そしてジュエルスと離縁をしてサフィリナがいなくなると、今度はマニシャに同じような脅迫文が送られるようになった。
「でも、残念。そのうちのひとつだってあの子たちの手元には届いていないわよ」
「え……?」
「当たり前でしょ。まさか、屋敷の者が手紙の中身を見ずに彼女たちに渡すと思っているの?」
「……っ!」
トレイシーははっとして顔をゆがめた。なぜそんな当たり前のことに気がつかなかったのか。
「オレガノン伯爵が投資に失敗したのは十年も前のことだったかしら?」
「な、なんのことですか?」
「今さら隠さなくてもいいわ」
真っ赤な顔をして慌てるトレイシーを無視して、ケイトリンは話を続けた。
「投資に失敗をして借金を背負ってから、あなたたちの生活は一変してしまったのでしょ? 使用人を辞めさせて、料理の品数を減らして、ドレスは手持ちのものを毎年作りかえて。そうやって切りつめた生活をしていても、他人の前では財力があるかのように振る舞って」
「……」
庭師と料理人、それと数人の侍女を残してあとは皆仕事を辞めてもらった。その中には執事もいたため、彼がしていた仕事がすべてトレイシーの仕事となった。だから、すっかり勘違いをしてしまっていたのだ。
「いつも手紙の仕分けをしていたあなたは、なにも疑うことなくサフィリナの手元に脅迫状が届くと思っていたのでしょ?」
「……」
悔しさを隠そうともせず、手を握りしめ体を震わせるトレイシー。
惨めだった。どんなに努力をしても家が裕福になることはなく、いつもボロが出ないように注意を払って取りつくろって、そうやって作りあげた虚像を保つことに必死だった。
だから苦労もせず、なんでも手に入れることができるクローディアに腹が立った。自分の不幸を盾にホルステイン侯爵家に居ついたサフィリナに。運よく出あっただけなのに、まんまとジュエルスをたらしこんだマニシャに。すべてが憎らしくて許せなくて。
「だから脅迫文を送ったの?」
「いいじゃないですか、それくらい。結局彼女たちの目には触れていないのでしょ? だったら、なにもしていないのと同じだわ」
開きなおったトレイシーがフンと鼻を鳴らす。
「ずいぶんと自分勝手な言い分ね」
「……私のことをちゃんと見てくれていれば、そんなことしませんでしたわ。どうして、私を認めてくれなかったのですか? 私がジュエルスさまにふさわしいと認めてくれれば、こんなことをしなかったのに! いったい私はこれ以上どうすればよかったのよ!」
トレイシーがここまで感情を昂らせることを誰が想像しただろうか? 彼女はどんなときでも穏やかな笑みを浮かべ、どんなことにも冷静に対処する女性だったのに。それが、実はこんなにも執念深く、嫉妬深いのだから、ある意味こんな激情を人に知られることなく隠してきたトレイシーは、淑女として合格だ。こんなふうに感情をあらわにする前までは。
「諦めればよかったのよ」
「――っ!」
ケイトリンの淡々とした言葉にトレイシーが目を見ひらいた。
「そうでしょ? 普通は、断られたらほかを探すものよ? なぜジュエルスにそこまで執着する必要があるの?」
顔を真っ赤にして奥歯を噛みしめるトレイシーが、悔しそうにケイトリンを睨みつける。
「なぜ私が諦めなくてはいけないの? 私より彼にふさわしい人なんていないじゃない! あんな間抜けな顔をした平民なんてありえない。彼が、いいえ、あなたがいつかそれに気がつくと思ってずっと待っていたわ。結婚もせず、ずーっと待っているのよ!」
トレイシーはテーブルをしたたか叩きつけ、ケイトリンを睨みつける。
ケイトリンはじっとトレイシーを見つめ、それから大きな溜息をついた。
「あなたなんてお断り」
「なんですって?」
「あなたはふさわしくない。それに、うちのマニシャは淑女としてはまだまだだけど、人としてならあなたよりずっと素晴らしいわ。今はまだ頼りないし迷ってばかりいるけど、あの子ならきっと大丈夫だと私は確信しているの。そのうち他人の悪意なんて、片手で払いのけるようになるはずよ」
「は? 本気でそんなことをおっしゃっているのですか?」
トレイシーの頬が引きつり、完璧な笑顔がずいぶんとぎこちない。
「ええ。楽しみにしているといいわ。私が認めた子なのだから、できないはずがないでしょ?」
「――っ!」
ケイトリンはカップとソーサーを手にして、冷めた紅茶に口をつけた。それからソーサーをテーブルに置いて立ちあがる。
「素敵なもてなしをありがとうございます」
「……」
「もうあなたと会うことはないでしょう」
「……っ!」
「それでは失礼しますね」
そう言うと、ケイトリンは静かに部屋を出ていった。
「……」
呆然と目の前に置かれたティーカップを見つめる。
見栄を張るためにしてきたこれまでの努力を、すべて水の泡にしてしまった。なにもかも失ってしまったのだ。
乾いた笑いがこぼれ、いつしか涙に変わった。
自分を貫いて今の立場に立つケイトリンは、トレイシーの憧れだった。ケイトリンは努力の人だ。誰にどんな目で見られても自分の意思を曲げず、その結果ホルステイン侯爵夫人となった。
ケイトリンのようになりたい。子爵令嬢のケイトリンが、その能力を認められ侯爵夫人となったように、自分もこんな惨めな生活を抜けだして、自分にふさわしい場所に行きたい。自分にはその価値がある。だって努力をしたから。
私を見て。私もあなたのように努力をしたのよ。だから、私を見て。私を認めて。認めてよ……! なんで、認めてくれないのよ!
「本当に……この世は不公平だわ」
ゆっくりと上げたトレイシーの顔からは生気が抜け、瞳は輝きを失っていた。
それから半年もたたないうちに、トレイシーは四十も年の離れた富豪の男のもとへと嫁いでいった。その際トレイシーは実家と縁を切り、友人との連絡も一切絶った。
富豪の男は、若いトレイシーを孫のようにかわいがったらしい。トレイシーが金を湯水のように使い、毎日遊び暮らしてもなにも言わなかったとも聞く。夫公認で何人も愛人を囲み、乱れた生活を送っている、なんてとんでもない噂話も聞かれたが、人々はそれほどトレイシーに興味はなく、そんな話はあっという間に消えてなくなり、いつしか彼女のことを話す人は誰もいなくなった。
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