新たなスタート⑥
「いい加減に笑うのをやめて」
そう言ってドナヴァンをちょっとだけ睨むサフィリナ。
「わかっているって。でも仕方がないだろ? サーニャが笑わせるんだから」
「笑わせているつもりなんてないわ」
ドナヴァンが飲む? なんて聞くからいけないのに。いや、冗談を冗談と受けとめなかった自分がいけないのか? なんてことを悶々と考えながら、横でクククと笑うドナヴァンをチラッと見た。
(もう……)
ちょっと悔しいけど、ドナヴァンが楽しそうならいいか、と諦めたサフィリナは、彼が笑うのをやめるまで朝市の様子を眺めることにした。
朝市には幼いころから何度か来ていたが、ここ数年はまったく足を運んでいなかったから、ずいぶんと新鮮に見える。幼いころは、この景色を見るだけで胸が高鳴ったし、夢の国に思えたほど。
(今見ると、思ったより朝市の規模は小さいし、夢の国みたいにキラキラしていないわね)
でも生き生きしている。ここには人々の生活があるのだと実感させられる。そう思うとやはり胸は高鳴る。
「そろそろ行こうか」
いつの間にか笑うのをやめていたドナヴァンが立ちあがって、サフィリナに手を差しだした。
サフィリナは、あなたを待っていたのだけど? という思いを存分に込めてドナヴァンに微笑み、その手をとった。
市場など人が集まる場所では、大道芸が行われていて、至る所で音楽が鳴り、拍手や歓声、どよめきの声が聞こえる。大道芸は庶民にとって数少ない娯楽のひとつのため、人気の芸人ともなると、朝早くから場所取りをする観客もいるほど。
二人は手をつなぎ、市場を歩きながら大道芸を見つけては足を止めた。サフィリナは大興奮。
「すごいわ。五個よ、五個! どうしたらボールを五個も一緒に回せるのかしら!」
そう言ってポンポンとボールを投げて、鮮やかにジャグリングする様子に瞳を輝かせる。
「まぁ、あんなに高いスティルツを履いている人を見るのは初めてだわ。私だったら絶対に転んでしまうわね」
足に装着して身長を高くするスティルツで、悠々と歩く芸人を見あげて、ほうっと溜息をつく。
「かわいい! 犬がボールに乗っているわ!」
三頭の犬がそれぞれ大きなボールに乗って、あちこち進む姿を見て黄色い歓声を上げる。
「なんてすてきな歌声。歌劇女優顔負けの美しさね!」
バイオリンの演奏に合わせて、素晴らしい歌声を聞かせる若い歌手に大きな拍手を送る。
「ドナ、楽しいわね」
そう言って眩しい笑顔を見せるサフィリナに、ドナヴァンは「ああ」とうなずく。
大道芸を見て満足した二人は、休憩も兼ねて小腹を満たすことにした。
「なにがいいかしら?」
市場を歩きながら昼食になりそうなものを探す二人。
「そうだな、やっぱり無難にサンドウィッチじゃないか?」
「そうね」
ドナヴァンの提案にサフィリナも同意して、数組並んでいる露店の最後尾に並ぶ。
(ところで、どうして私たちはずっと手をつないでいるのかしら?)
順番を待っているあいだにふと気がついたサフィリナ。
思いかえせば家を出てここまで、歩くときはずっと手をつないでいる気がする。
(ああ、人が多いから迷子にならないように? それなら納得……て、子どもじゃないんだから!)
サフィリナは表情をコロコロと変えながら、あれこれと考えている。その姿をドナヴァンは不思議そうな顔をして見つめていた。
サンドウィッチを買った二人は、丘の上にある時計塔へ行くことにした。
やっぱりドナヴァンが手を差しだす。
「……ねぇ、どうしてドナは手をつなごうとするの?」
「え?」
サフィリナに言われるまでそれに気がついていなかったのか、みるみるうちにドナヴァンが顔を赤くした。
「つ、ついクセで」
「クセ?」
「あー……妹がさ、よく俺と手をつなぎたがったから……そのせいかな」
「……妹さんが、いるのね」
「ああ……」
ドナヴァンはばつが悪そうな顔をして手を引っこめた。
「行こうか」
ドナヴァンは踵を返し時計塔がある丘へと歩きだす。
「……ええ、そうね」
サフィリナは温もりを失った手を見つめ、少し胸が締めつけられるような寂しい気持ちを感じながらドナヴァンのあとを追った。
白く塗られた石造りの壁と、大きな時計に大きな鐘が目印の美しい時計塔は、チェスター領で唯一と言ってもいい観光地だ。
青々した芝生と整えられた花壇。いくつかのベンチにはすでに先客がいて、気持ちのいい風を感じながら話をしたり、子どもたちが芝生の上で遊んだりしている。
そこは小さな丘と言われているが、実際に歩くとわりと斜面がきつい。いや、サフィリナとドナヴァンが運動不足のせいもあるかもしれない。目の前を歩く老人がすたすたと進んでいるのに、二人は息を切らしているのだからそれは否めないところだ。
「やっと着いたぁ」
丘の頂上にたどり着いたサフィリナは、膝に両手を突いて肩で息をしている。これほど体力がなくなっているなんて思いもしなかった。幼いころは毎日のように走りまわっていたし、この丘だって平気で登っていたというのに。
「今はほとんど馬車で移動するし、あまり歩いていないから子どものころより体力が落ちているのね」
それに病み上がりだし、なんて付けたしてみたけど、たぶん普段の運動不足が一番の理由だ。
まぁ、いまさらそれを言っても仕方がない。
気を取りなおして景色に目を遣れば思わず感嘆の声。
「素晴らしい景色ね」
「ああ、そうだな」
そこから見えるのは、広大な土地に広がる緑豊かな自然と点々と建つ民家。視線を右に動かせば、先ほどまで自分たちがいた中心街が見える。左に視線を動かすと、そこに広がるのは収穫を終えたサフィリナの綿花農園。
屋敷からそれほど離れていないというのに、家族を失って以来、この場所に足を運ぶことはなかった。だから、目の前に広がる畑が自身の所有する土地であると理解していても、こうして全体を目にすればその面積の広さに驚く。
「そう……こんなに広かったの」
サフィリナがぽつりと呟いた。
決して知らなかったわけではない。でも、それを実感している時間がなかった。少しずつ農地を広げて、収穫量を上げていっても、どこかで、まだ足りない、もっともっと頑張らなくては、と常に自分に発破をかけていた。だからこんなに広いことを実感していなかったのだ。
「私は余裕がなさすぎね」
いろいろなことから目を逸らしたいとき、『仕事』という言葉は使い勝手がよく、毎日追われるように過ごすことで、その言葉はますます力を発揮した。しかしそれは、弱い自分を隠すための言葉でもあると気がつく。
「私は、自分の弱さを認めるのがいやだったのかもしれないわ」
「……誰でもそうだよ。自分の弱さを認めるのはすごく怖いことだからね」
その言葉がとても切実にサフィリナの胸に響く。
「あなたも、そういうふうに感じたことがあるの?」
「……さぁ。どうだったかな」
それ以上聞かれたくないのか、ドナヴァンは口を閉ざしてじっと景色を見つめた。
「……お腹が空いたわね」
サフィリナがそう言うと、ドナヴァンはサフィリナを見て「俺もだ」と笑った。
二人はいくつか置かれたベンチのひとつに腰を下ろし、ホッとしたように息を吐いた。
風がサフィリナの髪をさらい、汗ばんだ体の熱を奪っていく。
「気持ちいいわ」
忙しない毎日や、王都の賑やかな景色に慣れてしまって、身近にこんなにも緩やかで美しい時間があることを忘れていた。幼いころはこの景色が当たり前だったのに。
「まだ父が生きていたとき、父と一緒に何度もここに足を運んだわ。そのとき見た農園もとても広かった」
父フルディムは、目の前に広がる農園を見て満足そうな顔をしていた。
なにもないところから始め、綿花栽培を成功させ、事業を成功させた。そのすべてが父の生きた証であり、自分が追いかけると決めた道だった。
それがいつの間にかフルディムを偶像化してしまい、自分には手の届かない存在だと勝手に決めつけてしまっていたようだ。
「でも……あのころよりずっと広い農園を見ると、そうではないのかもと思えてくるわ。……私は父に恥じることなくやれているかしら?」
「きっと誇りに思っているよ。天国で自慢しているんじゃないかな?」
そうだったらうれしい。
サフィリナは頬を緩ませながら薄らと瞳を潤ませた。
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