二人の結婚②
サフィリナの毎日は忙しいがとても平穏だった。夫はあまり帰ってこないけど、帰ってくればほとんどの時間をサフィリナと過ごしているし、義理の家族はとても優しい。使用人たちともいい関係を築いているし、領民にもずいぶん顔を知ってもらえたと思う。
ネルソン男爵邸にも定期的に足を運んでいる。綿花畑を確認して、工場に顔を出す。すでに事業を引きついでいるためやらなくてはならないことは多いが、やりがいも感じている。
「サフィリナさま」
ホルステイン侯爵邸のサフィリナの寝室。いつものようにサフィリナを起こしに来たのは侍女のモニカ。モニカはサフィリナと同じ歳だが、きりりとした顔立ちときびきびした性格のせいか、サフィリナより年上に見えてしまう。
「おはようございます、サフィリナさま」
「おはよう、モニカ」
カーテンから薄らと差す日の光を確認したサフィリナは、上半身を起こし、腕を突きあげて体をぐーっと伸ばした。
「今日もいい天気ですよ」
サフィリナはベッドから降りて、ボウルに張った水で顔を洗い、ドレスに着がえて鏡台の前に座った。モニカはサフィリナのクセのない金色の髪にオイルを塗りこみ、ブラシでていねいに髪をとかしてきれいに結いあげる。
「さぁ、できました」
「ありがとう」
鏡に映る髪をチェックして、サフィリナは満足そうにうなずいた。
「あら?」
ふと気がついて、鏡の前に並べられた香水のひとつを手に取った。お気に入りのブラックカラントの香りだ。
「もうほとんど入っていないわね……」
中身を確認して、瓶に顔を寄せて香りを嗅いだ。
「うっ……」
最近ずっと胃のあたりがむかついているのだが、そのせいなのか香水の香りを不快に感じる。
「サフィリナさま?」
わずかに顔をしかめたサフィリナを見て、モニカが心配そうな顔をした。
「大丈夫……ちょっと」
そう言うとサフィリナは立ちあがって早足で洗面台まで行き、胃からこみ上げてくるものを堪える。
「サフィリナさま、大丈夫ですか?」
モニカが心配そうに聞く。
「胃の調子が悪いみたい」
「それでしたら、すぐにお薬を用意いたします」
「ええ、お願い」
これまでも胃の調子が悪くなることが何度かあり、医師のポストからは、疲れやストレスからくる胃荒れと診断されていた。症状としては食べ物を受けつけない、匂いを嗅ぐと吐き気がする、など。その胃荒れも、ポストから処方してもらった薬を飲むと次第に治まった。
そんなことを数回くり返したサフィリナは、同じような症状のときにわざわざポストに足を運ばせるのは申し訳ない、と多めに薬を処方してもらっているわけだが、そういうことではないだろう、とモニカは思っている。一番重要なのは、胃を悪くするほど自分を追いこまないことだと。
「ありがとう。少し時間がたてば落ちつくと思うわ」
モニカから受けとった薬を飲んでホッとしたサフィリナは、手にしたグラスをモニカに渡してそれから鏡を見た。
「なんだかちょっと顔色が悪い?」
自分の顔を右へ左へと角度を変えて鏡で確認。やっぱりなんとなく青白い気がする。
「無理しすぎですよ、サフィリナさまは」
屋敷のことや帳簿の管理を学びつつ、領地経営の勉強。それに加えて、繊維事業のこともある。
「以前だって十分お忙しかったのに、領地経営の勉強まで加わって、ゆっくりお茶を飲む時間だってないんですから」
「いやね、モニカったら。大袈裟よ」
確かに忙しくなったけど、お茶を飲む時間が無くなったわけではない。時間はずいぶん短くなってしまったけど。
「それに私がやりたくてやっているんだから」
「そうかもしれませんが……。無理は禁物ですよ」
モニカはわかりやすく不満そうな顔をしている。
「ええ、わかっているわ」
サフィリナは鏡越しにモニカと目を合わせてニコッと微笑んだ。モニカは小さく溜息をつく。
「少し遅くなってしまったわ。急ぎましょう」
サフィリナは早足で食堂に向かった。食堂では、すでにセージとケイトリンが席に着いていた。
「お義父さま、お義母さま、おはようございます」
「おはよう、リナ」
サフィリナが席に着いて少しすると朝食が運ばれた。
「あら、リナ、夜更しでもしたの?」
ケイトリンがサフィリナの顔をのぞき込んで、わずかに眉根を寄せた。顔色が悪いことに気がついたのだろう。
「いえ、少し胃がむかむかしていて。でも、薬を飲んだのですぐによくなると思います」
「そう、またなのね……。あなたは頑張りすぎるから、ちゃんと気をつけないとだめよ」
「はい、気をつけます」
先ほどモニカに言われたばかりということもあって、サフィリナは素直にうなずいた。
「私に仕事を振ってくれていいのよ?」
いつもケイトリンはサフィリナを気遣ってくれるが、サフィリナは首を振る。
「いいえ。お義母さまもお忙しいのですから。それに、エルが屋敷にいるあいだ仕事をしないのは私のわがままですし」
一昨日までジュエルスが帰郷していたのだが、ジュエルスが屋敷にいるあいだは仕事をしないと決めているため、滞在期間の前後は仕事を前倒ししたり、たまった仕事を片づけたりととても忙しくなってしまうのだ。
「あなたがそうやって努力するのはいいと思う。でも、体調を崩すのは違うと思うわよ」
「はい。気をつけます」
サフィリナは少し苦笑いをしながら返事をした。が、実は先ほどから食事が進んでいない。むかつきが完全に解消していないせいか、あまり食べたいという気にならないのだ。それどころかスープを口につけて吐き気がした。
「うっ……」
思わず口を押さえる。
「……大丈夫かい?」
サフィリナの様子を見て声をかけたセージが心配そうな顔をしている。
「すみません、ちょっと……」
「リナ、やっぱり今日はゆっくり休みなさい。事業のほうも一段落ついたのでしょ?」
「ええ……」
少し前まで布の生産ラインの増設、書類の作成などが重なり、現場共々かなり忙しく過ごしていたが、ようやく平時の落ち着きを取りもどしはじめている。
「それなら無理せず休みなさい」
セージもケイトリンの意見に同感だ。胃の不調は疲れも関係しているというし、休むことで緩和されることもあるだろう。
しかしケイトリンはそれ以外にもなにか思うところがあるのか、サフィリナを見つめて考え事をしていた。が、特になにかを言うことはなく、それ以降は穏やかな朝食の時間。結局、サフィリナが口にすることができたのは大好きな桃だけだった。
その日の午後。セージとケイトリンの言葉に従い、お気に入りのガゼボに座ってのんびり過ごしているサフィリナ。冬の終わりのこの時期は日中でも少し肌寒いため、冷たいイスにクッションを重ね、ブランケットにコートという完全防寒スタイルだ。
「もう少しで社交シーズンね」
「そうですね」
モニカは皿にクッキーを足しながら返事をした。
実はサフィリナは、以前参加したオラスト伯爵家主催のパーティー以降、かなり限定的にしか社交をしていなかったのだが、今季から積極的に参加することにしている。特に事業家が集まるパーティーや投資家を募るパーティーには、声がかかればすべて参加する予定だ。
「早めにドレスの準備をしないといけないわ。営業もしたいから品物を用意しておかないと。そういえばナタリー夫人から連絡が来ていないわね。一度お手紙を送ってみないと――」
「サフィリナさま」
サフィリナが考え事をしながら独り言を発しているのを、モニカが強い口調で遮った。
「え?」
サフィリナが少し驚いた顔をしてモニカを見る。
「今日は仕事をお休みしているのですよ」
「あ、ごめんなさい、つい」
「だめですよ。旦那さまと奥さまにも休むように言われているのですから、今はお仕事のことを考えずにのんびりしてください」
モニカが小言を言いながら蜂蜜とレモンを入れたカップにお湯を注ぎ、それをサフィリナの前に置いた。
サフィリナはスプーンでカップの中をかきまわして蜂蜜を溶かし、少し息を吹きかけてから口を付けた。
「おいしいわ」
レモンの酸味と蜂蜜の甘さがちょうどいい。もう一度カップに口を付けて、ほうっと息を吐いてから庭園を見わたした。
ラン科のシンビジュームが可憐な花を咲かせ、別の場所ではノースポールが花簇をなしている。
「もう少ししたら、フリージアが咲くかしら?」
そんなことを言いながら花々を眺め、モニカと談笑をしていたサフィリナ。しかし、長く外にいたせいか指先が冷たくなっているのを感じて、両手をこすり合わせる。
「そろそろお戻りになりますか?」
「そうね。少し寒くなってきたし」
そう言って立ちあがったサフィリナだったが、目の前がぐらりと揺れ、慌ててテーブルに手を突いた。
「サフィリナさま! 大丈夫ですか?」
「……ええ」
サフィリナはモニカに支えられるようにして自室に戻り、そのままベッドに潜りこんだ。そこへサフィリナの様子を聞いてケイトリンがやってきた。
「リナ、体調はどう?」
「お義母さま、すみません、ご心配をおかけして」
サフィリナが申し訳なさそうな顔をすると、ケイトリンは少し考えてから慎重に口を開いた。
「ねぇ、リナ? あなた、最後に月のものが来たのはいつ?」
「……え?」
ケイトリンの言葉にモニカがはっとして口を押さえた。
「えっと……」
サフィリナは少し考えていたがはっきりと思いだせず、モニカをチラッと見る。
「先々月……? あ、ひと月以上来ていません……!」
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