ホルステイン侯爵家の人々②
教育係のヘッセ伯爵夫人を前にカーテシーをしているマニシャ。すでに五分ほど同じ姿勢を保っているせいで、足は疲れて震え、体全体が揺れている。
「では、そのままあいさつをしてください」
「はい」
カーテシーの姿勢のまま小さく息を吸ったマニシャ。
「あたしは――」
「――あたし、ではなく私です」
「……私」
「そうです。では続けてください」
ヘッセ伯爵夫人の淡々とした声が頭上から聞こえる。
「私はマニシャ・マホロア・ロジカです。未熟ですが――」
「――未熟者ではございますが」
マニシャの言葉を訂正して、ヘッセ伯爵夫人が溜息をつく。
「……未熟者ではございますが、よろしくお願いします」
そう言って顔を上げたマニシャ。
「まだ、顔を上げていいとは言っておりません」
「は、はい、ごめんなさい」
そう言って慌てて膝を折って姿勢を戻す。
「……」
マニシャの頭上から大きな溜息が聞こえ、思わず肩がビクンと揺れた。
「顔を上げてください」
ヘッセ伯爵夫人の言葉でようやく体を戻したマニシャは小さく息を吐いた。同じ姿勢を保っていたせいで腰が痛い。
「この程度で疲れているようではいけません。それから、未熟者なんて言葉よりも、会えてうれしいなどのほうが適切でしょう」
「はい、すみません」
「お立場を考えればわかるはずです」
「はい」
「マニシャさまには次期侯爵夫人としての自覚が足りません。それから――」
「……」
ヘッセ伯爵夫人が細かく問題点を上げているのに、内容がマニシャの耳を右から左に抜けていく。何度言われても忘れてしまうし、同じところで失敗をしてしまう。言葉遣いだって簡単には直らない。少しの間違いでもヘッセ伯爵夫人はいちいち指摘して、大きな溜息をつきながらやり直しをさせるものだから、まったく次の段階にも進まない。
これではいつまでたっても社交界デビューなんてできないのではないだろうか。
(あたしが平民出身だからばかにして、わざと同じことばかりやらせているのかも。もしかしてあたし、いじめられてる? どうしよう。お義母さまに相談してみようかな。ううん。きっとそんなことはないって言われちゃうわ。エルは? エルならなんとかしてくれるかもしれない)
「――さま、マニシャさま!」
「え?」
ヘッセ伯爵夫人の呼ぶ声にようやく気がついたマニシャが、慌ててそちらに視線を向けると、わずかに目をつり上げた夫人がマニシャを見つめている。
「すみません。考え事をしていて」
するとヘッセ伯爵夫人が大きな溜息をついた。
「こんな短い時間も集中できないなんて」
「え? 短い?」
授業が始まったとき一を指していた短い針は、すでに二を指しているのに、短い時間?
「サフィリナさんは、二時間くらい平気で授業を受けていましたよ。十分間カーテシーをし続けても、体がぶれることはありませんでした。それに、彼女もそれほど言葉遣いや所作が上品とは言えませんでしたが、日々ご自身で努力をされ、短い期間で未来の侯爵夫人にふさわしい教養を身に付けられました」
いつも夫人はこうしてサフィリナを引きあいに出してはマニシャと比べる。
「で、でも、あの人はもともと貴族で、あたしとは違います」
「そうですね。ですからあなたは彼女の何倍も努力しなくてはいけません」
「でも……」
「あなたは未来の侯爵夫人なのです」
そう言われてしまえば「はい」とうなずくしかない。
授業が終わると、マニシャは自室のベッドにバタリと倒れこんだ。
「マニシャさま、ドレスを着がえましょう」
マニシャ付きの侍女モニカが、部屋用のドレスを出してきた。
「……もう。なんで毎回着がえないといけないの」
疲れて帰ってきてもまずは着がえ。なにをするにもまずは着がえて髪を整えて。身支度だけで半日は時間を使っているのではないかと思える。
「でも、ドレスにしわがついてしまいます」
「……わかっているわ」
マニシャは仕方なくベッドを降り、モニカが用意したドレスに着がえるために鏡の前に立った。
「エルは、部屋にいるかしら?」
今日のことを話して、夫人にそれとなく注意をしてもらいたいのだけど。
「ジュエルスさまは、旦那さまと一緒に視察に行かれているため、本日はお戻りになられません」
「え? 聞いていないけど」
「朝食のときに旦那さまがそれについておっしゃっておりましたが」
そんな話をいつしていただろうか?
「コルファックス領で、家畜が死産したり、異常体形で子どもが生まれたりしていて、ホルステイン領でも同じようなことが起こったので、両領主で問題解決にあたるために、専門家を連れて話し合いをするとおっしゃっていたではないですか」
「……そうだったかしら?」
「コルファックス領まで行くとなると、今日お戻りになることはまず無理ですし、諸々のことを考えたら、十日から二十日くらいはかかるのではないでしょうか?」
(なに、それ。そんな話だったの? なんでエルは教えてくれないの?)
マニシャの隣で食事をしていたのに、ジュエルスはそんなことひと言も言わなかった。
「その場で奥さまも承知されていましたし、あの場にいた人は全員理解していると思いますが」
「え?」
驚いてモニカを見ると、冷めた目でこちらを見ていた。そんなこともわかっていないのか、とモニカに言われているような気がして、かぁっとマニシャの顔が赤くなる。
「そう……だったわね。あたしったら、すっかりそのことを忘れていたわ」
マニシャは引きつった笑顔でドレスを着がえた。
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