新たなスタート④
ドナヴァンの家の寝室のベッド。しかしそこに寝ているのはドナヴァンではなくサフィリナ。昨日、ドナヴァンの様子を見るためにやってきたが、体調が芳しくなかったようで突然倒れてしまい、今もこうしてドナヴァンのベッドを占領している。
顔を赤くしたサフィリナの額には濡らした布。
「最近ずっと忙しかったから」
「それで体調を崩したら話にならない」
「……ごめんなさい」
ドナヴァンの強めの口調から逃げるように、サフィリナは被っていたシーツで少し顔を隠した。
その様子を見て、ドナヴァンは小さく息を吐く。病人を責めることがよくないことだとわかっていても、言わないと仕事中毒のサフィリナは働くことをやめない。
「しばらくはゆっくりすること。わかった?」
「……うん」
「じゃあ、俺は下にいるから。エリスさん、あとはよろしくね」
「はい。お任せください」
エリスがうなずくと、ドナヴァンは静かに部屋を出ていった。
「迷惑をかけてごめんなさい、エリス」
「いいえ。こんなこと、迷惑でもなんでもないですよ。それに、ドナヴァンさまの慌てる姿を見ることもできて……」
そう言ってエリスがクスクスと笑った。
「ドナの?」
「フフフ、サフィリナさまが元気になられたらお教えしますよ。今はゆっくりお休みください」
エリスがそう言うと、サフィリナは「わかったわ」と言って目を閉じた。
薬が効いたのか、サフィリナはそれほど時間を要さず眠りに就いた。エリスはそんなサフィリナを見つめながら、昨日の出来事を思いだしていた。
普段、人の看病なんてしないドナヴァンは、突然サフィリナが目の前で倒れたことに驚き、あたふたしながらサフィリナを自分の寝室のベッドに運び、屋敷に帰したほうがいいか? いや、体調が悪いのに馬車に乗せたらますます悪くなる、と一人で行ったり来たりして、結局サフィリナが乗ってきた馬車の御者に事の次第を伝え、屋敷から人を寄こすようにと伝言をした。
一時間ほどしてエリスと医師が、薬など諸々を持ってやってきたことにホッとしたドナヴァンは、それでも落ちつかず部屋の前を行ったり来たりしていた。
「ドナヴァンさま、落ちついてください。サフィリナさまの様子もずいぶんと落ちついてきましたから」
サフィリナを着替えさせ部屋から出てきたエリス。急激に熱が上がり、苦しそうにしていたサフィリナを見まもっているあいだ、なにもできずにおろおろしていたドナヴァンは、そう言われて乾いた笑いをこぼした。
「普段元気な人が病気になると、どうしてもね」
よく自分の行動を思いだしてみれば、とてもではないが成人した男性がとるような行動ではなかったとわかるが、突然サフィリナが目の前で倒れ、ドナヴァンの気が動転してしまい、冷静な判断ができていなかったのだから仕方がない。
ドナヴァンがしたことなんて、サフィリナをベッドまで運んだことと、濡れた布を額にのせたこと。しかも使っていないベッドルームがあるのだから、そちらに連れていけばよかったのに、なにも考えずに自分のベッドに運んでしまった。薬がどこにあるのかわからず、いや、そもそも薬のことなんて考えるに至らず、ただ時計を見ておろおろしていただけだった。
もう待てない、と思ったとき馬のいななきが聞こえ、慌てて外に飛びだすと、エリスと医師が馬車から降りてきているところだった。
のちに、そのときのドナヴァンの様子を、窮地を脱した小動物のように安堵した顔、とエリスがサフィリナに言っている。
「それにしてもずいぶん無理をしているようだね」
エリスに任せて部屋を出たものの落ちつかなかったのか、部屋の前の廊下に立っていたドナヴァンはエリスが出てきたのを見てホッと小さく息を吐いた。
「しばらくお屋敷を空けていらしたし、仕事と社交で休む暇もありませんでしたからね」
二か月ほどアネタゴ王国に行って、帰国したと思ったらすぐに王都へ。一か月後に戻ってきて、取引先をいくつか回って、農園や工場の様子を見て、新しく建てた縫製工房へドレスを確認しに行って――。
「とても一人でできる仕事量じゃないな」
ドナヴァンは頭をかきながら、ドアの向こうで眠っているサフィリナの顔を想像した。
「そうですね。しっかり睡眠が取れていなかったうえに、疲れと胃痛で食欲まで落ちていたようです」
医師は帰り、サフィリナは薬を飲んで今は眠っている。しばらく寝させてあげよう、とエリスは階段を下りドナヴァンもあとに続く。
「もうお仕事はなさらないのでしょう?」
そう言ってエリスは、イスに腰を下ろしたドナヴァンの前に、酒を注いだグラスを置いた。
普段ならこの時間は黙々と作業をしているが、さすがに音を立てるわけにはいかないし、とても仕事なんて手に付きそうもない。
エリスは手際よく酒のつまみをいくつか用意し、ドナヴァンの前に置いた。そして自身もイスに座る。エリスの前にはラム酒入りの紅茶。
「気分だけ」
そう言ってカップに口をつけてエリスは笑った。しかしその表情は引きつっている。
ドナヴァンもグラスに口をつける。
「……サフィリナさまは焦っているような気がします」
「焦っている?」
エリスがうなずく。
「自分が頑張らなくては、自分が皆を引っぱっていかなくてはって」
状況が目まぐるしく変わり、事業の規模はどんどん大きくなっていく。その先頭にいるのはサフィリナで横には誰もいない。ジェイスができる限りサポートをしているが、あくまで執事の業務の合間に手伝う程度。
「サーニャをサポートする人間を雇えばいいのでは?」
しかし、エリスは首を振る。
「そう簡単ではありません。女性の下で働こうと思う男性は少ないですから」
「……そうか」
「頭のいい方と言うのでしょうか。学歴の高い方は自尊心もずいぶんと高くて。それに、サフィリナさまに対してよからぬことを考える男性も……」
以前、知人から紹介された貴族子息は、サフィリナと顔を合わせるなり、二人の将来について語りだし「あなたは屋敷を守ってくださればいい」なんて勘違い発言をしたため、即刻丁重にお帰りいただいた。
「ドナヴァンさまのように、素直にサフィリナさまに付いていく男性のほうが少ないのです」
「……」
少し返事に困るが、たぶん悪い意味で言っているわけではないだろう。
「サフィリナさまが望むような能力をお持ちの女性はなかなか見つかりませんし、結局、サフィリナさまがお一人で奮闘されていて。……私たちにできることは、少しでも気持ちよく過ごしていただくことだけですから」
こんなことが起こらないように。
きっと屋敷の使用人たちは皆、悔しい気持ちでいるのだろう。無理をしていることはわかっていたのだから、多少強引にでも休ませるべきだった、とかなんとか。
「もっと私たちを頼ってくださっていいのに、と思うのですが……」
「……」
穏やかな表情を崩さないエリスだが、きゅっと結んだ口元からは悔しさが滲んでいる。
「私はサフィリナさまがお生まれになる前からお屋敷で働いているのです。だからですかね。サフィリナさまを自分の娘のように思っているのですよ。……サフィリナさまはそんなこと思っていらっしゃらないでしょうが」
エリスは眉尻を下げて、寂しそうな笑みを浮かべる。
「だからじゃないかな?」
酒のつまみとして置かれたドライフルーツを咀嚼していたドナヴァンは、酒と一緒にそれを流しこんだ。
「サーニャを小さいころから知っているということは、サーニャのご両親のことも知っているってことだよね?」
「ええ、そうですね」
エリスは、フルディムがこの地に腰を据えたときに採用されたため、ここでのことならすべて知っている。
「優秀な父の姿を知っているからこそ、弱い姿を見せられないのかもしれない」
「え……? まさか。……でもそういえば、ことあるごとにお父さまの足元にも及ばない、なんてことを口にされています」
「もしかしたらサーニャは、無意識のうちにそうやって自分を追いこんでいるのかもしれないな」
自分の中に空いた穴を埋めようと必死なのかも、とドナヴァンが言う。
「……やはり私たちでは、サフィリナさまの力にはなれないのでしょうか?」
エリスはがっくりと肩を落としている
しかしドナヴァンは首を振った。
「いいや。そんなことはない。彼女を支えているのもまた、あなたたちなんだからな。とはいえ、今の状況はよくない」
体調が戻れば、また同じことをくり返すことになるだろう。
「ええ、そうですね」
「それならしばらく仕事を休ませよう」
「ええ……え?」
「サーニャが少し休んだって、困らないだろ?」
「そうかもしれませんが、私からはなんとも」
エリスはあくまで屋敷の使用人で事業のことについてはなにも知らないのだ。
「それならジェイスさんに言っておいてくれ。そうすれば、あの人がどうにかしてくれるだろう」
「でも……」
こればかりは安易に返事をするわけにもいかず、エリスは困り顔。しかしドナヴァンは大丈夫だよ、と笑う。
「そういうわけで、サーニャは今晩ここに泊らせるよ」
「ええ、私もそのつもりで参りました」
「なんだ、エリスさんも泊まるのか?」
男性が一人暮らしをしている家に、主人を置いていけるわけがない。
「心配しなくてもなにも起こらないよ」
ドナヴァンはカラカラと笑う。「病人相手に」という小さい声はエリスの「当然です!」という言葉にかき消されたが。
「とにかく、サフィリナさまがいらっしゃる限り、私もここに泊りますので、よろしくお願いいたしますね」
エリスの勢いに押されてドナヴァンは口を閉じ、エリスはニコッと笑った。
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