シリーズ:学習タイプの差(繰り返しで学習する人と、単純な繰り返しからは学習しない人)
オートパイロットさんと学習タイプで、論理的思考の破棄を説明してみる
人にはそれぞれ得手、不得手があります。
さらには、能力が高いか低いかというだけではなく、種類もけっこう幅広かったりります。
運動能力は比較的外からでも見えやすいですが、頭の中で起きていることは、外からは見えません。見ている対象が同じであっても、それぞれの人に、どのように見えているのかは、直接知る方法がありません。
例えば、今この文章を読んでいる方でも、同じ文章を読んでも、その文章をどのように脳内で展開しているかは、人によって差があります。
頭の特性や使い方は人によって異なり、その違いは、一般の人が想像する以上に大きなものだったりします。
※私からはそのように感じられるという話であって、実際がどうかはわかりません
特性が絡むと、人に説明することが難しい場合があります。
頭の中のことは、特に外からは見えにくく、説明が難しいことがあります。
とは言え、ごく一般的な特性を持つ人たちにとって、それはほとんど問題にならないようです。
自分がどのように認識しているかなどと、わざわざ説明する必要など無く、ほとんどの人は自分と似た特性を持っているという前提で話をすることが可能だからだと思っています。
一方で、”珍しい特性を持つ人”は、人にどう説明しても、全く理解してもらえなかったりします。
「嘘だ、そんな訳が無い」と言われてしまいます。
なんであんなにムキになって否定されてしまうのか訳が分からないくらい、凄い勢いで否定されてしまうことがあります。
そんな感じで、”存在しないもの”として扱われることの多い、珍しい特性を持つ人ですが、そんな人の書く文章が稀に、”一般的な人には理解し難い謎文章”として、有名になることがあります。
珍しい特性を持つ人が書いた文章は、多くの人にとって”謎文章”になってしまうことがあるのです。逆に言うと、全ての人にとって謎なのではなく、一部の人には理解できる文章でもあります。
わかる人にはわかるけど、多くの人にとって”謎文章”になってしまう。
そんなものの一つに登 大遊氏の”論理的思考の放棄”があります。
私は、この文章に書かれている内容、言いたいことがわかる気がするのです。
これを、もう少し人に伝わりやすく書く方法は無いかと模索しつつ書いたのがこの文章です。
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私が本作を投稿したころ(2020年6月)、登 大遊氏の”論理的思考の放棄”が話題になっていました。
それ以前にも、”論理的思考の放棄”が話題になったことがあったので、”また話題になっているのか”と思いました。
2007年に書かれたものなので、けっこう古いものですが、当時から論争を呼び、その後もたびたび話題になるようです。
<<https://softether.hatenadiary.org/entry/20070324/p1>>
”僕は、1 日に少なくとも 3,000 行程度、多く書くときで 10,000 行以上のプログラムを書くことができる。”からはじまる文ですが、この方は、コンピュータのプログラムのコードを書く速度が人より桁違いに速いことに気付きます。それでいて、品質も高い(バグが少ない)とのこと。
そして、なぜ他の人は遅いのかと考えた結果、”やり方が悪いからだ”という結論に至り、書かれたのが、その”論理的思考の放棄”と言って良いかと思います。
そして、
他の人達は皆、固定観念にとらわれているだけである。
実は考えかたを変えるだけで、誰にでもできる簡単な方法がある。
それをを紹介しましょう
……と言う感じの話なのですが、
”① 努力すること、② 論理的に考えること、③ 頭を使うこと” の指導を誤った指導と書いています。
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我々は、普段、社会通念として、① 努力すること、② 論理的に考えること、③ 頭を使うこと、といったようなことをいつも言い聞かされているのだ。そのような誤った「指導」を小学校〜就職〜退職までの間 (つまり人生のほぼすべて) で受けるので、全く自分の能力に気付かないまま、一生終わるという人もいるようだ。
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人生のほぼすべての期間、誤った指導を受け続け、一生を無駄にしている人も居るという主張まで書かれていて、多くの人は、この話に、違和感を持ったのではないかと思います。
(或いは逆に、そうだったのか!と思って実践しようとしたけどできなかったという方も居るかもしれません)
で、なんで、この人がこんなことを書いているかと言うと、
この方にとっては、”① 努力すること、② 論理的に考えること、③ 頭を使うこと を指導すること”が、誤っているからです。
はい。いつも通りです。とっても簡単ですね!
つまり、この方は、”人生無駄にするから辞めた方が良い”と、人に言いたくなるほど愚かなことに感じているわけです。
私も、”人生無駄になるほど愚かなことだから、私にそういう指導するのは辞めてくれ”と思ってますが、多くの人に対して、”無駄だから、あなた達も辞めるべきだ”とは言いません。
私にとってどれだけ無駄なことであるかは、その人たちに関係ありません。
その人たちにとっては無駄では無いのでしょうから。
ただし、”(その人の思う形の)努力で効果が上がるに決まっている”という決めつけをやめて欲しいとは、常々思っています。
”その決めつけをやめて欲しい”というのが望みですが、どうせ人に説明したところで信じてもらえないという現実を踏まえて、(他人から求められる形の)努力しても意味無い人に向けては、自衛のススメをしています。
真に受けると、精神が破壊されたりしてしまいますからね。
”論理的思考の放棄”の内容は、論理的な記述を多用するコードを書くのに、論理的思考を放棄しろと書いてあって、ほとんどの人にとっては矛盾に感じるのではないかと思います。
※筆者(登 大遊氏)も、言葉の上で矛盾することは認識したうえで、説明しています。
で、実際の実施方法の、実行部分だけを抜粋すると、こうなっています。
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プログラミングの目的は、コンピュータに処理を実行してもらうことなので、コンピュータにプログラムを入力しないと意味が無い。そこで、仕方無くコンピュータの前に座る。
コンピュータの前に座って、キーボードの上に両手を置けば、後はあまり考える必要はない。自動的に手がキーボードを打ち、プログラムを入力して完成させてくれる。この処理は一切、論理的思考では行われていないので、途中で論理的思考を行うことは厳禁である (作業の邪魔になる)。ひたすら何も考えない。
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(程度の差はあるにせよ)私も、(他人の書いたコードが含まれなければ)局所的な1部分の論理とか気にせず、あまり考えずに書くことができるので、個人的には、”まあ言ってることは分かるけど、そんなの言っても、ほとんどの人には伝わらないのではないか”と思いました。
理由は簡単で、私は、自分が少数派であることを知っているからです。
ところが、意外なことがわかりました。
私は、プログラムと小説は同じように、考えずに書きますので、どっちも一緒だろうと思って、モノ書きさんに聞いてみました。
なんと、
”書いている実感があまり無く、よくわからないけど勝手に書けている” という感覚を持ってる方”
という聞き方をすると、できると答えた人が、過半数だったのです!
twitterで、アンケートを取ってみたところ、このような結果になりました。
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モノ書きの方で
執筆中 ”書いている実感があまり無く、よくわからないけど勝手に書けている” という感覚を持ってる方が居ると思います
それを私はオートパイロットと呼んでます
これを人に説明するには、どう伝えれば良いのでしょう?
コメントで教えてもらえるとありがたいです
①そんな現象、あるわけ無い(存在を認めない) 7.7%
②そんな現象、存在を知らない 19.3%
③オートパイロット付きの人の存在を認知している 19.3%
④私はオートパイロットが使える 53.7%
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オートパイロットで、意味がそのまま通じてしまいました。
そして、驚くのは、使える人が過半数。
数字自体はあてになりません。類友現象、選別濃縮が発生するからです。
私がオートパイロットさんを使えているので、私のフォロワーさんには、オートパイロットさんを使える人が多めに存在している。そして、元々オートパイロットさんについて興味があり、このアンケートに反応する。すると、その人のフォロワーに伝搬し、類友の輪が広がっていきます。
なので、現実には1%なのにアンケート結果は50%とかになったりします。
なので、アンケート結果をそのまま信じると現実離れした結果になりますが、単純に考えて、バリバリ書いて投稿している人は、そこそこの割合いでオートパイロットを持っている可能性が高いとは言えそうです。
でも、この人達に、故意に努力や考えることを辞めてオートパイロットを使っているかと聞くと、高確率で違うと答えると思います。
なので、自動で書くと、効率良いから自動で書くことをお勧めする。
ということであれば、
”論理的思考の破棄” ではなく、 ”オートパイロットさんを信じるんだ!” と書いた方が、多くの人に伝わりそうです。
私はプログラムはテキトーに書きます。ソース1行1行考えて書いたりしません。
そして、小説に至っては、どうやって文章にしているのかがわかりません。
例えば、今書いている、こういう文章であれば、書きたい内容があって、どうすれば、読者に伝わるか考えながら書いています。
ところが、小説は、そんなこと考えていない。ソースコードも、ソースの書き方なんか頭に無く、別のことを考えて書いています。
私は単に勝手に書けるというだけでなく、登 大遊氏の書いている、”自動的に手がキーボードを打ち”に近い実感を持っています。手が勝手に打つわけではありませんが、私自身は打つ文章を考えて打っているわけではないように感じます。
複数のキャラがどのような順番でどう動くのか決定していないのに、決めなくても勝手に文章が書かれるように感じています。
(なので、最初の頃は”どうやって書いているのだろう?”という疑問が強かったです。ただし、その文章はそのまま投稿できる形になっていないので、編集は自分で考えながらやっている自覚を持っています)
習熟した結果、無意識に書けるようになったわけでは無く、小説はじめて書いたら、自動で書けた。
なんで書けてるのかわからないし、どうやって書いてるのかもわからない。
私はだいたい、[できない] → [できる] に変わるときは、いきなり一気に変わります。
習熟とかは、できるようになった後の話で、できるようになるまでは、反復で学習して、徐々に技量が上がったりしません。
”オートパイロットさん”を持つ人の多くが、同じパターンであれば、人に説明しやすくなると思ったのですが、感覚を聞いてみると、どうやら、ほとんどの人は別パターンのようです。
言い方を変えると、論理的思考の破棄が、オートパイロットさんを動かす方法では無い人がほとんどな感じなのです。
自動で書ける人達のほとんどは、”努力は無駄なことだからやめろ”とか言い出しません。
手が勝手に打つではなく、文字が浮かぶとか憑依するとか、そんな感じのことを言ってる人が多い。
(頭の中に文字が浮かぶので、それを書き写しているというようなことを言っている方も居ました)
そして、登 大遊氏は努力してはいけないと書き、私も努力は無駄だと言っています。
おそらく、私と登 大遊氏は似た性質を持っているのだと思うのです。
なので、オートパイロットさんを動かす方法は、人それぞれバラバラだけど、中には、論理的思考をせずに論理式の塊を書くことができる人が存在する。という感じかと思います。
論理的思考を破棄して、効率を上げることができる人は少ないような気がします。
説明の糸口がつかめたと思ったのに、掴めなかったという結果になってしまいました。
オートパイロットさんの話はここで終わりです。
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ここからは、なぜ、登 大遊氏が論理的思考の破棄のススメを書いているのかを、学習特性の面から見て、説明しようと思います。
理由は、「努力が無駄だ」と言う人本人にとって、努力が本当に無駄である可能性があるということを知って欲しいからです。
一生誤った指導を受け続けるダメージがどれだけ大きいかを考えて欲しい。
”論理的思考の放棄”の中で以下のようなことが書かれています。
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まず最も重要な前提知識として、以下の 3 つのことを遵守することが必須である。
① 努力しないこと
② 論理的に考えないこと
③ 頭を使わないこと
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”努力しないこと”が大事。これを言う人はあまり多くない。
私も、努力に効果の無い人なので、これを言う人が増えるのは有り難い。
人に「努力するな」と言う気はありませんが、
”一般的に言われる努力が無意味な人も、存在する”という話をしても、信じてもらえません。
”論理的思考の放棄”は、2007年の記事で、けっこう古いものだということもあり、けっこうあちこちで考察されてたりします。
”論理的思考”の定義からはじまり、内容を分解しながら論理的に解釈しようとしていたりしますが、”論理的思考の放棄”を主張する人の文章を、論理的に解析しても、書いてある内容を正しく理解することはできません。
その人の考えは、文章で表現するのがとても難しい。文章との相性が悪いのです。
頭の中では矛盾していないのに、文章にすると矛盾しているように読める。
簡単に書くと矛盾した内容が含まれてしまう。
矛盾しないように説明をしていくと、私が書く文章のように同じ内容を視点を変えて何度も重複して書くことになりますので、多くの人にとってわかりにくく無駄の多い文章になります。
(ただし、一部の人は”わかりやすい”と感じるでしょう)
この書き方は、線を何本か引いて、その交点であると言う説明をしています。
言語は一次元、言語と相性の良い、点と時間の概念が強いタイプの人には、なんでわざわざこんなわかりにくい無駄な文章を書くのだろうと疑問に感じると思います。
多次元空間の人は、一次元の言語で、多次元を表現しようとします。
まず、この次元の話が出てくるのがわかりにくいかもしれませんね。
言語は一次元です。音声は順番にしか出せません。同時に100語とか発音できません。
記述する文字も同じく1次元です。なので、多次元の頭を持つ人は、なんとか頭の中の内容を1次元に落とし込んで説明することになります。
ところが、読む人が1次元寄りの人だと、”多次元で構成された思考の一部を切り取って、仕方なく1次元で表現している”ということ自体を理解しにくいのではないかと思います。
なんでそんなわけのわからない曖昧な説明をするのだろうと不思議に思うかもしれませんが、多次元思考を、言語で1次元思考の人に伝えるのは非常に難しいのです。
一方で頭の中が多次元の人は、その一次元に分断された情報から、元の多次元情報を復元しやすい(なぜそのような書き方をしたのか意図が理解しやすい)ので、話が通じてしまう。
そんな感じで、特性に差があると情報が伝わりにくい。特性が近いと、情報が伝わりやすい。
同じ話をしても、わかりやすいという人と、わかりにくいという人で、両極端に分かれます。
”論理的思考の放棄”が、謎の文になりやすい理由の一つとして、書く側、読む側共に、”能力特性の知識が抜けているから”というのがあると思ってます。
それを知れば、中身が理解できる……のではなく、そもそも、理解できない人には、理解は難しいことと、この人が何でこんなことを書いているのかが、わかりやすくなると思います。
なので、それを説明します。
学習タイプを知ると、だいぶわかりやすくなると思います。
同じ文章を読んで、わかる人と分からない人が出るのは、能力特性の差です。
学習に限らず、近いタイプの人の言うことは、お互いに理解しやすい。
学習にはタイプがあり、一般に言う努力が無意味なタイプの人が居ます。
その人は、論理的思考をする必要が無い人でもあります。
つまり、そういう学習タイプの人が、”こうやると良いから、皆もやってみよう!”と言ってるけど、多くの人は、理解できない。
多くの人は、その学習タイプでは無いからですね。
学習タイプの合わない人が書かれている内容を理解したところで、実践しても良い結果は得られない。
能力特性に合わないから。
筆者は、やり方の問題で、誰にでもできると言っているが、実際には、できる人の方が少数派なので、多くの人にとっては、読んでも、実践方法がわからない謎文章というのが、登 大遊氏の”論理的思考の放棄”ではないかと思います。
下の方で説明してますが、特徴と3つの必須項目が、見事に当て嵌ってます。
私も、そっち側の人です(努力は意味無い)。
何も考えずに(当時としては極端に)長いソースコード書けるし、
”私には努力は無駄である”と公言しています。
できないことを、繰り返し何度もやることで学習が進んだりとかしません。
ソースコードでピンと来ない人には、こう言う説明の仕方もできます。
私は、ある日突然、”小説でも書いてみようかな”と思うと、200万文字でも300万文字でも、特に努力せずに書けるタイプの人です(こんなに長くなるとは予想していませんでしたが)。
(内容の良し悪しは別として、単純に、長くても、なんとなくで書ける)
投稿サイトの使い方は、調べる必要がありましたが、書く方は特に何もしてません。
小説書こうと思ったことも無ければ、小説の書き方とか読んだことも無いです。
(そもそも、手段が小説書きで、小説を書くこと自体を目標、目的としたことが無い)
この長さで、あちこち繋がっている話を書くのは、一般的には非常に難しいことなのではないかと思います。それを初回からやることができる。
私にとっては、それが普通です。物事は繋がっているのが普通だからです。
なので、繋がっていない文章を見ると、違和感を持ちます。
(”繋がっていない文章”の意味は、”あちこち繋げて、強め合うように設計されていない文章”の意味です)
小説もソースコード書くのと大差ないです。
Cとかアセンブラ、或いは機械語が、日本語に変わっただけ。
なので、当然、文章としては、あまり出来は良くないと思います。
私自身が、どうせ、読む時も内容しか見てない(頭の中に文字は存在できないので、読む=文字ではない何かに変換される)ので、文章自体は私には重要では無いからです。
コンピューター言語であろうと、日本語であろうと、このタイプの人間の頭の中と、言語は相性が悪いです。
この、相性の悪さを逆手に取ったのが、論理的思考の破棄、感覚的思考ではないかと思います。
日頃から相性悪いものを扱うことに慣れている。
日常的に高負荷で動いてるので、経験豊富で力を抜く(考えようとしなくてもなんとかなる)コツを知っている。
その結果、感覚的にテキトーに書ける。
小説にしろプログラムにしろ、表現したいものはすべて自分の中にあり、
他者に邪魔されないので、テキトーに書いても自分が書きたかったものになる。
どうせ、全ての部分が自分にとって、均整の取れたもの、”言語で説明するのが難しい、抽象的なルールに従ったもの”になっているはずだからです。
メールなど、さほど長く無く、相手の返信で答えを変えないといけないようなものには使えないのですが(少なくとも私の場合)。
言語は一次元なので、言語で思考する人は、思考も直線的になりやすい。
思考に言語を使わない人は、思考が多次元なのに、出力に使う言語は1次元なので、自分が1つのことだと思っていることを説明するために、いろいろな角度から説明しなければならないので、めんどくさい。
(言語は一次元ですが、言語で表現できる内容は点+時間というイメージです。
一次元の人は、いつ(時間)、誰が何を(点)を知りたがります。
多次元の人は、1次元の人向けに、線を説明して、その中のどこか1点だという説明をすると思います。
そして、説明するために例を多用します。このパラメータによって点の位置は変化しますよと。
ただし、自然の物事はだいたい二次曲線になってます。
なので必然的に二次曲線が入り込む。
これが、とても、伝わりにくい。
一次元の人は、なぜわざわざ難しい説明をするのかと思うでしょうが、多次元の人は、
線を説明する方が確実だと思っているので線を説明しようとします)
でも、もともと、言語と思考が別なので、C言語でも日本語でも、書く対象に合わせて使う言語が変わるだけ。設計書なしにプログラム書くのと、資料作らず小説書くのとであまり差が無い。
どっちにしろ、めんどくさい。でも、めんどくさいだけで、いきなり初回からできる。
頭の中にあるものが動くようにコード書くのと、頭の中にある話を日本語で書くのに大差は無い。
私は昔……例えば、高校生のときにはできなかったのではないかと思いますが、はじめて書いた時にはできるようになってました。
いつからできるようになっていたのかは、わかりません。
できる理由は、”能力が高いから”ではありません。
どうも、能力の高低で考える人が多いようなのですが、能力の高低の問題では無いのです。
頭の特性の差です。そもそも物事の習得方法に違いがあります。
この話だと、考えずに書けるという優れた面が目立ちますが、実は、日常生活で、不利な面が多い特性でもあります。
同じことを何度も繰り返しても、学習できませんので、苦手なことが多い上に、それを克服するのが、とても難しい。
(現在の日本の教育制度では)学校に行っても、ほとんど学習効果が無い。
教育受けても受けなくても大差無い。
下で出てきますが、遅熟です。
人生は、比較的早いタイミングで、大きな部分が決まりやすい。
学歴や新卒での就職は、人生の早いタイミングで発生します。
伸び代はあっても、かなり、人生で不利の大きい特性だと思います。
特性は、生まれつきのものなので、運が悪かったと受け入れるしかありません。
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優秀な人を、”天才タイプ”と”秀才タイプ”の2種類に分類する概念の存在は一般的にも、比較的広く知られていると思います。
それに似たものを、もうちょっと詳細に分類したものがあります。
元はギフテッドに特徴的な共通の性質を持つ子が多いと言う話から、出て来たものだったと思います。
学習方法の差として分類されています。
ギフテッドという言葉は広義には、いろんな意味を含みますが、ここではIQテストで極端にIQが高く出た子という意味で使っています。
※語感通り、神様から授かった特殊技能的な解釈も存在しますが、
今この話で注目しているのは、学習特性です。
通常は、両方の型がある程度の比率で混ざっていて、片方だけの性質が極端に強い人は少ないのでしょうが、”努力が無駄だ”と言う人が少ないところを見ると、純粋な視空間学習者は、非常に少ないのでしょう。
〇聴覚順次型学習者:一次元で順番に進んでいくタイプ。
(Auditory-Sequential Learner)
学習は簡単なことからの積み上げと反復、レベルアップの繰り返し。
〇視覚空間型学習者:思考が多次元で、しばらく停滞、あるとき突然一気に進むタイプ。
(Visual-Spatial Learner)
概念を学習。全体像から細かい方への方が理解しやすい。
元々IQ高い人は学校で落ちこぼれやすいので、アメリカにはギフテッド教育が存在します。
※IQ高い人は、学校で”落ちこぼれ”やすい。”浮きこぼれ”とも言われます
英才教育ではなく、落ちこぼれ救済の意味が強いと思うのですが、まあ、ギフテッド向けの教育があります。
そういった教育現場で、習得方法が特徴的な子が多いという報告が上がっています。
簡単なことを繰り返しても、あまり効果は出ないけれど、別の方法で習得が進む子供が(おそらく、一般の教室と比較して)多かったのです。
日本では、努力の否定は許されない風潮で満ちており、素質の差はタブー視されている……と考えるのが自然だろうと思えるほど見事に、繰り返しで学習しないタイプの存在を説明する日本語の文献がありません。
学習特性に種類があって、一律で教室で先生が教科書に沿って教えるスタイルの授業を受けても効果がないタイプの子供が多数存在してしまうと、一律の学校教育が無意味な子供の存在を認めることになるので、都合の悪い情報は入ってこないのですね。
私もインターネットが無ければ、そこに到達することはできなかったでしょう。
言語の壁はありましたが、欲しい情報がありました。
引用したいのですが、言語の壁が! 英語なのです。
<<http://visualspatial.org/vslasl.php>>
めんどうなので、訳文の抜粋をこちらからお借りします。
(私が訳しても、同じ内容になるだけですので)
tsunnkyt様 ”お料理日記 in Kyoto”
<<https://tsunnkyt.exblog.jp/24129317/>>
興味ある方は、リンクのページを見てください。
抜粋なので番号歯抜けです。
タイプの違う、優秀な子同士を比較した場合です。
聴覚順次型学習者 視覚、空間型学習者
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5.トライ&エラーで学ぶ 一度にすべての概念を学ぶ
6.簡単なことから難しい内容に、 簡単に複雑な概念を学び、
連続的に変化して行く 簡単なスキルは嫌う
7.論理的思考を持つ よく全体をまとめ上げる力を持つ
15.段階的に作業を進めやすい 直感的に正しい結論に達する
18.反復によって学習を強化する 概念を永久的に学び、繰り返しの学習をしない
19.教えられることによってよく学ぶ 自分なりの問題解決方法を見つける
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登 大遊氏の言う、遵守することが必須となる最も重要な3つの前提知識とは、
こんな感じで対応してますね。
① 努力しないこと = 18番。反復を必要としません。
② 論理的に考えないこと = 7番。論理思考せずとも全体をまとめあげることができる。
③ 頭を使わないこと = 15番。直感で正解を見つけることができる
見事に当てはまってますよね?
おそらくは、かなり極端に、”視覚、空間型学習者”の性質を強く持った方なのだと思います。
極端な特性を持つ人が、自分は能力的に普通(標準)である、やり方の問題だと考えて書くと、タイプの違う人達が読んでも意味が分かりません。
この文章の場合、段階的、反復することで学習を進めるタイプの人には、何を言っているのか理解できないと思います。
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分類は、聴覚、視覚となっているので、考える手段として、言語、画像が標準的なのかもしれません。私は画像で考えたりはしませんが、”言葉で考える人間が存在するとは想像もしてなかった”です。
私にとっては、言葉と頭の中の思考は完全に別のものであり、それを、そのまま思考に使う人が存在するとは思ってなかったのです。
でも、これで、すごく納得しました。
なんで、名詞を暗記するのかと不思議に思っていたのですが、暗記した内容を頭の中で使う人が存在するのですね。
私は、名前だけ憶えて何の意味があるのだろう?と不思議に思ってました。
私は頭の中で言語は使いませんので、名詞は覚えるのが難しく、覚えたところで活用する方法もありません。
分類は、聴覚(言語)と視覚(画像)ですが、”画像で考える”も、私にはまったく当てはまりません。
なので、画像で考える人が居るとも思いませんでしたが、言葉よりは分かりやすく感じます。
例えば、地図を見る時地図を回転させたイメージで進む方向決めたりとかはあります。
でも、言葉で思考は意味が分かりません。
私の場合は、頭の中では抽象化されたもので考えます。
頭の中で言語を使わないので、単語の暗記とかしても意味がありません。
言語を使わない。そもそも名詞が無い。考えるときに名詞は不要ですから。
名詞の抽象化は難しい。
頭の中の思考部分に、言語を使う回路が無い。
頭の中で、それの使い道が無いのでゴミ情報なのです。
ゴミは覚えにくい。わざわざゴミの形や名前なんて憶えませんよね。
概念と関係性で学習していく視覚空間型の人間には、直接的な手段の経験や反復の学習効果があまり無い。頭の中で使っている情報が概念と繋がりだからです。頭の中で使わないものを一生懸命取り込んでも、どうせ使わないゴミ情報なので、あんまり意味が無い。
特に私は、視覚タイプでも無いようで、絵もそのまま扱えません。
多次元の性質が、1次元の言語型と離れているので視覚型の性質の方が近いだけで、私は視覚型ではないと思ってます。
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わかりました。私の場合は視覚ではなく、思考と感情です。
私の場合、繰り返し勉強して覚える内容は、「これをやることに何の意味があるのか? 繰り返しやったけれど無駄だった」であって、やった内容は全く覚えません。
短期間に繰り返すと、繰り返すほどに、麻痺していき、新しい発見は無くなっていきますので、「繰り返してはいけない。忘れた頃にやってみる」が学習方法になるようです。
なので、『努力をしてはいけない』と言う人は、繰り返すことで学習が阻害されていくタイプの人かもしれません。
年に1回くらいやると前回できなかったことが知らぬ間にできるようになっているというのは、よくあることなので、経験上わかっていたのですが、学習対象に対して何らかの感情、前回はこう感じたのに、今回は違って感じるという感情の差分を利用して学習しているようです。
そして、なんでその差が出たのだろうという思考と繋がって行くので、学習自体が思考と感情によるものなようです。
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私の場合は、経験の有無はそれなりに効果ありますが、反復に関しては、ほぼ効果無いです。
手段を直接反復しても、10回やるのと1000回やるので大差無い。その割、寝てても学習は進むのです。
つまり、一般的に言う所の、努力に効果は無い。
やってはじめてわかることは、たくさんあります。だから、経験は、それなりに大事です。
でも、それ自体の経験と言うよりは、何故それをやろうとするのかを知る機会と言う側面の方が強いです。
学校は謎な場所で、なぜ皆文句を言わずに通っているのだろう?と不思議に思っていました。
私にとって授業は受けても特に何のプラスにもなりませんが、周りの皆も同じだろうと思っていたのです。
でも、そんな中でも、時々、貴重な情報が得られることがあります。
たまに、非常ボタン押して怒られる生徒が発生する。
何らかの理由で押したくなってしまう子がいるのだろうと思っていましたが、実は事故が多いのですね。
純粋に押したくて押すよりも、押す真似して遊んでいたら、他の誰かが後ろから体ごと押して、事故で押されてしまったり。
”おお! あれは押そうと思って押してるわけでは無かったりするのか!”と、そういうのは、実際見ないと分かりにくいので勉強になります。
”牛乳拭いた雑巾は、臭い”とか、学校行かないと、あまり経験しない貴重な経験です。
集団行動を学ぶ場としても、貴重です。
ただ、教科書に沿って授業受けるみたいな単純作業の繰り返しみたいなやつは、やっても効果無い。
(教科書読めば済む話のような気がするのです。読んでわからなきゃ、先生の説明聞いてもあまり変わらない気がするのですが、一般的には、何か変わるものなのですかね?)
そんなタイプの人は、”努力はしない方が良い”、”努力は無駄だ”と言う話をすると思います。
実際、効果が無いからです。
それを言うと、だいたい決まって、”やらなきゃ、いつまで経っても、できるようにならない”と言われる訳ですが、はなっからそれが当てはまらない。
やっても無駄だし、やらなくてもできるようになるので、掠りもしないことを、誰にでも共通のことのように当然のように言われても困るのですが、説明しても理解してもらえない。
実際にやって無駄だと証明しても、怒り出すか、努力が足りないと言われるかで、だいたい酷い目に遭います。人に言う前に、自分が相手を理解するための努力をしろよと思います。
私の場合は、何度かやって、できなかったことは、その回数や時間を10倍に増やしても結果は変わりません。
そして、何もしなくても、放置しておけば、ある時できるようになったりします。
放置して1年後にやるとできたりします。
なので、努力の結果できるようになったことが、実感できません。
(純粋に体力だけの問題であれば、反復で結果は出るのですが)
”やらなきゃ、できるようにならない”が、当てはまらない人が存在します。
物心ついたときから、そう言うものなので、どうにもなりません。
ぜんぜん信じてもらえませんが、繰り返しやっても、寝てても学習効果に大差ないような人も存在するのです。
できれば、学習に反復を必要としない(反復は時間の無駄)人が存在することを広めてもらえると、(努力が無駄であることを証明するという)無駄な時間が減らせるのでありがたいです。
珍しい特性を持つ人は、なかなか人に理解してもらえない。
”論理的思考の放棄”は、つまるところ、少数派の学習タイプを持つ人が、自分と人との差を見つけ、”能力ではなく、やり方の差であると考えて発したもの”と考えると納得しやすい……と私は思います。
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学習特性には複数のタイプがあり、大雑把に分けると、反復により順次、段階的に学習するタイプと、反復に効果は無く、概念と関係性で学んでいく2種類に分かれる。
順次処理が得意な人と、いきなり結論を見つけるのが得意な人に分かれます。
後者は、努力はしないことを推奨し、論理的思考なんか辞めちまえという記事を書いたりするかもしれない。
そんな感じで、学習タイプの特徴を考慮しながら読むと、理解しやすいと思います。
日本では、反復で学習しない人が居るということが、あまり知られていません。
”Visual-Spatial Learner”のキーワードで検索かければ、かなりの量の検索結果が引っかかりますので、英語圏ではそれなりメジャーな話だと思うのですが、日本では全くと言って良いほど話を聞きません。
日本はこれだから駄目だとは言いませんが、生まれながらの能力差の扱いに関しては、日本ではタブー視しすぎのように思います。本当の原因が見えにくくなってしまいます。
”反復で学習しない人が存在する”と言う話をすると、凄い勢いで反発を受けることが多いです。
決して、反復が努力になる人たちの努力を否定してるわけでは無いのですが、努力万能説を否定することになるので、それは都合が悪いということなのでしょう。
とはいえ、何の役にも立たない反復学習を、誰にでも効果のある特効薬みたいに押し付けられて困るのですが、そんな場面が多い。
そんなわけで、広まってくれないと大変不自由です。
比率的には少なくても、例えば、100人に1人居れば、日本に125万人くらい居るので、きっかけさえあれば、十分広まると思うのです。
学習タイプに差があり、努力の形が反復ではないタイプの人が居るということが広まるとありがたいです。