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ブティック始動④

 ジュエルスはマニシャの部屋のドアの前に座りこみ、いろいろなことを考え、思いだし、そして小さな溜息をついて時間が過ぎるのを待った。


 空が少し暗くなって空気も少し冷たくなった気がする。そういえば日が出ている時間も短くなってきた。


(そろそろあれが咲くころか)


 初めてサフィリナと一緒に植えた花だ。しかしそのときは、蕾になる前にほとんどの花が枯れてしまい、彼女はひどくがっかりしていた。でも確か、翌年は満開だったはず。


 あのカーテンを選んだのも彼女だった。ケイトリンの手伝いをすると張りきって注文をしたら、長さが合わなくて当初の予定と違うあの場所に使うことになってしまったのだった。でも、あの場所でも存外雰囲気が合っていると好評だった。本人は不本意だったようだけど。


 そんなことを思いだして、思わずクスッと笑ってしまった。そしてはっとする。


(まただ……。今はこんなことを思いだしている場合ではないのに)


 サフィリナのことを思いだして記憶が混乱し、マニシャが困惑の表情を浮かべるようなことを、つい口にしてしまうことがある。そのたびにマニシャはかなしそうな顔をして、ジュエルスは「ごめん」と言って口を噤むのだ。


(マニシャを傷つけたくないのに……)


 しかし、サフィリナとの記憶を思いだせば、焦がれるように胸を締めつけられ、泣きたくなるほど胸が熱くなり、自身を殴りたくなるほどの後悔が襲う。彼女を抱きしめたくて、あの薄い翡翠色の瞳に見つめられたくて、金色の髪に触れたくて、胸をかきむしりたい衝動に駆られる。


 こんなにもサフィリナのことを思っていたのだと自覚して、失った存在の大きさに絶望している自分がいるのだ。


 この感情はマニシャに対する裏切りなのだとわかっていても、マニシャが傷ついているとわかっていても、長く思いつづけていた彼女への気持ちを、そう簡単に捨てさることなんてできるはずもない。


(最低だ、俺は)


 ジュエルスは首を振り大きな溜息をついた。


(今度はマニシャを裏切り、あれほど深く傷つけたリナを、今でも特別に思っているって?)


 自嘲に顔がゆがむ。


 この不毛な気持ちを消しさり、マニシャと誠実に向きあいたいと思っているのに、まともに気持ちの整理もできていない。


(マニシャももう気がついているよな)


 それでもジュエルスを責めることなく、必死に笑顔を張りつけている彼女の痛々しい姿を思いだして、ますます自嘲した。


(これ以上最低な人間になりたくないのに)


 ジュエルスは大きな溜息をついて、膝に自身の額を突けた。


「……エル? そこにいるの?」


 ドアの向こうからマニシャがジュエルスに声をかける。その声にかつての無邪気な明るさはなく、好奇の目や心無い噂に晒されることを恐れて萎縮した、哀れな女の姿が見えた。


「……エル?」

「ああ、ここにいる」


 すると静かに部屋のドアが開いた。


「そこは寒いでしょ? 中に入って」


 そう言ってジュエルスを自室に招きいれた。部屋には小さなランプが灯してあるだけで薄暗い。


「……今日のお茶会でなにがあったか、教えてくれないか?」


 マニシャと目が合い、ソファーに座るより先にジュエルスの口が動いた。


「ただ、私が未熟だっただけ。トレイシーさまやほかの令嬢たちはとても親切だったわ。ただ、私がうまくできなかったのよ。それだけよ」


 無理して笑う笑顔と、真っ赤になった目元と鼻先を見れば、決してそれだけではなかったのだと簡単に知ることができるのに、彼女はそんな言葉で終わらせて、これ以上触れるなと壁を作った。


「……誰だってそんなに簡単にうまくできるわけないよ」


 マニシャを励ますつもりで言った言葉。しかし、それは彼女の劣等感を刺激しただけだった。


「……サフィリナさまも?」

「え?」

「サフィリナさまもできなかったの?」

「なぜ、いま彼女の話が出てくるんだ?」

「教えてよ! 彼女もできなかったの?」


 マニシャは悲壮感さえ漂わせてジュエルスに迫る。


「マニシャ……」

「あの人はとても優秀だったって先生が言っていたわ。頭もよくて、お義母さまと同じくらいなんでもできて、侯爵夫人にふさわしい人だったって」

「ヘッセ伯爵夫人がそう言ったのか?」

「そうよ! 私がなにもできないから、よく溜息をついていたわ」


 ジュエルスが大きな舌打ちをした。


「クソ! クビにしてやる!」


 そう言って部屋を出ていこうとしたところをマニシャが制した。


「やめて、彼女を辞めさせないで」

「なんでだ? そんなことを言う人間なんて君には必要ない!」

「いいえ! 私には、ヘッセ伯爵夫人が必要よ」


 マニシャの大きな声に驚いたジュエルスが目を見はった。


「なぜ……?」

 

 ヘッセ伯爵夫人はよくも悪くも正直な人で、サフィリナをとても気に入っていた。でも、サフィリナとマニシャを比べることはあっても、意地の悪いことをしたりはしない。


 何度も同じことを注意していたのだってマニシャができないからだし、こんな不出来な生徒を見ていたら溜息くらいつきたくもなるだろう。それでもマニシャを見すてることはしなかった。


 おかげでまったく身に付いていなかったマニシャのマナーも、それなりに成長したのだ。


 でもそれよりもっと重要なことがある。


「夫人のほうが、あなたよりよほど正直で、ちゃんと私を正面から見てくれているからよ」

「……」

「……エル、あなたは私に言っていないことがあるわよね」

「え?」

「ずっと言わないつもりなの?」

「マニシャ……」

「ねぇ、なんで隠しているの?」


 大粒の涙がマニシャの頬を濡らす。


「まさか、本当に私の言いたいことがわからない? 冗談でしょ?」


 マニシャが引きつった笑みを浮かべる。


「……俺の、記憶のことか?」

「そうよ……。いつの間にか自分のことを俺と言うようになったわ。言葉遣いも以前とは違う。……とっくに記憶が戻っているくせに、なぜ私になにも言わないの? 言いにくかった? サフィリナさまのことを思いだして、また彼女のことを好きになって、私が邪魔になった?」

「なにを言っているんだ、邪魔になんて! 俺は――」

「うそばっかり! いつも私の顔を見て苦しそうにしているくせに! 毎日溜息をついて……! 彼女との思い出はさぞかし素敵なのでしょうね!」

「マニシャ……」


 マニシャがサフィリナやジュエルス、そしてセージやケイトリンを不幸にしたのだということを、いやというほど思いしらされて、それでも平気な顔をしていられると思っているのか。なにも気がつかない顔をして、のうのうと生きていけると思っているのか? あいにく自分はそんなに図太い神経を持ちあわせていない。


「あなたにはわからないわ。きっとあなたたちにはわからない。私がどんなに惨めで苦しい思いをしているかなんて」

「……すまない」

「なにが? なにがすまないなのよ! はっきり言って! なにに対して謝っているの」

「……」


 それを口にすれば、マニシャ自身が傷つくことはわかっているのに。


「……」

「そうやって黙りこんで」

「……すまない」

「……」


 マニシャの瞳からボタボタとこぼれる涙のせいで、化粧はすっかり崩れ、その下に隠した彼女のあどけない表情が見える。ぎゅっと拳を握りしめたジュエルスの顔が、苦しそうにゆがんだ。


「あなたと出あったばかりのころに戻りたい。あの幸せだったころに、幸せな思い出が詰まった村に帰りたいわ……」


 いや、いっそのこと出あわなければよかった。村の人たちの言葉を聞いて山菜を採りにいかなければ……。


「あなたを好きにならなければよかった」

「マニシャ……」


 手を伸ばしてマニシャを抱きしめた。


「ごめん、俺が悪い。だから、泣かないでくれ」


 そんなことを言われると、ますます泣きたくなるのに。


「俺の……記憶はもう戻っている」

「う……っ……」


 必死に嗚咽を殺して、それでもこぼれるのを抑えきれない。


「……彼女への気持ちも」


 ますます大きくなる嗚咽。同時にマニシャがジュエルスの胸を拳で叩いた。


「すまない。でも、それが本当に俺の気持ちなのか、記憶のせいでそう思いこんでいるのかわからない」


 ジュエルスはますます腕に力を入れ、離れようとするマニシャを抱きとめる。


「だから……ちゃんと気持ちを整理するから、少し待っていてほしい」

「……」

「俺の妻はマニシャだ。君を愛していることだってうそじゃない」

「……」


 取ってつけたような、愛している、の言葉。それは心にもない言葉かもしれない。明日にはまったく違う言葉を言われるかもしれない。それでも今は、愛している、を信じたい。


 次第に声を上げて泣きだしたマニシャは、小さな子どものようにジュエルスに文句を言いつづけていた。ジュエルスはそんなマニシャを抱きしめたまま、何度も、すまない、とくり返していた。


読んでくださりありがとうございます。

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