想像していなかったこと④
ずいぶん長い時間、物音も泣き声も聞こえない。サフィリナはかなしみのあまり疲れて眠ってしまったのだろう。だからモニカはサフィリナの部屋の前に立ち、誰一人近づける気はない、と怒りにも似た気迫で周囲を警戒していた。
そのサフィリナは、一睡もすることなく虚空を見つめ、先ほどまでの無情なやりとりを何度となく頭の中でくり返していた。時間にすると、午後の暖かい光を降らせた太陽が沈み、瑠璃紺の空を星が華やかにし始めるくらい。
あの顔で、あの声で、サフィリナ以外の女性を求め、守らなくてはいけないと言いはなち、かつてサフィリナを優しく力強く抱きしめていた手で、サフィリナ以外の女性を抱きよせた。
「……ほかの女性に目移りしないでって言ったのに。……言ったのになぁ……」
どんなに後悔の言葉を並べても、結局なんの意味もないことは理解している。それなら今の状況を変えるには? すべて諦めなくてはいけないのだろうか? なにも望みはない?
「……いやよ、こんなのいや……!」
サフィリナは、ズキッと痛む頭を押さえながら重くなった上半身を起こした。
「静か……。今は何時かしら……?」
うつむいて小さく息を吐く。
(すべて夢だったらいいのに。エルの身を案じるあまり、変な妄想がふくらんでしまったとか。……そうだったらいいのに……)
そうではないとはっきり理解しているから、自虐的な乾いた笑いと一緒に力ない溜息が出てしまう。
それにしても、ずいぶんと長い時間部屋に閉じこもってしまった。そのあいだに誰一人部屋を訪ねてくることはなかったが、サフィリナに気を遣っているのだろうか? それとも――。
(……私がこんなことをしているあいだに、皆は彼女と仲良くなっていたりして)
ジュエルスと一緒に来たマニシャという女性。かわいらしい容姿をしていた。外見だけで判断するなら素直そうで、とても優しそうだった。ジュエルスが愛する人なら間違いなく素敵な人なのだろう。それなら、使用人たちともすぐに仲良くなってしまうかもしれない。
「彼女は……妊娠しているのね」
(お義母さまはどう思っているのかしら?)
聞いたときは驚いただろうが、時間がたった今なら。
「喜んでいるでしょうね……。当然、本当にエルの子なら手放す選択肢もないでしょう……」
それならば、これからどうなるのだろうか?
この国は一夫一妻制だが、身元不明でゴードンという名前で結婚をしたのなら、うまく処理をすれば重婚にはならないはず。では、マニシャを愛人として囲うのか。それを受けいれないといけないのか?
「……ひどい話。そんなばかげたことを……私が……」
思わず自虐的なことを言って弱々しく笑う。
怖い。これから先のことを考えると、逃げだしたくなる。でも……このまま一日を終えるわけにはいかない。せめてなんらかの展望を見いださないと。
ゆっくりとベッドを降りたサフィリナは、ドアの向こうにいるモニカに声をかけた。しかし返事が返ってこない。ドアを開けて確認をしたがモニカはいなかった。
「もしかして、モニカはマニシャさんの所に……?」
大きく心臓が跳ね、不安が胸を締めつける。しかし、少しして冷静になったサフィリナは、小さく首を振って自分のネガティブな思考を追いやった。
「そんなことを考えても仕方がないわ。とにかく、お二人と話をしないと」
自室を出たサフィリナは、しんと静まりかえった廊下を進み、階段を下りて一階にあるセージの執務室のドアの前に立った。ドアの隙間から光がもれ、中からセージとケイトリンの話し声が聞こえる。
(中にいるのはお二人だけみたいね)
でも、ドアをノックすることができなかった。決して盗み聞きをしようとしたわけではないのだ。ただ、聞こえてしまっただけ。
「それならどうするの?」
「私にだってわからん、どうしたらいいか――」
言葉を詰まらせるセージの声。
「私はリナがかわいいわ。あの子が義娘であることを誇りに思っているの」
それはいつもケイトリンがサフィリナに言ってくれる言葉だ。
「その気持ちは私も同じだ。だから――」
「だから苦しんでほしくないのよ」
(お義母さま……)
ケイトリンの愛情がうれしくて涙が出る。
「……そんなの、私だってそう願っている。だからって」
「マニシャは妊娠六か月と言っていたわ。あと四か月もすれば赤ちゃんが生まれるの」
「……っ」
(あと四か月……?)
「ジュエルスの子どもで、私たちの孫がよ? この家の後継者となるかもしれない子どもが生まれるの」
「しかし、エルの妻はリナだ」
「そうよ! その妻を差しおいてマニシャが子どもを産むの。どういうことかわかるでしょ?」
なにも知らない人たちは、ジュエルスが浮気をして庶子をもうけたと思うだろう。それはいい。仕方のないことだ。でも、サフィリナは? 夫に蔑ろにされ、愛されていないと囁かれるのだ。実際、今のジュエルスはサフィリナにまったく愛情などなく、マニシャと別れる気もない。
「リナはエルから愛されることもなく、愛しあう二人をずっと目にしていないといけないのよ」
ケイトリンの言葉が鋭くサフィリナを斬りつけた。深く斬りつけられた傷からドクドクと血が流れ、急激にサフィリナの体温を奪っていく。
「でも、記憶を取りもどすかもしれないだろ?」
「いつ? 明日? 明後日? 五年後? 十年後?」
「……」
ケイトリンの言葉にセージが黙りこんだ。
「あの子が明日記憶を取りもどしたとして、マニシャをどうするの? 子どもを取りあげて、生活の面倒を見る? エルが記憶を取りもどさなかったら? マニシャを追いやればエルも一緒に屋敷を出ていくでしょ? また私たちはエルを失うの? 私たちの孫と一緒に?」
「そうなるとは限らないだろ?」
「それならリナは? あの子はいつ幸せになれるの?」
「――っ!」
「……あの子はとても優しい子なの。もしマニシャから子どもを奪えば罪悪感を抱きつづけるでしょう。それはエルも同じよ。でも、それさえエルの記憶が戻ったらというのが前提で、可能性の話にすぎないわ」
これまで二年も記憶が戻らなかったのだ。邸の中を歩いても、なにも思いだせなかった。それなのに、すぐ記憶が回復するとは考えにくい。記憶が戻るのを待っているあいだに子が生まれればどうなる?
想像すればするほど、苦しむサフィリナの姿しか見えてこないのだ。
ドアの向こうで声を殺し、大粒の涙を流しているサフィリナに気がつかない二人。
「……リナを自由にしてあげましょう」
「本当にそれしか選択肢はないのか?」
「それが最善よ。決断は早いほうがいいわ。傷が深くならないうちに」
「しかし……」
フルディムから託された大切な娘を、無責任に放りださなくてはいけないのか?
「そんなの時期尚早だ。もっとしっかり話しあって――」
「リナはまだ若いわ。それに美しい。でも、時間がたてば若さも美しさも失ってしまう。そうなる前に、エル以外の人との未来を考えるべきよ」
ケイトリンは強い意志を持ってはっきりとそう口にした。
サフィリナは崩れるように膝を突いた。その音に気がついたのか、早足で近づいてくる足音とドアが開く音。
廊下に座りこみ、体を震わせているサフィリナを見て、ひゅっとセージが息をのんだ。
「……リナ……」
「――ごめ、んなさい……聞く、つもりは……」
「――っ」
すべて聞かれていた。それを悟ったセージとケイトリンは、真っ青な顔をして絶句した。
抱えるようにしてサフィリナを執務室に運んだセージは、泣きはらした真っ赤な目元を見て苦しそうに顔をゆがめた。ケイトリンは温かい紅茶にミルクと蜂蜜を入れサフィリナの前に置く。サフィリナはそれを手にしてゆっくりと口に含んだ。味も香りも感じることはできなかったが「おいしいです」と言った。
ケイトリンの表情から、わずかに安堵の色が見える。しかし、残酷な話し合いを避けることはできず、これからのことを考えると胃がキリキリと痛くなる。
黙りこんだ三人は、口にしなくてもそれぞれが同じことを考えていることを理解していた。ただ、その言葉を口にしてしまえば、近い未来にこの関係が終わってしまう。
二人にとってサフィリナは誰よりも大切な義娘だ。それでも、彼女に苦しい選択をさせなくてはならない非情な現実が恨めしい。
「……ごめんなさい、リナ。あなたにはつらい決断をさせることになるわ」
重苦しい沈黙の中、最初に口を開いたのはケイトリン。サフィリナは力なく首を横に振った。
「仕方のないことだと……」
それ以上言葉が続かず再び沈黙する。
二人がどれほどサフィリナを大切に思っていても、決断をしなくてはいけないのだと理解している。愛しているからこそ、離縁という選択を迫らなくてはならないのだと。
「私のことをどれだけ恨んでくれてもいいわ」
しかしサフィリナは涙を流しながら首を横に振った。
「私たちがあなたを手放したことを後悔するくらい、幸せになって」
「――っ!」
「あの子がもう一度あなたを好きになってしまうくらい輝いてちょうだい」
「お義母さま……」
「そして……ばかな人たちって笑ってやってちょうだい」
そう言ってケイトリンが涙を流す。
「ごめんなさい……愚かな私たちを、許して――」
両手で顔を覆って嗚咽をこぼすケイトリン。
誰も悪くないのに、なぜ誰もがこんなにも苦しまなくてはならないのだろう。こんなの誰も恨めない。
「お義父さま、お義母さま。今までありがとうございました」
「リナ……」
「書類にサインをして、明日出ていきます」
「ああ……!」
ケイトリンがたまらず声を上げた。セージは申し訳ないという思いをありありとその顔に浮かべて、サフィリナを見つめる。
「すまない、リナ。できる限り支援をするから、なんでも言ってくれ」
「ありがとうございます、お義父さま。でも、心配しないでください。私には、ネルソン男爵という爵位と屋敷、それに繊維事業があります」
「しかし……」
「ご存じでしょ? それなりに利益を上げていますし、頓挫している事業計画を再開させなくてはいけないし……やらなくてはならないこともたくさんあるので」
「そうか。……でも、もし助けが必要だったら、遠慮せずに言ってくれ」
「そう……よ、リナ。私に、できることは、なんでもするから」
うまく言葉が続かないケイトリンが必死にその思いを伝える。
「お義父さま、お義母さま、ありがとうございます。お二人には、本当に感謝しかありません。家族を失ったときに手を差しのべてくださったことで、私がどれほど救われたことか。このご恩は一生忘れません。この屋敷で過ごした素晴らしい時間も……エルとのことも、私には素敵な思い出です。だから恨んでいいなんてかなしいことは、おっしゃらないでください。私、本当に幸せだったのですから」
サフィリナはそう言って柔らかくかわいらしい笑顔を二人に向けた。
二人は言葉もなくうなずくだけだった。
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