新たなスタート⑧
「私は仕事を休むのに、ドナは仕事をするの?」
「ああ、休んでいるのはサーニャだけだろ?」
「そうだけど、ずるい!」
デートをした翌日。ずいぶん早い時間からドナヴァンは作業場で仕事をしていたようで、サフィリナが起床して階段を下りてきたときには、きれいに片づけられていたはずの部屋に、いろいろなものが散乱していて足の踏み場もなくなっていた。
そして、今は朝食をとりながらサフィリナが文句を言っている最中だ。
「ドナが仕事をするなら私だってするわ」
「いいや、だめだ」
「じゃあ、私はなにをすればいいのよ?」
「そうだなぁ」
ドナヴァンは考える素振りを見せてからうなずく。
「今日は俺の助手をしてくれ」
「助手?」
「ああ。君の意見が欲しいんだ」
それを聞いてサフィリナの顔が輝く。
「そういうことなら任せて! 私、けっこう役に立てると思うわ」
ドナヴァンの提案で機嫌をよくしたサフィリナは、目の前に置かれたパンケーキを切りわけ、シロップをかけてから口に運んだ。
「んー、おいしい!」
ふわふわのパンケーキに染みこんだバターとシロップが絶妙だ。
「実は私、レストランの豪華な食事より、エリスが焼いてくれるパンケーキのほうが好きなの」
「奇遇だな、俺もだ。それに、いろいろな具が入ったオムレツも好きだ」
「私もよ! 特にトマトとマッシュルームとチーズがたっぷり入ったオムレツは格別よね」
そのほかにコンビーフとオニオン、パプリカ。ときどきアーティチョークと青菜。具沢山なオムレツなんて贅沢なことこの上ない。
「あのオムレツよりおいしいオムレツはほかにはないな」
「奇遇ね、私もそう思っているわ」
「あらあら、そんなふうに言っていただけるなんてうれしいですね」
デザートを運んできたエリスが、ニコニコしながらオレンジとネクタリンが入ったガラスのボウルをそれぞれに置いた。
「ありがとう、エリス」
ドナヴァンが言うと、エリスはニコッと微笑む。
「本当よ。もちろんうちの料理長の料理もおいしいけど、エリスのお料理はなんというか家庭的なのよね」
これまでエリスが作る料理を食べたことがなかったサフィリナだったが、この家で毎日エリスの作る食事を食べているあいだに、すっかり気に入ってしまったようだ。
「私は料理の専門家ではないので、家庭で食べるようなものしか作れませんから」
「それなら今度私に料理を教えてくれないかしら?」
「え? サフィリナさまに?」
「ええ、今なら時間があるし、せっかくだからひとつくらい料理を覚えたいわ」
「それはいい」
ドナヴァンも賛成のようだ。
「いい?」
サフィリナが聞くとエリスがうなずいた。
「ええ、もちろんです。豪勢な料理は作れませんが、私でよければお教えしますよ」
「うれしいわ」
そう言って大喜びをしたサフィリナだったが、後日、料理はまったくの初心者が上手に作れるほど簡単ではない、ということを痛感することになる。
食事を終えた二人はさっそく作業場に移動した。
二人の前にあるのは織機。既存の織機だが、これをもとに人の手を介さない織機を作ろうとしている。つまり自動で稼働する織機ということだ。
「動力には蒸気を使おうと考えているんだ」
「蒸気? それで織機を動かすことができるの?」
「まぁ、まだ想像の段階だがな」
もっと簡単な方法として水車の力を使うというのもあるが、残念ながら工場の横に川は流れておらず。風車も考えたが、安定した動力を得られるほど風が吹く場所ではないことから、それも断念した。ではどうしようか、と考えていたとき、蒸気が膨張するときの圧力を利用して、ピストンを往復させる蒸気機関のことを思いだした。
「それができたらすごいことよ!」
人手をほかに回せるし、生産量をある程度予測できる。なにより安定的に生産できるようになるはずだ。
「こいつを完成させるのは簡単じゃない。どれだけ時間がかかるかもわからないけどな」
「問題ないわ。私が生きているあいだに完成させてくれるなら」
「ハハハハ、それならどうにかできるかもしれないな」
ドナヴァンはそう言って数枚の紙を広げた。
「これは織機の設計図?」
「ああ」
どうやらサフィリナが目にしている図は上から見ているものらしいが、それがなにを表しているかわからない。別の設計図には一部分を取りだした状態で描かれているが、当然のことながら、それがどの部品なのかをサフィリナが理解できるわけもなく。
「正直に言っていい?」
「なんでもどうぞ」
「なにがなんだか全然わからないわ。あんなに自信たっぷりに役に立てるなんて言ったのに、本当にごめんなさい」
意見が欲しいと言われて張りきっていたのに、今ではわかりやすくがっくりと肩を落としている。
しかしドナヴァンは楽しそうに笑う。
「冗談だよ」
「え?」
ドナヴァンは笑いを堪えきれずにクククと声を漏らした。それを見て、サフィリナはようやくドナヴァンにからかわれたのだと気がついた。
「ちょっと、ドナ。ひどいじゃない。私は本気で役に立ちたかったんだから」
「ごめん、ごめん。謝る、許してくれ」
まだ少し笑いながら、一応謝っている。
「もう……次は許さないから」
「わかった」
今度は少しまじめな顔をしてうなずく。
「で、私に手伝えることはないの?」
このまま役立たずで終わるわけにはいかないと、仕事をください、の視線をドナヴァンに送る。ドナヴァンはその視線にクスッと笑った。
「そうだなぁ……じゃあ、なにか話をしてくれ」
「話?」
「ああ」
ドナヴァンがうなずく。
「これからなにをしたいか。どんなものを作りたいのか。欲しいものとか、行きたい場所、老後はなにがしたい、とか」
するとサフィリナがクスクスと笑いだした。いろいろなことを考えてはいるけど、さすがに老後のことまでは考えていなかった。
「結婚はしたいのか……とか」
「……それは考えていないわ」
「まったく?」
「ええ」
「でも、釣り書きは送られてきているんだろ?」
「そうね。でも、今は忙しくて。だから全部断っているの」
そう言ってサフィリナはうつむいた。
本当は――結婚をしようという気にならないだけ。きっとまだジュエルスのことを引きずっているのだ。未練とかそういった感情ではなく、傷つくのが怖い。愛する人に拒絶されることが怖い。裏切られるのが――。
「そうか。余計なことを聞いて悪かった」
「ううん」
サフィリナが首を振る。
「ドナと話をするのは楽しいから。つい話しすぎてしまうくらいよ」
「俺でよければなんでも話してくれ」
くだらない話でも聞いてやるぞ、とドナヴァンが笑う。
「そんなふうに優しいこと言われると、私、甘えちゃうからやめて」
「甘えればいいだろ」
「え?」
「サーニャなら、俺はいくらでも甘やかしてやるぞ」
「え……? な……なに、言って……」
ドナヴァンが真剣な顔をして、甘やかし宣言するものだから反応に困る。だって冗談も一切なしなのだ。
「本当だよ、サーニャ」
そう言ってドナヴァンがサフィリナの瞳をのぞき込むと、サフィリナは逸らすこともできず、顔を赤くしてドナヴァンの黒い瞳を見つめた。心臓がドキドキと大きな音を立てる。
(ド、ドナったらどうしたのかしら。なんでそんな目で私を……)
熱のこもったドナヴァンの瞳がサフィリナをとらえて離さず、緊張して体に力が入った。
ドナヴァンの手がゆっくりと伸びてきて、サフィリナの金色の髪に触れ、顔の近くまできたところでサフィリナが口を開く。
「ドナ……?」
少し不安そうに名を呼ぶと、ドナヴァンははっとして手を止め、その手で自身の口を覆った。
「……サーニャの愚痴なら、いくらでも聞くってことだよ」
そう言いながらドナヴァンが視線を逸らした。サフィリナの心臓はいまだに大きく鼓動する。
「あ、ありがとう……?」
どうにか返事をしたものの、サフィリナの頭の中は大混乱という文字が走りまわっている。
(え? なに? いったいなにごと? これはどういう状況なの?)
「よし、サーニャの話は聞いたから、次は俺の愚痴を聞いてもらおうかな」
サフィリナの混乱をよそに、先ほどとは打って変わってドナヴァンの口調がずいぶん軽い。
「え、あ、も、もちろんよ。私も、ドナの愚痴を聞くからなんでも言って」
サフィリナは少し驚きながらも、ドナヴァンの調子に合わせて自身の胸をポンと叩いた。
「本当か? それならひとつ聞いてもらおうか。体調管理ができない俺の上司のことなんだけど」
そう言ってサフィリナを見る。
「な――! い、いえ、もちろん聞くわ。なんでも言ってちょうだい」
「ああ、聞いてくれ」
ドナヴァンは楽しそうに口を開く。
「俺の上司は、まぁ仕事中毒なんだ。それも重度の。あれは病気と言ってもいいな。ああ、実際体を壊して倒れたんだけどね――」
「……」
その日、サフィリナは延々とドナヴァンのお小言を聞く羽目になった。
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