新しい生活⑧
サフィリナを睨みつけるクローディアと、ぼうっとサフィリナを見つめるアレクサンドロ。二人をよそに興奮気味にサフィリナに話しかけているのはマシュートだ。
「それじゃ、サフィリナさまはすでに三か国語も話せるの?」
「はい、今は四か国語目を勉強中です」
「へぇ、それはなに?」
「トーテイル語です」
「僕もだ! 僕も今トーテイル語を勉強しているんだよ」
トーテイル語は決してメジャーな言語ではないし、どちらかといえば公用語にしている国は少ない。しかしトーテイル語を使っている国は歴史が古く、文化的価値のあるものを多く有している。それにその地域は鉄鉱石が眠る山も多いことから、国交を望む国は少なくない。そのため、外交や貿易にかかわる一部の人たちには、トーテイル語の習得は必須でもある。
「でも、まさかここでトーテイル語を話せる人に出あうとは思わなかったなぁ」
「話せると言ってもまだ簡単な言葉だけで、会話ができるようになるにはもっと勉強しなくてはいけませんが」
「それでも素晴らしいよ、うれしいな。今度一緒に――」
「マシュー、おしゃべりはあとにしろ」
夢中になって話を続けようとするマシュートを、アレクサンドロが強めの語気で止める。
「あ、ごめん。つい」
マシュートが慌てて口を閉じた。
アレクサンドロとて、トーテイル語を話す女性がいることに驚いていないわけではない。マシュートが特に力を入れて勉強をしている言語だし、彼が興奮してしまうのも仕方がない。それは理解している。だから少し大目に見ていたが、実際はそれどころではないのだ。
(見てみろ。クローディアがすでに涙目だ。マシューがサフィリナ嬢の味方になってしまったと思っているんだ。まったく、少しは空気を読めよ、ばかマシューめ!)
そんな思いを詰めこんでマシュートを睨みつける。
「それで、サフィリナ嬢は――」
「おい、ネルソン男爵だ。名前を呼ぶことは許可していない」
ジュエルスがすかさずアレクサンドロに食いついた。
「す、すまない、つい」
ジュエルスの剣幕にアレクサンドロが慌てて謝罪をする。
しかし、なんとなくサフィリナを爵位では呼びづらい。なぜならサフィリナはアレクサンドロより年下で、クローディアと同じ十五歳。普通なら令嬢と呼ばれる年齢だ。
(まったくの予想外だよ)
ジュエルスの婚約者というから外国の貴人かと思えば、自国の貴族で領地も持たない男爵。事故で家族を失い、その後ホルステイン侯爵家に身を寄せ、ジュエルスと恋に落ちたなんて、まるでなるべくしてなったおとぎ話のようだ。
それに、ホルステイン侯爵夫妻が諸手を挙げて迎えいれているということは、サフィリナがそれほど魅力的ということなのだろう。
実際、先ほどのマシュートとの会話でその能力の高さはすでに証明している。女性が外国語を習得することは稀で、習得するとしてもせいぜい二か国語くらい。それを三か国語も習得しているなんてとんでもない話で、自国では聞いたことがない。いや一人いたか。ケイトリンだ。彼女は五か国語を習得していて、外国から貴人を招いた際にはホストを務めることもあるほど。そのケイトリンのお墨付きなら、他人の自分たちがとやかく言うことはできない。
「ジュエルスのお友達ですもの。サフィリナと呼んでいただければうれしいですわ」
「そ、そうですか。では、私のこともアレクと――」
「おい、調子に乗るな! アレク、お前はネルソン男爵と呼べ」
友人として仲良くなってくれるのはうれしいが、親密になっていいということではない。そこはしっかり一線を、いや、五本くらい線を引いておかなくては。
「変なことを言わないでちょうだい、エル」
「変なもんか。リナに馴れ馴れしくするなんて俺は許さないぞ」
「そういうことを言わないの」
そんな二人のやりとりを見てアレクサンドロがぽかんとしている。
常に女の子とのあいだに壁を立てて接しているジュエルスが、まさかあんな子どもじみたことを言うなんて。でも……こんな光景も悪くない。
「君らはお似合いだな」
思わずそんな言葉が口をついてしまう。
「そうだろ?」
ジュエルスは恥ずかしがることもなく肯定した。
しかし、それを許さない存在が一人いる。
「――なによ! 冗談じゃないわ!」
突然声を荒らげたクローディアがサフィリナを睨みつけた。
「認めないわよ。私がエルと結婚するはずだったのに!」
「クローディア、やめるんだ」
慌ててクローディアを声で制したアレクサンドロ。だが、クローディアは止まらず――。
「なにが男爵よ。領地も持っていないなんて平民も同然じゃない。エルは侯爵家の次期当主よ。当然それにふさわしい身分の女性と結婚をするべきなの」
「クローディア」
ジュエルスの低い声。しかし、クローディアはその声に含まれた怒りに気がつかない。
「私がエルと結婚するはずだったのよ! それなのに、いきなりやってきてエルを盗るなんて、そんなの泥棒じゃない! そんなひどいことをする人なんて、神さまから罰をもらえばいいわ」
「クローディア!」
ジュエルスの声が部屋に響く。
「いい加減にしろよ」
「な……なによ、神さまは見てるんだから! 家族が盗賊に襲われたのだって、悪いことをして罰が下ったからでしょ!」
「――っ!」
「クローディア、君はなんてことを言うんだ」
さすがにアレクサンドロも顔を青くした。
「帰れ」
「え?」
「ここから出ていけ」
ジュエルスの声は決して大きくないが、身を貫くような鋭さがある。
「お前とは二度とかかわりたくない」
「エル?」
ジュエルスが睨んでいる。今までそんな目で一度だって見られたことはなかったのに。
「かかわりたくないって……うそでしょ?」
「クローディア、お前の発言は看過できるものじゃない」
「だ、だって……私のほうがずっと傷ついているんだから! アレクもエルになにか言ってよ!」
しかしアレクサンドロは首を振って溜息をつく。
「アレク、どうして……?」
「分別もつかない子どもを庇うことはできないよ、クローディア」
「子どもって……そんな、ひどい……!」
ブワッと溢れた涙が、ボロボロとクローディアのドレスに落ちていく。
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