新たなスタート⑦
「さ、サンドウィッチを食べましょう」
サフィリナが手にしている紙袋には、小麦を水で伸ばして平たく焼いたパンに、肉や野菜を挟んで食べるサンドウィッチがふたつ入っている。そのうちのひとつをドナヴァンに渡してそれから自分の分を手にした。
「おいしそう!」
サフィリナは少し大きめに口を開けて、サンドウィッチを齧った。
「んんっ!」
少し甘めのソースとサワークリームがチキンに絡まって、そこにトマトとレタス。ピクルスの酸味とオニオンの辛さも絶妙だ。
「おいしい?」
ドナヴァンの質問に大きく何度もうなずくサフィリナの様子を見て、ドナヴァンもサンドウィッチを口に運んだ。
「うん、おいしい!」
薄切りにしたビーフとパプリカを一緒に炒めて少し辛めのソースで味付けをし、キュウリとキャベツの千切り。レッドオニオンのほかに香草も入っている。
「こういう料理もたまにはいいな」
毎日食べているエリスの料理はもちろんおいしい。ただ、彼女の料理は体のことを気遣って少々薄味だ。その分素材の味を楽しむことができるし、体もすこぶる調子がいい。でも、ときどき体に悪いだろうなと思うくらい濃い味のものや、油の多いものを食べたいときもあるのだ。
「フフフ、エリスに言っておくわ。ドナが体に悪いものを食べたがっているって」
「いやいやいやいや。俺が不満に思っているみたいに言わないで」
「どうしようかなぁー」
サフィリナはさっきの仕返しとでも言いたげにドナヴァンを見る。
「まいったな。エリスさんを出すのは反則だぞ」
そう言いながらドナヴァンが手を伸ばしてサフィリナの口元を親指で擦る。
「え?」
「ソースが付いている」
そう言って、自身の親指についたソースをペロッと舐めた。
「――えっ!」
驚いたサフィリナが顔を真っ赤にして、ドナヴァンはクスリと笑うだけ。
「動揺しすぎだぞ」
そう言って何事もなかったようにサンドウィッチを頬張っている。
(するでしょ? 動揺するでしょ、普通。わざと? 無自覚? からかっている?)
これまでこの距離感を意識したことはなかったけど、なぜか今日はずいぶんと近いような気がして、心臓がどきどきする。
「な、慣れているわよね、ドナは」
「ん? なんのこと?」
「女性の扱い」
「慣れているわけないだろ?」
「そんなはずはないわ。だって……」
ドナヴァンはすぐに人と仲良くなれるし、すごく優しい。容姿だって素敵だし、女性が放っておくはずがない。
「まぁ、確かに慣れているかも」
「え?」
「よく妹の面倒を見ていたからな」
「ああ、そうなのね」
サフィリナは、また先ほどの胸を締めつけられる感覚を思いだした。
(……ドナの妹かぁ。どんな人かしら? 面倒を見ていたってことは歳が離れているのかしら?)
ドナヴァンのことは詮索しない約束だ。だからなにも聞くことはできない。
(でも、やっぱり寂しく感じるわ)
ドナヴァンには人に言いたくない秘密があって、それが二人のあいだに建つ高い壁となっているように感じてしまう。実際、ドナヴァンはこれ以上サフィリナに踏みこんでほしくはない、と思っているのだろう。
(胸が苦しい……)
「……妹とは五つ年が離れているんだ」
「え?」
驚いてサフィリナはドナヴァンを見た。
「すごく俺に懐いていたんだ。……俺が家を出ると言ったら泣いていた」
「……そう」
家出少年、いや家出青年か。
「兄もいる」
「……」
「厳しいけど、優しい人でね。俺が家を出ると行ったときは本気で怒っていたよ」
家族に家を出ると告げたとき「この家を出てお前になにができる」と言った兄の顔を忘れることはできない。
「……」
ドナヴァンは黙りこむサフィリナを見てニコッと笑った。
「まぁ、そういうこと」
「ドナ……」
「俺は女性の扱いに慣れているんじゃなくて、妹の扱いに慣れているんだ」
「ちょ、ちょっと! 私は妹扱いってこと?」
「そういうことだ」
「ひどいわ」
サフィリナがそう言って頬を膨らませると、ドナヴァンは楽しそうに声を出して笑う。少しだけ不機嫌そうな顔をしたサフィリナも、ドナヴァンにつられて笑いだした。しばらく笑いあったあと、わずかな沈黙が二人のあいだに流れた。
「……うそだよ」
「え?」
「妹扱いはうそ。俺は、サーニャを妹扱いしたつもりはない」
そう言ってのぞき込むように見つめる黒い瞳が、サフィリナを捕らえて離さない。
「サーニャを一度だってそういうふうに見たことはない」
「……それって、ど――」
「俺の妹は、サーニャみたいに朝から晩まで仕事のことでいっぱいで、体調不良にも気がつかず、いきなり倒れて人に心配をかけるようなことはしないからな」
「なっ! それについては申し訳なく思っているわ。もう、蒸しかえさないでよ」
ことさらていねいに説明されて、それ以上返す言葉もなくサフィリナは頬を膨らませた。ドナヴァンは声を上げて笑っている。
(なんだか、ごまかされちゃった。でも、家族のことを話してくれたのはうれしいわ)
なにか深刻な問題を抱えているようだけど。
「……余計なお世話かもしれないけど、いつか家族に頑張っているって伝えてあげて」
「……」
「きっとあなたの家族は心配しているはずよ」
「……どうかな? 清々しているんじゃないかな」
「え?」
「俺は不出来だからな」
「そんなこと――」
「君はなにも知らないだろ?」
「……っ」
少し強い口調で問われ、驚いたように口を噤むサフィリナ。ドナヴァンは言ってしまってから気まずそうな顔をした。
「ごめん、こんな言い方をするつもりはなかったんだけど」
「いいえ……私こそごめんなさい。あなたのことを詮索しない約束だったのに」
「……いや、先に話したのは俺だから。でも……もう、俺の話はやめよう。せっかくの時間が台無しになってしまう」
「……そうね」
気まずい沈黙が二人のあいだに流れる。その沈黙を破ったのはサフィリナ。
「……さっきはドナの話を聞いちゃったから、今度は私の話を聞いてくれる?」
そう言ってサフィリナが話しはじめたのは、お転婆でまったく貴族令嬢らしくなかった少女のころのこと。平民の男の子の中に混じって駆けまわり、折れて地面に落ちていた木を拾って、騎士ごっこをしたり、木登りをしたりしていたあのころ、ドレスは動きづらいから嫌い、なんて言って両親を困らせていた。
「サーニャが? ちょっと信じられない」
ドナヴァンは本当に驚いているようだ。
「お母さまにいつも、もっとお淑やかにしなさいって言われていたわ」
このままでは結婚相手も見つからないかもしれない、とウテナは本気で心配をしていた。
「……まぁ、離縁はしたけど一度は結婚したんだから、お母さまの心配は杞憂だったわね」
サフィリナは自虐的に笑う。
「そうだな……」
感情が忙しかったせいか、久しぶりの景色に懐古の情が湧いたせいか、楽しい時間が少し感傷的になってしまったところでドナヴァンが口を開いた。
「……そろそろ帰るか」
「……ええ」
すると、立ちあがったドナヴァンがサフィリナに手を差しだした。サフィリナは思わずドナヴァンを見あげる。
「妹扱いはしていないぞ」
そう言ってニコッと笑った。
「だから、それはどういう意味なのよ!」
そう言いながらサフィリナは差しだされた手に自分の手を重ねる。
「さぁな」
ドナヴァンはそれ以上答えてはくれず、なんとなく悶々とした気持ちを抱える羽目になったサフィリナだった。
読んでくださりありがとうございます。








