元婚約者は乙女になりました
いえ、正確に表現するなら、私が彼を乙女にしてしまったのです。
私の元婚約者であるアラン様の遊び癖は、それはもう目も当てられない程に酷いもので、婚約者がありながら次から次へと学園の可愛い女子生徒に声を掛け、人目も気にせず腰に手を回したり口づけをしたりしていました。
婚約者がいることを分かっていながら誘いに応じる女子生徒の方もどうかと思いますが、視線が合うだけで気が遠くなってしまいそうなほどの美少年から、頭が蕩けるような甘い声と気障な台詞で誘惑されれば、誰でも応じてしまうものなのかもしれません。
私自身は一度として彼からそのように熱っぽく口説かれた経験がなかったので何とも言えませんけれど。
勿論、婚約者である私が一切咎めようとしなかったのも、彼を増長させた理由の一つだったのでしょう。
絵に描いたような美丈夫の彼に比べて私は、ぺちゃんこの低い鼻に腫れぼったい一重の目、下膨れした頬に凹凸のないのっぺりとした顔立ち、要するにとんでもなく不器量なのです。二人が釣り合わないことは誰の目にも明らかでしたから、多少の身勝手は我慢しなければならないと思い込んでいました。
ただ何も口にしないからといって、何も感じていない訳ではありません。こんな惨めな状況が続くぐらいなら、いっそ彼のほうから婚約破棄でもしてくれないだろうかと願っていました。
自分から両親に婚約解消を訴えるという方法を選ばなかったところが、私の臆病で卑怯な欠点を物語っていると、今となっては思います。悲劇のヒロインのような自分に酔っていたのかもしれません。もし勇気を出して行動していれば、あんな悲惨な事件は起きなかったでしょう。
彼の放蕩ぶりは際限なくエスカレートする一方で、しまいには私とのお茶会に、あろうことか別の女子生徒を連れて現れたのです。目の前で彼女といちゃつきながら平気でヘラヘラと談笑している姿を見た瞬間、私の堪忍袋の緒がプチンと切れました。
彼の言動に対する怒りは勿論ですが、私に対する優越感をちらつかせながらこちらを見て嗤う女子生徒や、それに対して文句一つ言葉にできない自分自身への鬱憤も破裂したのでしょう。
「せいやぁっ!!!」「はうぅっ……」
頭に血が上った私は、彼にツカツカと歩み寄り、逃げられないよう両手で肩をがっしりと掴んで、掛け声とともに股間に強烈な膝蹴りを入れてしまいました。
今でもあの時の何かがぐちゃりと潰れる感触を忘れることができません。
顔面蒼白になり、口から泡を吹きながら声にならない悲鳴をあげて、芋虫のようにのたうち回る彼と、次は自分の番かもしれないと思ったのかヒールの高い靴を脱ぎ捨て、泣きながら裸足で逃げ去る女子生徒。あの壮絶な光景は未だに夢に出てきます。
そして彼は、医師達の懸命な治療も空しく、乙女になってしまいました。
公爵家の嫡男様を乙女にしてしまったのですから、本来なら私もただではすまないはずだったのですが、アラン様の自堕落な立ち居振舞いには、ご両親もほとほと手を焼いていたらしく、近々勘当を言い渡す予定すらあったそうで、お咎めは一切ありませんでした。
それだけでなく、驚くべきことに私は彼の弟であるクリス様と引き続き婚約することになりました。
公爵ご夫妻に言わせれば『男は女の尻に敷かれているくらいがちょうどいい』とのことで、あの悲惨極まりない傷害事件を起こしてしまったにもかかわらず、すっかり気に入られてしまったのです。
そして、肝心の元婚約者様がどうなったかというと……
「それにしても、アランさん。よく私とこうして普通に話せますよね。私のせいでそうなってしまったというのに」
「何を言ってるの。全部私の自業自得で、あなたは何も悪くないじゃない。むしろイザベラには感謝しているのよ。こうやって女性の気持ちを理解できなければ、自分がどれだけ酷いことをしてきたのか一生理解できないまま、きっといつか誰かに刺されて無様に死んでいたと思うわ」
元々中世的な顔立ちの美少年でしたから、女性口調で話す彼女の姿に全くといっていいほど違和感はありません。最近はお化粧をしてドレスを身に着けていらっしゃいますから、恐らく街ですれ違ったとしても、誰も性別上は男だなんて気が付かないでしょう。
もう婚約者ではありませんから釣り合わない負い目を感じることは無くなったのですが、最近は彼女の美しさに嫉妬してしまいそうになります。
「今だから言えることだけど、あんな風に自己陶酔的な振舞いをしておきながら、私は自分に自信がなかったのよ。見た目だけは良かったけど、それ以外はからっぽ。優秀で才能あるあなたといつも比較されてプレッシャーを感じていたけど、だからといってあなたに見合う男になる努力をする根性もなかった。ただ自分の魅力をひけらかして現実から目を逸らしていたのよ」
とても意外な告白でしたが、彼女の言葉が嘘偽りでないことは、憑き物が落ちたようにすっきりとした表情から明らかでした。私の目には以前より一層輝いているようにすら見えます。
「弟のクリスは私と違って紳士的だし真面目で一途だから、きっとあなたのことを幸せにできると思うわ」
「はい。彼は、とても思いやりがあって優しいです……ただ、時々少し彼が私に怯えている気がして……」
クリスさんだけでなく学園の男子は、私と目が合うだけで「ひっ」と小さな悲鳴を上げ股間を押さえることがあります。同級生からお茶会に呼ばれることも増えたのですが、きっとこれは牽制や脅しのためなのだろうなと思っています。
私自身は大好きな美味しいお菓子と紅茶にありつけるので大して気にしていませんが。きっとあの事件を経て、結構神経が図太くなってしまったのでしょう。
ただ、庶民の間でスラングとして「イザベる」という脅し文句が流行していると聞いた時は、恥ずかしさのあまり大声で叫び出しそうになりました。
「悪戯をすると『くるみ割りのイザベラ』がやってきて女の子にされてしまうぞ!!」と親が息子に言い聞かせているという、色々な意味で恐ろしい噂話も耳にしました。デマであることを心の底から祈っています。
「多分クリスは怯えてるというより心配しているのだと思うわ。ほら、彼はどっちかというとゴツい顔立ちでしょ? 昔から私と比べられて容姿にコンプレックスを持ってるみたいで、きっと自分がイザベラに嫌われているんじゃないかと気が気じゃないのよ」
「そんな……私は、アランさんよりもクリスさんの男らしくて精悍な顔つきの方が好きです!」
「よく本人の前で堂々と言えるわね……でもクリスにもそうやって正直に伝えてくれたら、きっと安心するし凄く喜ぶと思うわ」
「そうします……でも、本当にクリスさんは私なんかが相手で良かったのでしょうか……」
「はあ……全く……あなたの自己評価が低すぎるところは、早くどうにかしないといけないわね。確かに私もあなたに対して散々酷い振舞いをしてきたけど、でもあなたとのお茶会は一度たりとも欠席も遅刻もしなかったのには気づいてた?」
言われてみればその通りです。あの事件当日を含めて必ず彼はお茶会に現れました。大抵二人きりの時は退屈そうにしていましたが。
「知識に教養、ユーモア溢れるあなたの話を聞くのはそこら辺の頭空っぽの女子と過ごすよりずっと楽しかったからよ。でもそれを認めたくなくて口にも表情にも絶対に出さなかったけどね。だから、もっと自分に自信を持っていいの。クリスもあなたのことを気に入っていたからこそ、あなたを大切に扱おうとしない私に突っかかってきてしょっちゅう殴り合いの喧嘩をしていたんだから」
「っ……ありがとうございます……」
あれだけ心無い扱いをされても零れなかった涙が、今にも溢れてしまいそうで堪えるのに一苦労でした。
ちなみにアラン様にはデザインの才能があったようで、今は服飾店に住み込みで働きながら、そちらの道に進む勉強をしているようです。確かに彼は女性への贈り物にもセンスがありましたし、そう考えるとあの遊び癖も無駄ではなかったのかもしれません。
「あなたの結婚式には、元婚約者としての今までのお詫びと、大切な友人としての心からのお祝いに、最高に素敵なウエディングドレスを仕立ててプレゼントするわ」
「嬉しいです!! とても楽しみにしていますね!!」
最低の浮気者だった元婚約者様は諸事情あって乙女になってしまいましたが、今は何でも話せる友人として仲良くすることが出来ています。