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ホルステイン侯爵家の人々①

 日がずいぶんと傾いてきた時間。ホルステイン侯爵邸の庭園で花を眺めているのは、ジュエルスと臨月を迎えたマニシャ。


「体調はどう?」


 ジュエルスの質問にマニシャはかわいらしい笑顔を浮かべて「とてもいいわよ」と答えた。


 美しいドレスを着て、今までよりずっと贅沢な食事を取り、柔らかいベッドで寝て毎日医師の診察を受ける。ホルステイン侯爵邸の使用人たちも最初こそぎこちなかったが、最近ではずいぶんと仲良くなることができている。


 もちろん全員が受けいれてくれているわけではないが、平民出身の自分にいじわるをしないだけでも十分好意的。間違いなく幸せだ。


 でも、この幸せは長く続かないのではないか、と不安に感じてしまうときもある。


 ケイトリンがときどき自分に向ける無感情な視線に胸が詰まる。セージの小さな溜息に心臓が痛くなる。


 二人が今でも、サフィリナを離縁させたことに苦しんでいると知っているから。その原因がマニシャであると自覚をしているから。


 マニシャがいなければ、せめて妊娠などしていなければ、こんなことにはなっていなかったはずだ。それを思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになるのだ――。


(……なんて、うそ。本当はあたし、こうなることを望んでいた。だって、エルを取られたくなかったんだもん)


 だから、ジュエルスがなにも覚えていないという事実に、大きなショックを受けているサフィリナに対して、さらに追い打ちをかけるように、ジュエルスの手に自分の手を重ねて励ました。あなたはなにも悪くない、と。


 平民の自分では貴族のサフィリナに勝てなくても、自分にはジュエルスとの子どもがいる。それにジュエルスからの揺るぎない愛情も。だから気後れはしたけど、サフィリナに負ける気はしなかったし、彼女に知ってもらいたかった。彼の隣には自分がいるのだと。


(……あたしっていやな女)


 それは十分に自覚している。でも、この幸せを手放したくはない。新しい命のためにも、失うわけにはいかない。


 マニシャは腹に手を当て、元気に動きまわっている愛しい存在を感じた。


(あたしの赤ちゃん。一緒に幸せになろうね)


 ふと、うつむいたマニシャの肩を、温かく大きな手が包んでいることに気がついた。


「冷えるのか?」

「ううん」


 マニシャはそう言って首を振る。


「あたし、すごく幸せだなって思って」

「僕も幸せだよ」


 ジュエルスはマニシャを優しく抱きよせ、額にくちづけを落とす。ふと優しい風が、二人のもとへ甘い花の香りを運んだ。


「あの花はなに?」


 マニシャが指をさしたのは黄色の花。


「ああ、オステオスペルマムだ」

「オステ、オ……」

「オステオスペルマム、多色の多年草だな」


 やわらかい色味が特徴で初心者でも育てやすい。


「詳しいのね」

「ああ……そうみたいだ」


 今、目にしている花はすべて知っている。特別花が好きというわけでもないのだけど。


 ふとジュエルスの目に留まったのは、ガゼボに近い場所に咲いている花。いつもその花を目にすると、ジュエルスの胸の奥がざわつくのだ。


(ああ、そうか)


 彼女が好きだと言ったから、自分も好きになったんだった。


「ルドベキアがきれいに咲いているな」

「ルドベキア?」

「君、好きだっただろ?」

「え……? 私が?」

「ああ」


 草原に咲いていたルドベキアを見ながら、花の中で一番好きだと言っていた。


「……そう、だったかしら?」


 マニシャは首を傾げ、考えるような顔をしている。その顔を見てジュエルスは気がつく。


「……あ、ごめん」


(マニシャじゃない。マニシャが好きなのはバラだ)


 美しくて優雅で憧れの花だ、とそう言っていたではないか。では、ルドベキアを好きだと言っていたのは、誰だ?


 ジュエルスはなにかを思いだそうとして黙りこんだ。


「エル?」


 マニシャの問いかけに気がついていないのか、じっとなにかを考えているその姿に不安がよぎる。そしてマニシャは気がついてしまう。彼が言っているのはサフィリナのことなのでは、と。


(もし、エルがあの人とのことを思いだしたら……)


 と、衝動的にぐっとジュエルスの腕をつかんだ。ジュエルスは突然のことに驚いてマニシャを見つめた。


「ちょっと寒くなってきたわ」


 ジュエルスを見あげるマニシャの顔がわずかに曇っている。


「そうか。体を冷やしてはいけないね。部屋に戻ろう」


 ジュエルスの言葉にマニシャがうなずき、二人は踵を返し、部屋へと戻っていった。


 ガゼボの近くに咲く、フォレストグリーンのルドベキアが静かに揺れている。





 ホルステイン侯爵邸に赤ん坊の泣き声が聞こえたのは、日差しが強く照りつけ、夜になっても蒸し暑い日の夜半。


 長い陣痛に苦しんだマニシャが、二日かけて産みおとしたのは元気な男の子だった。


 屋敷の廊下で、今か今かとそのときを待っていたジュエルスとセージ、そしてケイトリンは、子どもの泣き声を聞いてホッと息を吐いた。


「おめでとう、エル」


 セージがそう言ってジュエルスの肩を叩くと、「ありがとうございます」とジュエルスが少し他人行儀に礼を言ったのは一か月前のこと。


 そして現在。


「まぁ、なんてかわいいのかしら?」


 毎日同じ言葉を口にして、腕に抱く赤ん坊の甘い匂いを堪能しては目を細めるケイトリン。


 新しく増えた家族はウェストン・アウェイド・ロジカと名付けられた。


 茶色い髪に薄茶色の瞳。ジュエルスの特徴的な銀の髪も、黄色の瞳も受けついではいないが、面立ちはジュエルスに似ている。間違いなくこの子はジュエルスとマニシャの子どもで、ホルステイン侯爵家の次代を担う宝だ。


「お義母さま、お祝いの品、ありがとうございます」


 マニシャは控えめにそう言って頭を下げた。


「気に入ってくれたかしら?」

「はい、もちろんです」


 ウェストンのためにあらゆるものを買いそろえ、不足などなにひとつないというのに、ケイトリンは新たに服を十着も用意した。


 さらにマニシャのために帽子やシャトレーンバッグを購入し、体型が戻ったら新たにドレスを買いにいこうと言っている。


「こんなにいろいろ貰ってしまって、なんか申し訳ないです」

「なにを言っているの。あなたは次期侯爵夫人となるのよ。その立場に合ったものを享受するのは当たり前だし、その分あなたも頑張らなくてはいけないのよ」

「は、はい! あたし、頑張ります」


 平民の自分が侯爵夫人。優しい夫と義両親。かわいい息子と誰もが羨む贅沢な暮らし。なにもかもが素晴らしく、いまだに夢の世界にいるような気分になる。


 しかも、その夢はさらなる夢へとマニシャを連れていってくれる。華やかな社交界、華やかなパーティー。そこでジュエルスとダンスを踊り、貴族たちと友達になり、お茶会を開いて優雅な時間を過ごすのだ。


 故郷の皆が今のマニシャを見たらきっと目を丸くして驚くだろう。お姫さまと間違えてしまうかもしれない。


 そんなことを考えるとマニシャの頬が緩む。


「今までは、妊娠出産を終えたばかりだったからのんびりさせてあげたけど、これからはそういうわけにはいかないわ」


 自分の幸せに酔いしれていたマニシャは、ケイトリンの言葉ではっと我に返った。


「え……あ、はい」

「貴族の世界はとても醜くて苛烈なの」

「……?」

「どうやって相手を蹴おとすか、常に誰かが虎視眈々と隙を狙っているわ。特にあなたは前妻からその立場を奪ったと思われるでしょうから」


 ケイトリンがさらりと言った言葉が、マニシャの頭にガツンと衝撃を与えた。


「あなたに対する当たりは特に厳しくなるでしょう」

「……」

「もちろん、私たちが全力で守るわ。でも、あなたも自分を守れるように、その術を学んでほしいの。それに、しっかり教養を身に付ければ、余計なことを言う人もいなくなるはずよ」


 そうだった。夢のような時間が続きすぎて、彼女の存在をどうしても忘れてしまいがちだが、自分はサフィリナの立場を奪った人間なのだ。


「はい……わかっています」


(あたしたちはただ愛しあってしまっただけなのに、あたしが悪者みたい。……ひどいわ) 


 気がつけばそんな感情がマニシャを支配している。


「マニシャ?」

「あ……はい」


 マニシャの曇った表情に気がついたケイトリンがニコッと笑った。


「大丈夫。マナーや言葉遣いなんてすぐに身に付くわよ。読み書きもそれほど難しくないし、計算だって覚えれば簡単よ」


 マニシャが黙りこんでしまったのは、自身の教養のなさを気にしてのことだろう、と理解したケイトリンが、励ますつもりで言った言葉。


 しかしマニシャにはまったく励ましになどなっていないどころか、さらに落ちこませる。


(字も読めないのに計算まで? 貴族の女の人は、男の人みたいに勉強しないって聞いたのに)


 しかし、黙りこんだマニシャの心の声などケイトリンが知る由もない。


「そうだわ。来週にでも先生をお呼びしましょう」

「え? もう?」


 出産してから一か月しかたっていないのに。


「少しでも早く始めたほうがいいわ。それで、できれば来年には社交界にデビューできたらいいわね」

「社交界にデビュー……」


 夢のような世界を想像していたのに、ケイトリンの言葉で自分の立場を思いしらされ、もったりとした黒い感情がゆっくりと体に沈殿していく。


「でも……あたしなんかが社交界でやっていけるでしょうか?」

「なにを言っているの?」


 ケイトリンが笑う。


「やっていかないとだめなのよ。あなたは未来の侯爵夫人なのだから。家名に泥を塗ることも、品位を下げることも許されない。そういう立場にいるんだから、死に物狂いでやってちょうだい」

「……」


 ケイトリンにさらりと言われ、マニシャの背中にいやな汗が流れた。


読んでくださりありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
このエピソードとても好きだ。 マニシャの幼さ愚かさがよく分かる。 彼らの結婚指輪をどこに隠したのか、捨ててしまったのか。 罪悪感より自らの欲望に忠実なのだろう。 また、侯爵夫人としての責務には耐えられ…
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