一人きり③
珍しくサフィリナが体調を崩したのは、前日の晴天とは打って変わって曇天のどんよりした日。
「今日はおとなしくしているんだぞ」
寝室のベッドに横たわるサフィリナの、真っ赤な頬を触っているのはフルディム。
「……今日をずっと、楽しみにしていたのに……」
フルディムの友人である、ホルステイン侯爵セージ・コッシャ・ロジカの別荘に家族で招待されていたのに、出発の日に熱を出してしまったサフィリナは、一人留守番をすることになってしまったのだ。
毎日この日を指折り数えていたし、久しぶりに友人のジュエルスに会えるはずだったのに、これほど残念なことはない。
ジュエルスはセージの一人息子で、サフィリナと同じ十四歳。サフィリナとは何度も手紙のやり取りをしている間柄だが、サフィリナが住むチェスター領から、ジュエルスが住むホルステイン領までは距離があるため、二人が顔を合わせて話をしたのは数える程度しかない。そのため、数年ぶりにジュエルスに会えることを、サフィリナはとても楽しみにしていたのだ。ジュエルスから送られてきた手紙にも、サフィリナに会える日を心待ちにしていると書かれていたというのに。
「すまないな。本当なら招待をキャンセルするべきなのだが」
毎年夏には必ずセージの別荘に招待されていたのだが、マリオンが生まれてからは、別荘まで距離があることを理由にフルディムだけが参加していた。しかし今回は、マリオンも長く馬車に乗ることができる程度に成長したため、家族全員で参加をすることにしたのだ。
もしネルソン男爵家だけが招待されていたのなら、サフィリナの回復を待ってから出発をしても問題はなかった。しかし今回はたくさんの人が招待されていて、その中にはフルディムが事業の今後のためにもぜひ顔をつないでおきたい、と思っている重要人物もいる。セージが伝手を使ってフルディムのために招いてくれたのだ。
その人はビンガムトン王国の要人で、染料の第一人者と言われる人物。気難しくめったに人前に姿を見せないことで有名な男だ。そんな重要人物を自分のために招待してくれたのだから、フルディムに行かないという選択肢はなかった。
「わかっているわ」
ちょっと愚痴を言ってみたかっただけ。
「用事を済ませたらすぐに帰ってくるからな」
別荘でゆっくりと過ごして、観光をしてから帰ってくる予定だったが、サフィリナを一人置いて楽しむことなどできるはずもなく、できるだけ早く帰ってくるつもりだ。
「大丈夫よ。セージおじさまと会うのも久しぶりでしょ? 私のことは気にしないでゆっくりしてきて。でも、おみやげは忘れないでね」
「ああ、わかったよ」
フルディムがサフィリナの頭をなでると、サフィリナはニッコリと笑った。
「リナ、あなたの大好きな桃をたくさん用意させたから」
そう言ってウテナもサフィリナの頬をなでる。
「お母さま、ありがとう」
「ごめんなさいね。私が残れればよかったのだけど」
ウテナがそう言って申し訳なさそうな顔をした。
「わかっているわ。ケイトリンおばさまによろしく伝えてね」
「ええ、もちろんよ」
そう言ってウテナがサフィリナの金色の柔らかい髪をなでる。
すると少し顔を横にしたサフィリナの目の端に、クルンとした茶色の巻き毛が見えた。
「ねぇね」
マリオンもサフィリナの顔を見ようと、一生懸命背伸びをしているようだ。
「マリオン、いい子にしているのよ。お友達と仲良くね」
「うん、なかよくする。ねぇねもいいこにしててね」
「ええ、私もいい子にしているわ」
サフィリナがそう言うと、フルディムとウテナが顔を見あわせて笑う。
「私たちはそろそろ行くよ」
「うん。気をつけてね」
三人は後ろ髪を引かれる思いでサフィリナの寝室を出ていった。
「……あぁあ、一緒に行きたかったなぁ」
王都の西側に位置しているホルステイン領が三人の目的地。ホルステイン領は水が豊富な地域で、川や湖が多く点在しているため、船遊びなどが盛んな地域でもある。
「エルと一緒に船遊びをしようと思っていたのに。釣りも……乗馬だってしたかったのになぁ」
それに観光だって。それなのに、大事な日に熱を出してしまうなんて。
「せめて熱を出すのが明日だったらよかったのに」
そうしたら一人で留守番をすることもなかっただろう。
「あぁあ……」
サフィリナは天井を見つめ、しばらくのあいだ何度も溜息をついていたが、それ以上やることもなく、シーツを被って目を瞑り、いつしか深い眠りに落ちていった。
三人がホルステイン侯爵家の別荘に向かった日から二日後。
サフィリナの熱は下がったが、頭痛は続いていて、侍女のリリはいまだにサフィリナがベッドから出ることを許してくれない。
「暇だわ……」
ずっと寝ていたせいか眠りが浅く、何度も目を覚ましてしまう。そして今も、ようやく眠りに就いたと思ったらすぐに目が覚めてしまい、がっかりして何度目になるかわからない大きな溜息をついている。ふと、カーテンのほうへ目を向けた。
「まだ暗い……それとも、もう暗い? どっちかしら?」
今が明け方なのか黄昏時なのかがわからない。
ふいにドアの向こうが騒がしくなったことに気がついた。
「……どうしたのかしら? リリ?」
声をかけてもリリの姿が見えないし返事もない。仕方なくベッドを降りたサフィリナは、ズキッと痛む頭を押さえながら窓まで行って、静かにカーテンを開けた。
「まだ暗いけど東のほうが少し明るいわね」
夜と呼ぶには明るいが、朝と呼ぶには暗い暁闇の紺色が、空を支配している神秘的な瞬間。本来ならまだ静かなはずのこの時間にはありえない騒々しさと、妙な胸騒ぎがサフィリナの鼓動を早くする。
「なにがあったのかしら?」
少し様子を確認しようと、サフィリナがドアに向かって歩みを進めたとき、荒々しくドアをノックする音が聞こえた。
「サフィリナさま!」
返事を待たずにドアを乱暴に開けて、勢いよく部屋に入ってきたのは侍女のリリ。それに驚いたサフィリナ。これまでリリがこんなふうに部屋に入ってきたことはなかったからだ。
「リリ、どうしたの?」
「サフィリナさま……」
真っ青な顔をしたリリが早足でサフィリナの前までやってきた。
「旦那さまたちが――!」
「お父さまたちが、どうしたの?」
リリの顔を見て、サフィリナの鼓動がますます大きく速くなり、不快な胸騒ぎが呼吸を遮る。
「旦那さまたちの、乗っていた馬車が……」
だんだん声を小さくしていくリリに対して、サフィリナの声は大きくなる。
「お父さまたちが乗っていた馬車がどうしたの?」
「……盗賊に、襲われて――」
「――っ! ど、どういうこと……? 盗賊? それで、お父さまたちは?」
「……」
リリは真っ青な顔をしてうつむき、体を震わせている。
「お父さまたちはどうしたの!」
サフィリナが聞いても、リリは口を震わせたまま言葉が出ず。
「サフィリナさま」
気がつくと、いつの間にか執事のジェイスがドアの所に立っていた。
「ジェイス!」
慌ててジェイスに駆けよるサフィリナ。
「教えて、お父さまは? お母さまとマリオンはどうしたの?」
ジェイスはぐっと結んでいた口を静かに開け、絞りだすように声を発した。
「旦那さまたちは、盗賊に襲われ……亡くなられたと……!」
「……は?」
サフィリナはジェイスの言葉をうまく理解できず、頬を痙攣させながら薄らと笑う。本当になにを言っているのか理解ができない。
「サフィリナさま……。私は今から、事実を確認しに行ってまいります」
「……」
「どうか、お心を強くお持ちください」
「……」
サフィリナは胸を押さえて激しく呼吸をしながらくずれ落ち、そのまま意識を失った。
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