想像していなかったこと③
応接室にそろった五人はしばらく沈黙をしていた。
テーブルを囲んで置かれた四人掛けのソファーに座るジュエルスとその隣にマニシャ、向かいにセージとケイトリン。サフィリナは一人で二人掛けのソファーに座り、状況をうまく飲みこめずに真っ青な顔をしている。
(指輪を……していない)
結婚して以来一度も外したことがなかった指輪。それが彼の左手の薬指にはない。
(……失くしてしまったの? それとも外してしまったの?)
しかしそれを聞く勇気はなく、顔をゆがめてうつむいた。
最初に口を開いたのはセージ。
「まず君は、私と妻ケイトリンの息子で、ジュエルス・バロス・ロジカだということを伝えておきたい」
「はい。それは、僕を迎えに来た方から聞きました」
「そうか。……君はホルステイン侯爵唯一の後継者だ。そして……」
セージが言葉を区切ってサフィリナを見た。
「そこに座るサフィリナ・ナーシャ・ラトビア・ロジカが君の妻だ」
「妻……」
薄々そのことに気がついていたのか、ジュエルスはそれほど驚くこともなくサフィリナを見た。横に座るマニシャは目を見ひらいてそれからうつむく。
「すみません。でも、本当になにも覚えていなくて」
そう言って申し訳なさそうな顔をするジュエルス。
「大丈夫よ……あなたは悪くないわ」
マニシャは励ますようにジュエルスの手に自身の手を重ねた。
「――っ!」
サフィリナはその様子に絶句する。
「あ、あたしから話をさせてください」
マニシャは意を決したようにセージとケイトリンを見て、それからサフィリナを見た。
「いいだろう。聞かせてくれ」
マニシャはセージの言葉に真剣な顔をしてうなずいた。
まず、マニシャは幼いころに両親を亡くし、一人きりであることを伝えた。恥じいるようなその表情からは、この場にふさわしくない立場と身の上であることを自覚していると伝えているようで、痛々しくもあった。
「……そうか、苦労をしたんだね」
セージは小さく溜息をついて同情の言葉を口にした。
貴族が自分に同情をするなんて思いもしなかったマニシャは、驚いた顔をしてセージを見つめた。そしてサフィリナもまた、家族を亡くした身であることから複雑な感情に胸が軋む。
「あたしが暮らしていたのはとても小さな村で――」
戦線から離れた場所にある山に囲まれた集落で、村人以外の人間がやってくることはめったにない閉鎖的な場所だ。
「あたしは、畑で野菜を育てたり山菜を採ったりして生活をしていました。ゴ……ジュエルスさまを見つけたのも山菜を探しに行ったときです」
戦争をしているという話は聞いていたが、村は戦線から離れていたこともあって危機感がなかったマニシャは、周囲の反対も聞かずに山へと入っていった。実際、山はいつもと変わらず穏やかで、しばらく山菜を採っていなかったこともあって、あちこちに食べごろの山菜が実っていた。それらを夢中になって摘みながら奥へと進んでいったマニシャは、川べりに血だらけのまま倒れている人を見つけたのだ。
「それで、村の人たちを呼んで、一緒に運んでもらって……。ジュ、ジュエルスさまは死んじゃいそうなくらい弱ってて」
それを聞いてサフィリナとケイトリンはひゅっと息をのむ。
小さな村で医師もいないため十分な治療はできなかったが、マニシャがつきっきりで看病した甲斐もあって、どうにか命をつなぐことができた。骨折をしていなかったのも幸いだ。
「この人が意識を取りもどしたのは十日くらいしてからでした」
それまで熱にうなされ、目を開けても朦朧としたまま意識を失う、をくり返す日々だった。
「だから、あたしが声をかけたときに、返事をしてくれたときは本当にびっくりしちゃって」
マニシャはかわいらしい笑顔で、そのときのことをうれしそうに話す。
「……」
サフィリナはうつむいたまま話を聞いていた。
「でも、ジュエルスさまは……自分の名前を憶えてなくて。家族のことも、自分が騎士だったことも」
「僕は……混乱をしていて」
ジュエルスがマニシャの言葉に続けた。
「自分が誰なのかもわからなくて不安で、僕が騎士だったと教えてくれたけど、それはつまり僕が人を殺したということだから……」
そのせいで自棄になってもマニシャは寄りそってくれた。「今はなにも気にせず、体が回復することだけを考えましょ」と言ってジュエルスを支えてくれた。
「マニシャは僕にずっと寄りそってくれたのです」
そう言って二人は見つめあう。
「けがが完全に治ったころには三か月以上がたっていました。記憶は戻らなかったけど。……マニシャはいつまでもいていいって言ってくれたんです。それで、せめて恩返しをしようとマニシャや村の人を手伝うようになりました」
そして、一緒に生活をしていた二人は、落ちるべくして恋に落ちた。
マニシャは明るくかわいらしく常に笑顔で、なによりジュエルスの心の支えだったのだから、そういう関係になるのは容易に想像できることだったのかもしれない。
二人の話が終わり、しばらくの沈黙が流れた。
「……指輪は、どうしたの……?」
沈黙の中、弱々しい声を絞りだして聞いたのはサフィリナ。表情が抜け落ちたような顔をして、膝にのせた手は硬く握りしめられている。
「え……?」
「結婚指輪よ……」
サフィリナは自分の指に輝く指輪をジュエルスに見せる。
「結婚指輪?」
ジュエルスは指輪についてなにも知らないのか、困惑した表情でマニシャを見た。
マニシャは――。
「……ゴ……ジュエルスさまは……指輪を、していませんでした。た、たぶん、どこかに落としてしまったのかも……」
「……そう、ですか」
マニシャの言葉にサフィリナは力なく返事をして再びうつむいた。
「すみません……」
マニシャがおどおどしながら謝る。
「なぜ、君が謝るの? 指輪を失くしたというのなら、悪いのは僕でしょ?」
「う、うん……でも」
「マニシャはなにも悪くない。だから、そんなふうに引け目を感じないで」
ジュエルスはマニシャに優しく訴え、マニシャはうれしそうな笑みでうなずいた。サフィリナはドレスのスカート部分をぎゅっと握りしめ、体に力を入れて震えを必死に押さえる。セージは苦しそうに眉根を寄せ、ケイトリンは両手で顔を覆い嗚咽を殺す。
「もう、やめてちょうだい! ジュエルス、あなたには……リナという妻がいるのよ……!」
ジュエルスとマニシャの仲睦まじい様子を見ていられない、と訴えるように声を上げたケイトリン。
どんな事情があったとしても、ジュエルスの正式な妻はサフィリナで、それが覆ることはないのだ。
「当然、あなたたち二人の関係を認めることはできないわ」
ケイトリンは大きくはないが毅然とした口調でそう言いきった。
「はい……わかっています」
ジュエルスが結婚している以上、二人は不義の関係なのだから当然認められるわけがない。
マニシャは涙で瞳をにじませうつむいた。
しかし、ジュエルスはその言葉にまったく納得していなかった。マニシャの手をぎゅっと握り、ケイトリンに固い意志を宿した眼差しを向ける。
「僕は、マニシャのいない人生は考えられません」
ジュエルスの口から飛びだした信じられない言葉に、サフィリナの心臓が大きな音を立てた。
「エル、なにを言うの!」
「彼女と別れるくらいなら、僕もここにいることはできません」
「ばかなことを言うな!」
セージもぎょっとしたように声を荒らげる。
「あなた方はあまりに勝手です。僕とマニシャの人生を決めるなんて」
「あなたには素晴らしい妻がいるのよ! もとに戻るだけで、なにも勝手なことなんてないわ!」
しかし、ジュエルスの次の言葉で部屋の空気が一瞬にして冷たくなった。
「マニシャは、僕の子どもを身ごもっています」
「……え?」
「子ども……?」
しんと静まりかえった部屋が衝撃の大きさを物語っている。呼吸をすることも忘れ、瞬きもせず、一様に目を見ひらいて二人を見つめる。
「……う、そ」
小さく本当に小さく発せられたサフィリナの声。ジュエルスは少しだけ申し訳なさそうな視線をサフィリナに向けた。
「僕は、マニシャと子どもを守らなくてはいけません。だから、マニシャと別れるなんて選択肢は絶対にありません」
はっきりとした口調で言いきったその言葉は潔く、しかしとても残酷にサフィリナの心を貫く。
(なぜ、私を見ながらそんな言葉を口にすることができるの――!)
涙がボロボロとこぼれ、サフィリナの手の甲に落ち、ドレスを濡らす。
いったいなんの罪で、こんなにも残酷な現実を突きつけられているのだろうか?
「……まさか、そんな……子どもだと……?」
ようやく言葉を口にしたセージは、呆然としているケイトリンと、目を見ひらいたまま涙を流すサフィリナを見て、それから小さく息を吐いた。
「今の状況では、とてもではないが話し合いなどできない。皆、時間を置いて少し冷静になろう。……リナも……いいね?」
サフィリナはゆっくりと小さくうなずき、モニカに支えられるようにして立ちあがると、体をよろめかせながら部屋を出ていった。
無言で廊下を進むモニカは、くずれ落ちてしまうのではないかと思うほど憔悴したサフィリナを思って、悔しそうに顔をゆがめた。彼女がどれほどジュエルスの無事を切実に祈り、帰りを待っていたかを知っているからだ。
「サフィリナさま……」
モニカの声はサフィリナの耳には届かない。停止した思考は周囲の視線も思いも完全に遮断し、わずかな灯も真っ暗な闇にのまれた。
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