想像していなかったこと⑤
執務室を出て自室に戻ると、真っ青な顔をしたモニカが駆けよってきた。
「サフィリナさま、申し訳ございません。少し休憩をしようと思って」
「大丈夫よ、モニカ。少し、お義父さまとお義母さまと話をしていたの」
「え?」
「とにかく部屋に入りましょう」
サフィリナはそう言って部屋のドアを開け、中へと入っていった。そのあとにモニカが続く。部屋に明かりを灯し、不安そうな顔をしているモニカを見て、眉尻を少し下げるサフィリナ。
「これまで、私に尽くしてくれてありがとう」
「え?」
それはどういう意味? と怪訝そうな顔をしたモニカ。
「私、ジュエルスと離縁をして明日屋敷を出ていくわ」
「そんな! なぜです、ありえません」
なぜ、マニシャではなくサフィリナが出ていかなくてはならないのだ。
「それが最善だからよ」
「でも――」
「もう決めたことなの。私が幸せになるためなのよ」
「サフィリナさまが幸せに? ここを出ていくことがですか?」
「ええ」
涙を流すモニカを慰めるようにその手を握る。
「皆が幸せになる方法がジュエルスと離縁することなら、私はそれを選択するべきだと思うの。もちろん皆の中には私も含まれているし、モニカ、あなたもよ」
「ありえません。サフィリナさまがいなくなって、私が幸せになるはずがありません」
「でもね、エルとマニシャさん、それに二人のあいだに生まれた子どもを目にしながら生活する私が、本当に幸せでいられると思う? そんな私を見てあなたは幸せ?」
「……いいえ」
モニカは小さく首を振った。
「……だから、離縁することが最善なの」
それしかないのか。あんなに愛しあっていたのに、別れを決断するしかないのか。
モニカは混乱した思考で必死にあらゆることを考えたが、結局なにも思いうかばずに、がっくりと肩を落とした。
「なんで……こんなことに……」
「本当ね。なんでこんなことになったのかしらね」
枯れることのない涙で頬を濡らすサフィリナは、声を上げて泣くモニカを抱きしめ、しばらく別れを惜しんでいた。
モニカを下がらせたサフィリナは、再び自室を出て庭園へと向かった。濃紺の空に星が瞬き、大きな月と窓からこぼれる光だけしかない庭園には、昼間に見せる姿ほど鮮やかではないが、それでも十分満足できるほど、花々が美しく咲いている。
サフィリナは庭園で過ごすことが好きで、時間を見つけては庭園に行って花を眺め、その香りを楽しんだ。しかし、それができるのも今日まで。明日この屋敷を出れば、二度とこの庭園を目にすることはないのだ。
だから少しでも長くこの目に焼きつけておきたいと思ってしまう。
視線を移せば複数の色のポーチュラカがかわいらしい花を咲かせている。そこから少し離れた所に咲いているマリーゴールドは、ケイトリンが好きな花だ。貴族の庭園では定番のバラの花も咲きみだれている。
美しい花を見れば心は凪いでいき、これ以上かなしむのはやめよう、と自分に言いきかせることができた。
もしかしたらセージが言ったとおり、この決断は尚早だったかもしれない。でも、結局どんなに時間を稼いでも結末は変わらなかったはずだ。それどころか時間をかければかけるだけ、不幸になる未来しか見えない。サフィリナが居すわることで家族はギクシャクし、マニシャは複雑な環境に苦しむだろう。それなら、ジュエルスに嫌悪されるより前に身を引き、他人のような関係のまま終わるほうがよほどいい。少なくとも、ジュエルスとの関係が悪くなることはないのだから。
昼間はあれほど動揺していたのに、数時間のあいだにずいぶんと冷静になったものだ。
「私はわりと薄情なのかもしれないわ」
諦めてしまえば、縋るのをやめてしまえば、それほどかなしいとも思えなくなってくる。それに気がついて乾いた笑いがこぼれた。
しばらく一人静かな時間を過ごしていたサフィリナだったが、かすかな足音に気がついて思考を止めた。でも足音がしたほうを見ることはない。だって彼だってわかるから。
「風が気持ちいいわね」
「……ああ」
少し驚いたような顔をしてジュエルスがうなずいた。
「散歩?」
「……君の姿が見えたから」
「そう」
あなたはいつもそうやって私が一人にならないように、私が一人でかなしまないように、ずっと隣にいるよ、と言って私の手を握ってくれたわ。
「私、ここから花を見るのが好きなの」
「そうか」
あなたも、ここから見る景色が好きだと言っていたのよ。
「僕は、君と……夫婦だったんだろ?」
「……ええ、そうよ」
他人事のように言うのね。
「教えてくれないか?」
「なにを?」
「君のことを」
「私のこと?」
「僕たちのこと」
知ってどうするの? 知ったらどうなるの?
「悪いけど、教える気はないわ」
「え?」
「私のことを覚えていない人と、思い出を共有する気はないの。私にとって大切な思い出も、今のあなたには身に覚えのないことでしょ? 私がどんなに楽しかったと言っても、幸せだったと言っても共感できないでしょ? そんなのかなしいわ。だからあなたに教えてあげたくないの」
「……」
「これくらいのいじわるは許してね」
あなたとの思い出は私だけのものなの。
「ねぇ、エル。約束をして」
「なにを……?」
「私のことは絶対に思いださないって」
「え?」
ジュエルスが、わずかに眉間にしわを寄せる。
サフィリナはクスリと笑った。
「あなたが私のことを思いだして苦しむのはいやなの」
「……」
「ちょっと自意識過剰だったかしら?」
振りかえって見せたサフィリナの精一杯の明るい笑顔は、決してジュエルスを責めてはいないということを教えてくれる。
「なぜ、そんなふうに言うんだ?」
本気でそんなことを言っているの?
「私のことを思いだしていいことなんてあると思う?」
言わせないでよ、こんなこと。
「思いだしたら私とやり直す? マニシャさんと子どもを捨てて。できないでしょ? それなのに、わずかな罪悪感でそんなことを言わないで」
「……ごめん」
あなたから出てくる言葉は謝罪ばかりね。あなたは悪くないのに。誰も悪くないのに。
「約束して。マニシャさんと生まれてくる子どもと幸せになるって」
「……」
「幸せになってね。私も絶対に幸せになるから」
その言葉にうなずいたジュエルスを見て、サフィリナはホッとしたように息を小さく吐いた。
「明日、屋敷を出るわ」
「え?」
驚いたようにジュエルスが目を見ひらく。
「もう決まったことだから」
「でも、君はこれからどうするの?」
「心配をしてくれるの?」
「……そりゃ」
たとえ今のサフィリナは他人でも、自分のせいで出ていくのだから心配もするだろう。でもそれだけだ。
「私は大丈夫よ。これでも男爵なの。屋敷もあるし、事業もしているの」
「……そうなのか」
「ええ、だから心配しないで」
ジュエルスはその言葉に安堵の表情を浮かべ、サフィリナはその顔を見て泣きたくなった。
「でも、見おくらないで。あなたには見おくられたくないの」
「ああ……わかった」
顔をゆがめたジュエルスがうなずく。
「ここの花を見るのは今日で最後になるから、悪いけど一人にしてくれないかしら?」
「あ……すまない」
ジュエルスは、短い言葉で謝罪をして、ためらいながら踵を返した。
「さようなら……」
サフィリナの小さい声にわずかに足を止め、しかし振りかえることなくジュエルスはその場をあとにした。
「さようなら」
再び別れを口にしたサフィリナの頬に大粒の涙が伝う。
ずっとそばにいると言ったのに。愛していると言ったのに。
「うそつき……」
きっと彼を忘れるには多くの時間が必要となるだろう。だって、心から愛した人なのだから。一生を共にすると誓った人なのだから。でも、その誓いは果たされない。
「もうかなしまないって決めたんだけどな……」
ボロボロと流れる涙が、こんなにもかなしいのだと伝えてくる。わかっている。かなしみは簡単に癒えるものではないって。
どんなに涙で視界がゆがんでも、見あげた夜空に輝く無数の星は、いつもと変わらず美しかった。
馬車に乗りこんだサフィリナを見おくるのはセージとケイトリン、それからモニカ。ほかの使用人たちも見おくりたいと言ってくれたが、サフィリナがそれを断った。ジュエルスに見おくりを断ったのに、彼ら以外の人たちから見おくられては、ジュエルスとマニシャの立場が悪くなると思ってのことだ。
「リナ、元気で」
「はい、おと……おじさまとおばさまもお元気で」
「……っ。……ええ、ありがとう」
もう家族ではないのだ。そうサフィリナの言葉で実感したのは、離縁を決断したケイトリンだった。サフィリナは自分たちのためにうなずいてくれたというのに、それを寂しいと思うのはあまりに身勝手な話だ。
サフィリナは淡々とあいさつをして、御者に出すように指示をした。
「リナ……」
「お元気で」
馬車の窓から手を振るサフィリナは涙を見せることなく、美しい笑顔を残して去っていく。馬車が見えなくなるまで見おくったケイトリンは、上げた手を下ろしてうつむいた。
「……あの子、笑顔だった」
「そうだな」
「私は……本当に申し訳ないことをしてしまったわ」
大切にしようと思っていたのに。これまでずっと自分を支えてくれていたのに。それをこんな形で裏切るなんて。
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