ドナヴァンとの出会い①
サフィリナがネルソン男爵邸に着いたのは、ホルステイン侯爵邸を出てから十日が過ぎたころ。主の突然の帰宅に驚いたネルソン男爵邸の使用人たちが、慌てて屋敷を飛びだしてきた。
「サフィリナさま!」
執事のジェイスの声を聞いて、馬車から降りてきたサフィリナが顔を上げた。
「ジェイス、ただいま。皆も」
そう言って使用人たちを見まわす。
「急なお帰りで驚きました」
「ごめんなさい。先触れを出しておくべきだったわね」
「いえ、問題ありません。サフィリナさまがいつお帰りになられてもいいように、常に準備をしておりますから」
「ありがとう。早速で悪いけど、話があるから皆を応接室に集めてくれる?」
「かしこまりました」
ジェイスが恭しく頭を下げた。
屋敷の使用人は全員で六人。皆献身的に務めてくれた信頼のおける人たちだ。
「私、ジュエルスと離縁したわ」
「なんですって?」
応接室に集められた使用人たちは、想像もしていなかった言葉を耳にして一様に驚いた。
「落ちついて。これは互いに納得したうえでのことなの」
事情を説明しているあいだ、使用人たちは顔を青くしながら聞いていた。その心境がとても複雑であることは、サフィリナの目にも明らかだった。
それもそうか。いくら事情が事情とはいえ、離縁なんて気軽に聞ける話ではないのだから。
「私が、私のことを忘れてしまった彼と一緒にいることができなかったの」
サフィリナがそう言ってしまえば、皆無理やりにでも納得をするしかない。
「彼女が妊娠していたことで選択肢がなくなって、みっともなく縋らずにすんだから、よかったのかもしれないわ。そうじゃなかったら、今ごろ泥沼だったかも」
サフィリナが明るく振る舞えば振る舞うほど、使用人たちの顔は曇っていったが、誰もその胸のうちを口にはしなかった。強がるサフィリナを痛々しいとは思わない。彼女は多くの傷を必死に癒しながらここまでやってきたのだ。ただ、そんな彼女の苦しみを知らずに過ごしていた自分たちを恥じるだけ。
「これからはずっとここで暮らすことになるから……皆、よろしくね」
「私たちも……楽しみですよ。ずっとお帰りをお待ちしていましたから」
ジェイスやほかの使用人たちはにこやかに微笑み、主の帰宅を歓迎した。
サフィリナの忙しい毎日が始まった。
「三週間くらいで帰ってこられると思うわ」
そう言って馬車に飛びのったサフィリナは、カステージ領に向かう予定だ。強度が格段に上がったと言われている最近注目の糸を作っている紡績工場。そこが今回の目的地。
実は紡績機を作った人を紹介してほしいと手紙を送ったのだが、当然のことだが断られた。それなら紡績機を見せてほしいとお願いをしたが、今度は返事もないまま一か月。それならば直接足を運んで頼んでみようと思ったわけだ。
「無理よねぇ……」
人材は宝、紡績機は事業の要。そんな大切な企業機密を簡単に教えてくれるはずがない。しかしそれはわかっているが、一度断られたくらいで諦めるわけにはいかない。
だいたい、職人でもないサフィリナが紡績機を見たからといって、真似できるわけでもないのだが、待っていても職人はやってこない。それならとにかく動いてみよう。そう思った。まぁ、簡単に言えば、やみくもに突っぱしっているわけなのだが、無駄のように思えることが意外と無駄ではないこともあるのだ。
「……なんちゃって」
本当は、少しだけ自棄になって、わざと忙しく動いたり、周りが理解できないような行動をとったりしている。
「わかっているんだけど……まだまだね、私は」
心の中に居すわってしまった黒く小さなシミが広がらないように、大きく息を吐いて窓の外に目を遣った。
カステージ領に着いたのは屋敷を出て八日目。目的の紡績工場は想像より小さい石造りの建物で、機械音が絶えず聞こえている。工場の中には数台の紡績機と作業をする女性たち。
「あんた、なんか用か?」
女性たちが作業をしている様子を見ていたサフィリナに、一人の男がぶっきらぼうに声をかけてきた。この繊維工場の社長のロハンだ。それに気がついて慌ててバッグから、自分と工場の名前が書かれた名刺を出すサフィリナ。
「私、先日お手紙を送ったサフィリナ・ナーシャ・ラトビアといいます」
「手紙? ……ああ、紡績機を作った人を紹介しろだの、紡績機を見せろだのと言ってきたやつか」
「はい、そうです」
サフィリナは悪びれもせず返事をした。ロハンは不愉快そうに眉間にしわを寄せる。
「それについては断ったはずだが?」
ロハンはサフィリナをギロリと見て、それから名刺を近くにあったゴミ箱に入れた。
「……」
「帰ってくれ。あんたに見せてやれるもんはなにもない」
そう言って踵を返すロハンに、逃がさないとばかりに声をかける。
「それでしたら、工場の中を少し見学させてもらうことは?」
「は?」
明らかに不機嫌な顔をしたロハンは、チッと大きく舌打ち。
「どこに企業機密を教えるヤツがいるんだ。早く帰れ!」
そう言ってサフィリナに詰めよる。サフィリナはあとずさり、ロハンはさらに距離を詰める。
「出ていかないと憲兵部隊を呼ぶぞ」
「……わかりました。今日のところはこれで失礼します」
サフィリナがそう言うと男は再び舌打ちをして、サフィリナを工場の外に押しだした。
「二度と来るな」
ロハンはサフィリナを睨みつけ、フンと鼻を鳴らして扉を勢いよく閉める。
「……取りつく島もないか。そりゃ、そうよね」
サフィリナだってロハンの立場になれば間違いなく断っている。
「仕方ない」
それなら注目の糸を見てみよう、と糸を販売している店を探すことにした。が、店はすぐに見つかった。工場の周辺には直営の問屋や小さな店があって、すべての店で糸を売っていたのだ。
「これが……」
店に売られている糸を手に取り、じっと見つめる。ムラのない撚り具合と均一な糸の太さ。これまで見たことがないほどきれいな糸だ。
「これは素晴らしいわ」
思わず感嘆の声を上げる。
「すごいでしょ?」
真剣な顔をして糸を見ていたサフィリナに声をかけてきたのは店番の女性。
「最近大人気の糸よ。丈夫で撚りのかけ方が独特なの」
「撚りのかけ方?」
「ああ……」
若いサフィリナを見て、わからないわよね、と笑った店番の女性は、糸は撚ることで強くなるとていねいに説明をした。
「簡単に言うと、糸をねじって強くする感じ。ねじるとその分糸に密度が増して丈夫になるんだけど、ねじりすぎて太くなったりムラができたりしないように工夫されているのよ」
「つまり、この糸は撚りが独特だからほかの糸より丈夫ということですか?」
サフィリナがそこまで言うと、店番の女性ははたと気がついて少し困った顔をした。
「ごめんなさい。実はあまり詳しく説明できないの。ほら、この糸最近注目されているから、技術を盗もうとする人が多くて、あそこの社長がぴりぴりしていて」
なんて声を落として説明をする。
「はぁ……」
それは私のことですね、なんて言ったら店を追いだされそうだ。
「じゃ、この糸をください」
そういってサフィリナは細めの糸管にしっかりと巻きつけられた白い糸を十個、染色された糸を各色十個ずつ、合計で百個ほどの糸を購入した。
「あら、ずいぶん買ってくれるのね」
「ええ。実は私は他領から来ていまして。なかなかここまで買いに来ることはできませんから」
「そう。最近そういう人、多いわよ」
サフィリナのように、遠くから来た人が大量に買いこんでいくらしい。
「あの……この糸を作った紡績機って、どこかで販売されているのでしょうか?」
「……なんでそんなことが気になるの?」
店番の女性は怪訝そうにサフィリナを見た。
「先ほどもお話したように、私は他領から来ておりまして、欲しいときに糸を買うことができません。それで、もし紡績機を買うことができたら、欲しいときに糸が手に入るなと思いまして」
「まぁ、誰でもそう思うわよ」
女性はその気持ちを理解することは難しくないと納得したようだ。そしてサフィリナをじっと見つめる。
「あ、気にしないでください。ちょっとそう思っただけなので。そんなすごい紡績機を簡単に手に入れられるはずがないですよね」
無知な発言を恥ずかしがるようにうつむくサフィリナ。その様子を見た女性は、気が緩んだのか、害はなさそうだと思ったのか、言わなくてもいいことを言ってしまう。
「――実はね、あの工場では機械を作る職人を何人か雇っているんだけど、どうも今回の紡績機はその職人たちが作ったものじゃないらしいの」
「え?」
「紡績機のことを文句言っていたから間違いないと思うわ」
「では、誰が?」
女性は辺りを確認してから声を落とし、サフィリナに顔を寄せた。
「私はドナヴァンじゃないかと思っているの」
「ドナヴァン?」
「工場の雑用係よ。機械の整備とか部品の調整とかやっているの。けっこういい男よ」
「雑用係……」
「ここだけの話、最近あの人、頻繁にけがをしているんだけど……私は、職人たちにやられているんじゃないかと思っているのよね」
三年前にふらりとこの地にやってきたドナヴァンは、職人になりたいと繊維工場の社長に頼みこんで、雑用係として雇ってもらった。
「彼、知識はあったし、手先は器用なんだけど、実務経験がなかったらしいの。だから、仕事をしながら職人たちに一から教えてもらって、ある程度の技術が身に付いたら職人にするっていう話だったらしいんだけど」
「らしいんだけど?」
女性は小さく首をすくめた。
「なんか、職人って無駄に矜持が高いじゃない? 簡単に職人になれると思うなとか言って、けっこう陰湿ないやがらせをしてたのよね」
「そうですか……」
「それなのに、職人でもないドナヴァンが紡績機を作ったものだからおもしろくないでしょ? しかもいい男だし、職人にしたら腹が立つことばかりだもの」
女性はそう言ってケタケタと笑う。
「だからって暴力を振るっていいわけじゃないけど、あそこの社長、見て見ぬふりしているのよ。面倒事は避けたいだろうし、職人と雑用係ならどっちの肩を持つかなんてわかりきっているわよね」
もしドナヴァンの肩を持って、それに腹を立てた職人たちが、仕事をボイコットするようなことになったら困る、ということらしい。
「なんだか面倒ですね」
「そう! 大の大人が嫉妬なんてみっともないったら。……あ、でも私が言ったって内緒よ。ばれたらうちに品物を卸してくれなくなっちゃうから」
つい余計なことまで言ってしまったことに気がついて、女性は慌てて言葉を足した。
「もちろんです。いろいろ事情がありますよね」
サフィリナはニコッと笑う。
「そうなのよ、本当に困るわよね」
そう言いながら糸でいっぱいになった袋をサフィリナに渡した。
「ありがとうございます。また来ますね」
「ええ、待っているわ」
サフィリナは両腕に大きな袋を抱え、小さく頭を下げて店を出ていった。
「ドナヴァン、ね……」
無駄のように思えることが意外と無駄ではない。こんなふうに。
読んでくださりありがとうございます。