二人の結婚⑤
ジュエルスが戦線に向かってから半年がたった。入ってくる情報は耳を覆いたくなるようなものばかり。それでもジュエルスは、大きなけがもせず、元気にやっている。こっちは涼しくて気持ちのいい天気だよ、とまるで旅行にでも行っているかのような手紙が何度か送られてきた。
「大丈夫。絶対に無事に帰ってきてくれる」
ジュエルスが戦線に向かうというショッキングな出来事は、とても耐えがたいものだったが、サフィリナをかなしみのどん底に突きおとすことはしなかった。ジュエルスは生きているし、戦況はそれほど悪いものではなかったから。
だから、サフィリナは前だけを見ることにした。
サフィリナが立っているのはケイトリンの寝室の前。ジュエルスが戦線に向かって以降、気力をなくしてしまったケイトリンは、屋敷の女主人としての務めを果たすこともままならなくなり、ほとんどの時間を寝室で過ごすようになった。現在はサフィリナがケイトリンの仕事をすべて代行している。
サフィリナはゆっくり深呼吸をしてから、笑顔を作ってドアをノックした。
「お義母さま」
すると中から返事が聞こえる。サフィリナがドアを開けると、イスに座って外を見ていたケイトリンが弱々しい笑顔を見せた。
「リナ」
「お加減はいかがですか?」
サフィリナはそう言ってケイトリンの横まで行き、テーブルに本を置いた。
「これ、以前言っていた花の図鑑です」
「まぁ、ありがとう」
少しでも慰めになればと本や刺繍、編み物などを勧めるサフィリナに、すっかり見なれてしまった頼りない笑みを見せるケイトリン。その手にはボロボロになったジュエルスからの手紙。それを何度もくり返し読んで、泣いて後悔して。ケイトリンの毎日はそんなふうに終わっていく。
「お義母さま。実は、昨日南国の珍しいフルーツが手に入ったのです」
「そう」
「今、追熟をしているので、食べごろはもう少し先ですけど、とっても甘くておいしいそうなので楽しみにしていてくださいね」
「ええ」
努めて明るい口調で話すサフィリナの言葉に、短い言葉で返事をするケイトリンだが、それでもジュエルスが戦線に向かった当初よりずいぶん元気になった。
小さな小競り合いはたびたび起っていたが現在は小康状態で、相手も本気で攻めようとしているわけではないらしい、と聞いたからだ。
実際、セージが伝手を使って入手する情報からも、現在はそれほど危険な状況ではないということがわかっている。
「エルは、いつになったら帰ってくるかしら?」
「お義母さま……」
誰もそれについての答えは持たず、サフィリナは言葉を詰まらせた。
「もうすぐ……もうすぐ帰ってきますよ。戦争だって、きっと終わります」
それはサフィリナの望みでもあるのだ。
「そうよね……! きっともうすぐね」
ケイトリンは少女のように笑って、再び手にしていた手紙に目を落とした。
「……」
サフィリナの知る頼もしいケイトリンは姿を隠し、現実から目を背けようとする頼りない女性がここにいる。でも、それでもいい。ジュエルスさえ帰ってくれば元通りになる。それまでサフィリナがしっかりケイトリンを支え、セージを支え、侯爵家を支えていけばいいのだから。
「それでお義母さま」
いつ切りだそうかとタイミングを見ていたサフィリナが口を開く。
「明日からしばらくチェスター領へ行こうと思っています」
「……ああ、そうなのね」
特に不安がることもなく返事をしたケイトリンを見て、サフィリナはホッとした。
「すぐに戻ってきますので、心配なさらないでくださいね」
「もちろんよ。あなたが私を置いてどこかに行くはずがないもの」
サフィリナは少しだけ強張った笑みをケイトリンに見せた。
「それじゃ、そろそろ失礼しますね」
「あら、もう行ってしまうの?」
「申し訳ありません。お義父さまがお戻りになる前に仕上げたい書類がありまして」
「そう……。ごめんなさいね、あなたに大変な仕事を押しつけて」
「いえ、そんな」
セージが戦況の確認や騎士団への支援などに時間を費やすようになり、領地経営に携わる時間が減ってしまったため、サフィリナがそのフォローにあたっている。ケイトリンの仕事もサフィリナの仕事になり、さらに繊維事業と、サフィリナは現在多忙を極めているのだ。
そのため先日セージから、繊維事業をしばらくジェイスに完全に任せて、領地のことだけに専念してもらえないか、と言われた。
それでもサフィリナは首を縦に振らなかった。どんなに忙しくても、やると決めたことを人に任せたくない、なんて言えば聞こえはいいが……。
「仕方ないわね。行っていいわよ。私まであなたの邪魔をするわけにはいかないもの」
「邪魔だなんて」
「フフフ、いいのよ。本当のことだから。さぁ、行きなさい」
ケイトリンに促され、サフィリナは「はい」と返事をして部屋を出ていった。
「……」
ケイトリンはドアが閉まるのを確認して小さく溜息をつき、手にした手紙を見つめた。
サフィリナが綿花農園に着いたのは十日後のこと。宿泊先の宿屋を早朝に出たため、昼前には綿花農園に着くことができた。
「シャルズ!」
「おお、サフィリナさま」
馬車を農園の入り口につけたところで、シャルズを見かけ声をかけると、シャルズが日焼けをして黒くなった顔をクシャッとさせた。シャルズは父フルディムの代から農園を任されているベテランだ。
「今から農園に?」
「ええ」
「私も一緒に行くわ。ちょっと待っていて」
馬車を降りたサフィリナは、旅の疲れも見せずにニコニコしながらシャルズに駆けよる。
「相変わらずですね、サフィリナさまは」
子どものころからフルディムと一緒にここにやってきては、シャルズを見つけるとニコニコしながら駆けよってきていた。あんなに小さかった女の子が、いつの間にか自分と肩を並べるほどに成長し、結婚までしているのだからなんとも感慨深い。
「今年も順調そうね」
「はい、おかげさまで」
「あれはどうしたかしら?」
「ああ、あちらも順調ですよ」
サフィリナがあれというのは長繊維綿のこと。
実は綿にも優劣があり、繊維が二センチ以下の短繊維綿は価格が安く、次に中繊維綿。そして長繊維綿と呼ばれる繊維が三センチ以上のものは高級品で、ほかの二つの繊維綿よりぐっと価格が高くなる。
サフィリナの綿花畑では現在中繊維綿を育てているが、新たに長繊維綿を育てようと試行錯誤をして三年目に突入した。残念なことに長繊維綿は育て方が難しく、これまで何度も失敗しているのだが、ようやく長繊維綿が収穫できそうなところまでに成長をした、というわけだ。
「楽しみね」
「はい」
「人手は集まりそう?」
「ええ、今年も周辺から手伝いに来てくれます」
「そう、よかったわ」
収穫時期になると臨時で人を雇うため、毎年この時期になると募集をかけるのだが、年齢や性別を問わない上に、歩合で給金がもらえるため毎年多くの人が手伝いに来てくれる。
サフィリナは綿花の収穫を手伝いに来てくれた人たちが、並んで一斉に収穫していく様子を思いだしてクスリと笑った。そのときだけ、農園はとても賑やかになるのだ。
「ここは変わらないわね」
サフィリナはこの景色を眺めるのが好きだ。父との思い出もあるし、開放的な景色は重くなった心を軽くしてくれるから。
ホルステイン侯爵邸での生活は正直息切れ寸前。ジュエルスの身を案じれば不安に襲われ、ケイトリンを励ませば己の力不足を感じる。穏やかだったセージの眉間には常にしわが寄っていて、彼が疲弊していることがはっきりとわかる。
ジュエルスが早く帰還することを願っているが、戦争が終結する様子はいまだなく、楽観的希望を持ってもまったく不透明な未来は予断を許さない。考えたくなくてもジュエルスを失う未来を想像してしまうし、悪夢にうなされることもある。誰か助けて、と声にしたくても誰もが助けを求めている中、サフィリナが弱音を吐くわけにはいかない。
そんな状況でも、この農園はそんな現実があるなんてまったく知らないかのように、穏やかでいつもと変わらない景色を見せてくれる。
「……ここがなかったら、私は不安に押しつぶされていたかもしれないわ」
この場所が、現実から目を背けるための逃げ場所になっていることは否めないが、束の間の憩いだと自分に言いきかせているサフィリナがいるのだ。
「サフィリナさま……」
事情を知るシャルズは気遣わしげにサフィリナの顔を見た。それに気がついてサフィリナがぱっと笑顔を見せる。
「それじゃ、私は工場に行くわ」
「……かしこまりました。私もあとで顔を出します」
「ええ、待っているわ」
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