ブティック始動①
王都の貴族居住区のはずれにある建物。連日慌ただしく人が出入りし、夜遅くまで明かりが消えることがなかったその場所に、『アンティオーク・シークレット』と書かれた小さな看板がかけられたのは昨夜遅く。その看板がなければそこが店であることもわからない石造りの外観は、これまでその場所に出店した店の中で最も地味――いやシンプルだ。しかし、サフィリナは『秘密の場所』をコンセプトにしているシークレットにふさわしい、と満足そうにうなずいた。
そのサフィリナの希望が存分に詰まったブティック『アンティオーク・シークレット』が今日オープンする。
店に飾られているドレスはすべてファイネルコットンで作られたもの。
暗闇に染まる手前の濃紺の空に瞬く星を思わせる美しいマーメイドラインのドレスや、真っ白なエンパイアラインに、布を重ねて作られた白いバラをウエストラインに飾ったドレス。漆黒のスレンダーラインのドレスには銀糸で刺繍が施されている。
どれもこれまでにないデザインだが、上品で美しく自信を持ってお勧めできるものばかりだ。
そのほかに、たくさんのカタログがあり、そこからデザインを選ぶこともできるし、ひとつひとつデザインを決めていくこともできる。
「最初のお客さまは、ホルステイン侯爵夫人ですね」
「ええ」
デザイナーのレイラの言葉にうなずいたサフィリナ。
完全予約制のこの店に、最初に招待したいと思ったのはケイトリンだった。ジュエルスと離縁をしてから顔をあわせることはなく、連絡もあの手紙だけ。サフィリナが忙しかったというのもあるが、ケイトリン自身もマニシャの手前、サフィリナとかかわりを持つことが憚られたというのもある。
そのため、二人が直接顔を合わせるのは、離縁して以来初めてのことなのだ。
「心配?」
「いえ」
事情を知る従業員たちは、サフィリナから招待客のリストを渡されたとき、眉間にしわを寄せた。サフィリナとケイトリンが顔を合わせれば、噂好きの人たちがなにを言うかわからないし、サフィリナの心の傷が再び痛みだすことになるかもしれない、と心配しているのだ。
「大丈夫よ。私がしたくて招待したんだから。それに、私たちは喧嘩別れしたわけではないんだし、私は夫人との良好な関係を取りもどしたいと思っているの」
それはケイトリンも同じだと思う。そう確信している。
サフィリナが店に招待をしたいと書いた手紙に、すぐ快諾の返事をくれたことも、おめでとう、あなたならきっとできると信じていたわ、とお祝いの言葉をくれたことも、すべてその表れだ。だからなにも心配はしていない。ただ、緊張はしているけど。
「さ、おしゃべりはおしまい。もう少しで開店よ」
「はい!」
従業員たちが元気に返事をした。
サフィリナが扉の前で待機をしていると、予約時間ぴったりに扉が開いて、店に入ってきたのはケイトリン。
「リナ……」
サフィリナを見つけると、ケイトリンが瞳を潤ませた。
「ようこそおいでくださいました。ホルステイン侯爵夫人は当店最初のお客さまです。ぜひ、心ゆくまでゆっくりお過ごしください」
そう言ってサフィリナが頭を下げる。少し距離がある物言いに寂しそうな顔をしたケイトリン。しかし顔をあげたサフィリナの瞳が揺れ、涙を浮かべて微笑む姿を見て、思わずケイトリンもホッとして微笑んだ。
「お久しぶりです。おばさま」
「リナ、本当に久しぶりね」
二人はどちらともなく近づき互いを抱きしめた。
「あなたから手紙をもらったときは本当にうれしかったわ」
「私も……おばさまからお返事をいただけて、うれしかったです」
しばらく二人は互いを懐かしみ、それからようやく本来の目的を果たすため、別室へと移動した。
通された部屋は広い個室で、絵画なども飾ってありサロンのようだ。柔らかいソファーは程よく沈み、貴族のあいだで人気のお茶の専門店ポルゼットの紅茶には、チョコレートチップを練りこんだクッキーが添えられている。
「この香りは初めてだわ」
ケイトリンはゆっくりと紅茶の香りを楽しんで、それから少し口に含んだ。茶葉にはスパイスのような独特の香りがあり、人によっては敬遠してしまうのだが。
「おいしいわ」
ケイトリンは強い香りが好きで、一人で紅茶を楽しむときには独特の香りがある紅茶をよく飲んでいた。
「私の好みを覚えていてくれたなんてうれしいわ」
そう言って微笑むケイトリンは本当にうれしそうだ。
「すべて覚えています。ホルステイン侯爵家で過ごした時間は、私の宝物ですから」
「……ありがとう」
それから少し歓談をして、ケイトリンは目の前に置かれているカタログを手にした。そしてサンプルとして用意された布に指を滑らせて溜息をつく。
「まるで絹のようね」
ケイトリンが知る綿織物とはまったく違う光沢と手触りは、絹のそれに近く、本物を知らない人なら絹と信じてしまうかもしれない。とはいえやはり綿は綿。絹のような滑らかな柔らかさはない。
「綿には絹にはない張りがありますので、その特徴を生かしたデザインをご提案させていただきたいと思っております」
少し堅苦しい口調でオーナー然とカタログを開いたサフィリナ。先ほどはその態度を少しさびしいと感じていたケイトリンだったが、今は頼もしく思いながらカタログを見つめている。
「どれも、これまで見たことがない素敵なデザインばかりね」
「ありがとうございます。当店自慢のデザイナーの渾身の作品ばかりです」
自信に満ちた表情が頼もしい。
「フフフ、あなたにそんなふうに言ってもらえるなんて、デザイナー冥利に尽きるわね」
そう言ってケイトリンはデザイナーのレイラを見た。レイラは恐縮して少しうつむく。レイラは平民で、貴族なんてサフィリナくらいしか知らないのに、目の前にいるのは普段なら目を合わせることもできない侯爵夫人だ。
その侯爵夫人がレイラに優しく声をかけてくれるのだから、天にも昇る気持ちになっても仕方がない。
「これからリナをしっかり支えてあげてね」
ケイトリンがそう言って微笑むと、レイラは興奮気味に「はい」と返事をした。
その日ケイトリンが注文したドレスは四着。三着はフルオーダー、一着はセミオーダーでドレスを作ることが決まり、後日フルオーダーのドレスのデザインを相談することになった。
その日招待したのはケイトリンと前ペリエティ公爵夫人リザリア。翌日はオラスト伯爵夫人テレサ、そしてコルファックス子爵夫人ジュリエを招待した。皆、サフィリナの新たな出発を喜び、応援してくれる人たちだ。
新しい布に新しいデザイン。それが話題を呼び、人を呼ぶ。口伝えに広がっていく評判は上々で、あまり日を置かずにオープンした二号店『アンティオーク・カジュアル』の集客にかなり影響を与えた。
アンティオーク・カジュアルでは、ファイネルコットンで作られたドレスは取りあつかっていないものの、すべて綿織物。これまでのドレスより布が薄くて丈夫で、通気性がいいため蒸れることがない。デザインも新しく、値段の設定に幅があって客を選ばないため、肩ひじを張らずに商品を見ることができる、と好意的に受けいれられた。
おかげで初日は目標を大きく上回る売り上げだ。
(出足は順調だけど、これで満足してはいけないわ)
目新しさで今は注目をされているが、それは一時的なものにすぎない。勝負は、熱が落ちついてきたときに、どれだけ集客と売り上げを維持できるかだ。
そのために、今後は季節に合わせて店の内装を変えたり、ノベルティを付けたりするなど、新しいことも取りいれていくつもりだ。
「アンティオーク・カジュアルは枠にはまらずに、いろいろなことに挑戦して、アンティオーク・シークレットは特別感を大切に。うん、いいわね」
ますます楽しくなりそうな未来を想像して、サフィリナは満足そうに微笑んだ。
読んでくださりありがとうございます。