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ホルステイン侯爵家の人々③

 馬車に揺られながら向かいあって座るジュエルスとセージは、互いに資料を見ながら話し合いをしている。


「やはりアカバネ病でしょうか?」

「その可能性が高いな」


 アカバネ病はウイルスを原因とする伝染病で、成獣はあまり症状を示さないが、妊娠母獣が感染した場合、子宮内で胎児に感染をしてしまうと、死産や先天性異常などを持つ子どもが産まれてしまうことがある。


「専門家の意見を聞かないことにはなんとも言えんがな」

「そうですね」


 そう言ってジュエルスは再び資料に目を遣った。


「生活には慣れたか?」


 唐突にセージが聞く。


「はい」

「困っていることはないか? わからないことでもいい」


 すでに屋敷で生活を始めて半年以上たっているにもかかわらず、いまだに距離のある息子に、セージが慎重に話しかける。


「快適に生活できています。記憶も……少しずつですが」

「そうか」


 とはいっても断片的で、両親に対してはいまだに他人行儀だし、自分を知る人たちから話を聞いても戸惑うばかり。


 それでも、潜在的に残っていた記憶が彼を助けていることは間違いない。ダンスは体が覚えていたし、乗馬も難なくこなした。当主の仕事を覚える早さが並みではないのは、すでに身に付いていることをもう一度学んでいるからなのだろう。


 ただ、剣を握ることだけはしなかった。家族もそれだけは絶対にさせないと、騎士に関係するものはすべて処分してしまった。


「お父さんと乗馬をしたことも思いだしました」

「そ、そうか」


 何度も二人で高原まで馬を走らせたが、いつのことだろうか? いや、そんな細かいことはどうでもいい。彼が少しずつでも過去を思いだしているのは大きな進歩なのだから、余計なことを聞いて追いつめるようなことをするべきではない。だから、彼女のことは? と聞きそうになってセージは慌てて口を噤んだ。


 しかし、ジュエルスが自ら口にする。


「彼女のことも……少しだけ」


 最悪なことに、サフィリナに結婚をしてほしいと言ったときのことを思いだしてしまった。あのときの緊張と、彼女の驚いた顔。彼女は自分になんと言っていたのだったか。


「……そうか」


 これからもサフィリナのことを思いだしていけば、間違いなく彼女を強く意識してしまうだろう。それだけははっきりと理解することができた。なぜなら、サフィリナのことを思いだすたびに胸が締めつけられ、言葉にできない感情が静かに熱を帯びはじめているから。


 だから意識して彼女のことを考えないようにしているのに、ふとした瞬間やなんとなく覚えのある既視感が、彼女との記憶を蘇らせ、少しずつジュエルスを苦しめはじめている。


「過去に戻ることはできない」

「はい、わかっています」


 ジュエルスは少し表情を暗くして小さくうなずいた。


 コルファックス子爵邸に着いたのはその日の夕方。


「お待ちしておりました」


 笑顔で出むかえたコルファックス子爵夫妻は、セージを見て、それからジュエルスを見て大袈裟なくらいに声を上げる。


「おお、ジュエルスさま。噂で聞いておりましたが、ご無事でなによりです」


 自分たちの記憶よりもずっと精悍な顔をしているジュエルスに驚き、それから満面の笑みを浮かべた。


 ジュエルスが小さく頭を下げる。


「さぞやサフィリナさまもお喜びでしょう! さぁ、中へお入りください」


 そう言って二人を邸の中へと案内する。


「お子さまも生まれたと聞いております。めでたいこと続きでなによりですな。サフィリナさまの体調は? その後、お変わりありませんか?」


 ジュエルスが行方不明のあいだ、忙しいセージに代わって領主代理を務めていたサフィリナは、ここコルファックス領にも何度も足を運んでいて、コルファックス子爵夫妻とも親しい間柄だ。


「……サフィリナはチェスター領に帰りまして」

「え? なんですって?」


 セージの言葉が理解できずに子爵が聞きかえす。


「二人は離縁したんです」

「……え、離縁?」

「ええ。息子の子を産んだのは別の女性でしてな」

「……」

「今度、紹介させてください」


 セージはそれ以上なにも言わず、ジュエルスもうつむいた。


「そ、そうでしたか。なにも知らず、余計なことを聞いてしまい申し訳ございません。いやぁ、いろいろありますからな。そうでしたか、いやー、ハハハハ」


 子爵は大袈裟なくらい陽気な声で話しながら、二人を客用寝室へと案内した。


「食事の準備が整いましたら声をおかけしますので、それまでゆっくりなさっていてください」

「お気遣いいただきありがとうございます」

「いえいえ、なんのなんの」


 コルファックス子爵夫妻はそう言うと、にこやかな笑顔で部屋を出ていった。しかし、部屋を出てしばらくすると夫妻の顔から笑顔が消え、どちらともなく溜息をつく。黙りこんで廊下を歩きながらようやく夫人が口を開いた。


「どういうことでしょうね?」

「……さぁな」


 セージに代わって必死に領地を守っていたサフィリナと離縁? 想像もしていなかった言葉にまだ信じられない気持ちだが、それが事実なら正直がっかりだ。いったいいつ離縁をしたのだろうか。ジュエルスが見つかったという話も、直接セージから聞いたわけではないから詳しくは知らないし。


「なぜ、離縁なんて……」


 若いサフィリナが、ホルステイン侯爵家を支えるために尽くしていたことを思いだすと、胸がもやもやとしてうまく消化できない。


「いろいろあるんだろうさ」


 ジュエルスがほかの女性と子を作ったということは、戦地妻ということだろうか。しかし、いくら子どもができたからといって、あれほど献身的に自分たちを支えてくれていた女性を追いだすのか? 彼女はずっと彼の帰りを待っていたのだ。それなのに離縁だなんて極端すぎる。サフィリナが浮気を許さなかったのだろうか? サフィリナ以外の女性ならその可能性は十分あるだろうが、果たしてサフィリナがそれを理由に離縁なんてするだろうか? それとも後妻に収まった女性が、サフィリナよりよほど素晴らしい女性ということなのだろうか?  それでジュエルスの心が完全にサフィリナから離れてしまったとか?


(……あんなに仲のいい夫婦だったのに……。ひどい話だ)


「今ごろサフィリナさまはどうされているのかしら?」 


 サフィリナとはなにかと顔を合わせることがあったが、彼女はいつも笑顔で、自身が大変な状況になっていることなんて微塵も感じさせないたくましさがあった。未来の侯爵夫人だからといってこちらを下に見るようなことはせず、常に謙虚だった。とても魅力的な女性だったのだ。


「困っていることがあれば、助けてあげたいけど」

「そうだな」


 コルファックス子爵は大きな溜息をついた。


「ジュエルスさまにとっても、サフィリナさまはとても大切な方だったはずなのに」

「……他人さまの家のことだ。余計な詮索はやめよう」


 人の心なんて他人にわかるわけがない。


「彼らもまた、人には言えないことがあるのだろう」

「……そうですね」



読んでくださりありがとうございます。

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