ホルステイン侯爵家の人々⑤
視線を避けるようにうつむいて、目を合わせないように紅茶を手にしたときの一瞬の表情を。
「サーニャ――」
「そうだわ! せっかく来てくれたのだから、久しぶりに屋敷の皆に顔を見せてきたらどうかしら?」
自宅兼作業場が見つかるまで、この屋敷に滞在していたドナヴァンは、使用人たちともすぐに仲良くなっていた。顔を見せれば皆喜ぶだろう。
「よくあなたの話をしているから――」
「サーニャ!」
「――っ!」
「俺はサーニャに会いに来たんだ」
「……ええ、そうね。ごめんなさい」
サフィリナは叱られた子どものようにうつむいて、小さな声で謝った。
「……」
ドナヴァンはその様子を見て大きな溜息。
「エリスさんから、サーニャが気落ちしていると聞いた」
「そう、エリスが……」
エリスだけでなく屋敷の使用人たちも皆、サフィリナが気落ちしていることを知っているだろう。もちろんその理由も。
「皆心配をしていると思うよ」
サフィリナは一人で抱えこんでしまうばかりで、使用人たちに胸の内を吐露してくれることはない。その点ドナヴァンは、従業員という立場であってもサフィリナに遠慮がないため、ジェイスたちにはありがたい存在なのかもしれない。サフィリナに会いに来ただけで喜ぶジェイスを見れば、なんとなくそれを想像することができる。
「……ちょっと、気持ちの整理がうまくつかなくて」
「そうか……」
観念をしたのか、サフィリナがぽつりと言葉を吐く。
「ずっと前からわかっていたのに、それが現実になったら、忘れようとしていたことが一気に蘇ってきて、苦しくてどうしたらいいのかわからなくなったの」
「まだ、その苦しい現実を受けいれられないんだな」
「そうなのかな……」
自分としては納得したつもりだったが、実際はただ目を背けただけで、なにも消化できていなかったのかもしれない。その結果がこれだ。
「いつまでも引きずって、本当に……」
こんな自分が情けなくて、息苦しさが腹の下のほうからじわじわと上がってきて、喉元がひりひりと痛くなる。いつしか抑えきれなくなった苦しさが、涙に変わって溢れだした。
「あ……あ? おかしいな。……まだ、なにも言っていないのに……」
拭う涙は一度溢れれば止めることもできず、サフィリナの頬を濡らす。
「ご、ごめんなさい、泣くつもりじゃ……」
慌てて涙を拭うサフィリナ。
「べつに、謝ることじゃない。誰だって泣きたいときはある」
そんなことを言われればますます涙が止まらなくなってしまう。
ドナヴァンは立ちあがり、サフィリナのほうへ進もうとして動きを止め、大きく息を吐いてドアのほうへと向かった。ドアの前にはうつむいて立つリリ。
「リリ」
ドナヴァンから声をかけられて慌てて顔を上げたリリを見て、ドナヴァンはぎょっとする。リリもサフィリナと同じくらい大粒の涙を流していたから。ドナヴァンと目があったリリは慌てて涙を拭い、彼の求めに応じて真新しいハンカチを渡してくれた。
「サーニャ」
ハンカチを受けとったドナヴァンはソファーまで戻り、サフィリナにハンカチを差しだし、それに気がついたサフィリナは鼻を真っ赤にしてハンカチを受けとる。
「ありがとう……」
ハンカチを渡したドナヴァンは、先ほど自分が座っていた場所に戻って静かに腰を下ろした。
サフィリナは、ハンカチで目を覆ったことで気持ちが少し落ちついたようだ。徐々に泣くのをやめ、しばらく沈黙をして、それから目頭を押さえていたハンカチをゆっくりずらし、チラッとドナヴァンを見る。
ドナヴァンとばっちり目があったサフィリナは、恥ずかしそうにうつむいて、ハンカチを握りしめた手を膝の上に置いた。
「私……結婚していたの」
「ああ、そうだったね……」
「え? 知っていたの?」
「まぁ、どうしても耳には入ってくるよ。詳しくは知らないけど」
「そう……」
結婚をしていたことを知っているのなら説明がしやすい。
サフィリナは感情を挟まず、物語のあらすじのように淡々と過去を語った。その物語は、ドナヴァンが思うよりよほど重く苦しいものだった。ハッピーエンドの恋愛小説の盛りあげ役に抜擢されて、ヒロインの登場であっさりと見かぎられた脇役のような、そんな残酷な結末に腹が立った。
それなのにサフィリナはそうではないと言う。
「その道しかなかったの。もし意地になってあの場所にとどまっていたら、今ごろどうなっていたかと思うとゾッとするわ」
「でも」
「エルは……前夫はわからないけど、少なくとも彼の両親は私に対して罪悪感を持っていたし、何度も謝っていたわ。手紙に子どもが生まれたことを書いたのだって、他人の口から知らされるよりいいと思ってのことだもの」
「……」
でも、すべてどうしようもないことなのだとわかっていても、いろいろな感情を抱えたままの心は今でも新しい傷を作る。そして、もし自分とジュエルスとのあいだに子どもがいれば、なんてありもしないことを考えて、ますます嫌悪する。
「二人を祝福できない自分が嫌い。誰も悪くないってわかっていても、子どもが生まれたことを喜べないし、彼らが幸せなのだと思うと……悔しい。……そんな自分がいや……」
セージやケイトリンはサフィリナの幸せを願ってくれているのに。そう思うと、自分がとてつもなく醜い人間のような気がして、気持ちが下降していくのだ。
「そんなの、当たり前のことだろ? 誰だってサーニャの立場になったら、相手の幸せなんて願えない」
「でも」
「俺だったら、絶対クソくらえって言ってるよ」
ドナヴァンはサフィリアを見つめ、まじめな顔でそんな乱暴な言葉を口にする。
「……いいな、そんなふうに言えて。でも、私にはできないわ」
自分をかなしみから救いあげ、大切にしてくれたのも彼らだから。彼らには感謝しかないし、嫌うことも憎むこともできない。
「サーニャ……」
「でも、ちょっと……疲れちゃった」
そう言って笑みを浮かべたサフィリナ。その顔がひどく弱々しく、思わず立ちあがってしまったドナヴァンは、サフィリナの横に座り、うつむいて小さく見える頼りない体を抱きよせた。
「頑張ったな」
「……すごく、頑張ったわ。私……すごく頑張ったのよ」
サフィリナの頬に再び涙が伝う。
「そうだな、えらいよ。サーニャはよく頑張ったよ」
ドナヴァンの言葉がますますサフィリナの感情を昂らせ、くぐもった嗚咽が泣き声に変わる。子どものように声を上げると抑えこんでいた感情が噴きだしてきて、溢れでたそれは押しもどすこともできない。
サフィリナの声が屋敷中に響き、使用人たちの耳に届くと、つられるように涙をこぼす者もいた。それはサフィリナの気持ちに寄りそった涙であると同時に、やっと溜めこんだ感情を吐きだしたのだと安堵する涙でもあった。
しばらく声を上げて泣いていたサフィリナだったが、次第に嗚咽に変わり、いつしかそれも止まった。
(喉が痛い……頭も少し痛いかも)
しかし、今はそんなことよりこの状況が問題だ。
ドナヴァンに抱きしめられ、気がつけばサフィリナもドナヴァンの背に手を回してシャツを握りしめているし、顔を押しつけていた場所は涙でしっかり濡れ、化粧も付いてしまっている。
(ああ……恥ずかしい。いい歳して大泣きするなんて! どうにか、この醜態をなかったことにできないかしら?)
だんだん冷静になってきたサフィリナは、恥ずかしくて顔を上げることもできず、ドナヴァンのシャツに顔を押しつけたまま考えている。
まずはドナヴァンのシャツを握りしめている手を離して――。
(それからどうしたらいいかしら?)
ドナヴァンはサフィリナを抱きしめた腕の力を緩めずにいるし、彼の体を押して離れるのは感じが悪い。
(実は泣き真似でした! ……なんて通用しないわね)
自分の対応力の乏しさにがっくりと肩を落とし溜息をつく。
「サーニャ?」
「え?」
ドナヴァンに呼ばれて顔を上げたサフィリナは、目と鼻を真っ赤にして、化粧もかなり崩れて……まぁ、本人にしたら残念な感じだろう。
思わずドナヴァンの肩が揺れる。
「な、なに?」
ドナヴァンが楽しそうに笑っているのを見て、サフィリナは怪訝そうに首を傾げた。
「いや、少しはすっきりした?」
そう言われて、ようやく腹の底に沈殿した苦しさがないことに気がつく。
「うん……ありがとう。ずいぶん楽になったわ」
「そうか。それなら、俺はそろそろ行こうかな」
「え、もう行くの?」
「ああ。俺が出ていかないと直せないだろ?」
「直せない?」
サフィリナはドナヴァンの言っている意味がわからず首を傾げ、ドナヴァンはその様子を見て楽しそうに笑いながら「すっぴんもかわいいと思うぞ」と言って部屋を出ていった。
「あ、ドナ、シャツを――」
着替えていって、と言いおわる前にドアが閉まった。
「もう、忙しい人ね。……きっとジェイスが着替えを渡してくれるわよね。それにしても、最後のあれは……」
ぶつぶつ言いながら立ちあがったサフィリナは、ふと鏡に映った自身の顔を見て、目を見ひらいた。
化粧が盛大に崩れ、ありえない場所にありえない色がついている。頭の中で、ドナヴァンの「すっぴん」という言葉が何度もくり返される。
「きゃーーー!」
屋敷中にサフィリナの悲鳴が響きわたった。
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