新たなスタート⑨
――顔がはっきり見えない。でも、なぜか知っている人だとわかる。
君は、誰だ?
『だってあなたが言ったんじゃない』
待って。
『そうよ! 忘れちゃったの?』
君は誰?
『じゃあ、今度は忘れないで。約束よ?』
約束? なにを……?
『だって好きなんだもの』
だから、なに?
『特にテイシャの桃は最高よね。甘くて、ジューシーで』
桃……?
『そう! 一度でいいから丸かじりをしてみたいわ。フフフ、そんなことをしたらおばさまに叱られちゃうけど』
ああ、そうだった。君は桃が大好きだったね。
『え? 本当? うれしいわ! もちろん内緒よ。ええ、当たり前でしょ。私、一度やってみたかったのよ、桃の丸かじり』
君が本当にうれしそうにしているから、こっちまでうれしくなってさ。誰にも見つからないようにこそこそしていたから、余計怪しかったよね。ガゼボに座ってさ、君は瞳を輝かせて、大きな口を開けて桃にかぶりついて。果汁がこぼれてもったいないって言いながら、本当においしそうに食べていたね。こんなことする淑女はいないわね、なんて笑ってさ――。
「――っ」
そこで目が覚めて勢いよく体を起こしたジュエルスは、心臓が異常に速く動いているのを感じながら、激しく肩で呼吸をしている。
「……あ、れ?」
(なにか夢を見ていたような気がしたけど、なんだったか……)
すごく懐かしくて、胸が締めつけられるような感覚。自分にかわいらしい笑顔を向けていたのは……。
「……ああ」
自身の額に両手を当て、大きく息を吐く。
夢の中にいた女の子はサフィリナで、あの夢は婚約をする前の二人の思い出。サフィリナを喜ばせたくて青物屋まで行って、自分で桃を選んで買ってきたのだった。
(結局母さんにばれたけど、あのときは呆れたような顔をしただけだったな)
二人はこっぴどく怒られるのだろうと覚悟をしていたのに、「これっきりよ」と言って笑って去っていったケイトリンに驚いて、二人して間抜けな顔をしていたんだっけ。
「エル?」
横で寝ていたマニシャが眠そうな顔をしてジュエルスに声をかけた。
「あ、すまない。ちょっと目が覚めてしまって。」
「気にしないで……あなたも、早く寝て……」
半分寝ぼけているのかマニシャはうつらうつらして、そのまま再び眠ってしまった。
外はまだ真っ暗で、小さな明かりでは時計の針を確認することも難しい。それならば諦めて再びベッドに潜りこんで目を閉じるべきなのだが、なぜか今は眠れる気がしない。
仕方なく静かにベッドを降り、カーテンを少し開けて窓の外を見た。満天の星に半分にかけた月が輝いている。
彼女は満月より欠けて細くなった月のほうが好きだった。満月でも欠けていても、月の明るさが変わらないのが不思議だ、とも言っていた。
「……リナ……」
彼女の思い出をたどれば懐かしさと共に苦しみが襲う。それなのに、サフィリナのことを考えない日はない。ちょっとお転婆で、翡翠色の瞳で見つめる彼女のかわいらしい笑顔を。日に日に美しくなっていくサフィリナを前に、心臓が高鳴るのを止めることができなかった自分を。
ジュエルスは大きな溜息をついて、静かに踵を返した。そしてドアを静かに開け、そっと廊下へ出ていった。
「……」
ドアが閉まって少ししてからマニシャが静かに目を開けた。その表情は暗く、小さな溜息と一緒にこぼれた涙が枕を濡らす。
こんなことになる前だったら、彼が部屋を出ていく前にベッドから体を起こし、彼に声をかけていただろう。腕を広げて彼の名を呼び、彼を優しく抱きしめていただろう。
(……今、あなたの心の中にいるのは誰? まだあなたは私のことを愛してくれている?)
でも、それを聞くことはできない。聞いたらすべてが終わってしまうような気がするから。
闇夜に紛れて近づいてきた孤独は、先ほどまでジュエルスがいた場所から熱を奪っていき、徐々にその範囲を広げる。シーツを引っぱりあげてすっぽりと体を隠しても、するりとシーツの中に滑りこんだ孤独は、氷のような冷たさでマニシャを包みこんで、じわじわと体の熱を奪っていく。
体を小さく丸め、冷たい指先を温めるようにもう一方の手で握りしめた。
「……エル、寒いわ。とっても、寒い……」
ジュエルスは、小さな明かりを点けただけの薄暗い居間に置かれている酒棚から、半分も残っていない蒸留酒を選び、グラスを手にしてソファーに座った。グラスに蒸留酒を注ぎ、瓶をテーブルに置いてグラスを口に運び、ひと口含んで鼻に香りが抜けるのを感じながら飲みこんだ。
「……ああ、そうだった」
これはサフィリナが好きな蒸留酒だ。酒棚に並ぶ蒸留酒の中で一番アルコール度数が低く、甘みのあるこれが好きだったのだ。
「ワインは飲めないんだよな、リナは」
はじめてワインを飲んだ翌日、頭が痛いと言って寝こんで以来、ワインは飲まなくなったのだ。そんなことを思いだして少し笑う。
「……」
手にしたグラスの琥珀色を見つめ、背を丸めて顔をゆがめた。
こんなに覚えているのに。彼女とのひとつひとつの出来事を鮮明に思いだすことができるのに。
「どうして、俺はリナを忘れてしまったんだ。どうして……手放したりしたんだ。どうして……!」
約束したのに。ずっと一緒にいるって言ったのに。絶対に約束を守る自信だってあったのに。
「ごめん。約束を破って……本当に、ごめん」
せめて彼女に対して申し訳ないという気持ちがあればよかったのに、記憶を失くして以来、初めてこの屋敷に戻ってきたときは、サフィリナのことなどまったく記憶になく、特別な感情も持ちあわせていなかった。それどころか、彼女の存在により、マニシャや生まれてくる子どもと引きさかれるかもしれない、という気持ちのほうが大きく、彼女たちを守ることに必死で、サフィリナの気持ちを考えることができなかった。
だからサフィリナとのあいだにはっきりと線を引いた。
「あんなこと、絶対にしてはいけなかったのに」
ジュエルスがいないあいだサフィリナは気丈に振る舞い、ずっとジュエルスの無事を祈っていてくれたというのに、なぜ自分は謝罪の言葉も感謝の言葉も言えなかったのだろう。それどころか彼女を傷つけることばかり。
サフィリナに向けて、マニシャと子どもを守らなくてはいけないと言いはなち、彼女がボロボロと涙をこぼしているのを見て心は痛んだが、それよりも彼女が離縁を承諾してくれたことに安堵した。
あのとき君はどれほど傷ついただろうか。どんな思いで、離縁を決意したのだろうか。自分のことを思いださないで、と言ったとき、君はどんな気持ちだったのだろうか。
かなしいとか寂しいとか、そんな言葉で表すことが難しいほど、サフィリナを追いつめたことだろう。それでも、サフィリナはジュエルスを許してくれていた。
いっそのこと憎んで罵倒してくれればよかった。そうしてくれれば少しは気持ちが楽になったのに。
「……なんて、最低だな。自分が楽になることばかり考えてさ。自分がこんなにひどいやつだったなんて思いもしなかった」
サフィリナは、いつもジュエルスのことを真っ先に考えてくれていたのに。そうじゃなかったらあんな言葉が出てくるはずがない。
――幸せになって。私も絶対幸せになるから。
「どうしてそんな言葉が出てくるんだよ。……優しすぎるよ、君は」
目を瞑ればサフィリナの顔がはっきり思いだせる。
「……だいたい、無理だよ。君にこんな仕打ちをした俺が、幸せになれるわけがないだろ。……難しいことを言うなよ」
ジュエルスの自嘲気味の短く乾いた笑いは、次第に苦しげな嗚咽へと変わっていき、短い謝罪の言葉が何度となくくり返された。
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