婚約破棄をしているらしい
ベッタベタの婚約破棄もの。気楽にお読みください。
1/25加筆修正 ヘルタの爵位が誤っていたのを訂正しました。正しくは「男爵」です。
「私、セルジオ・アルザーティは、クラウディア・ベーレンス伯爵令嬢との婚約を破棄し、ヘルタ・フェ男爵令嬢と新たに婚約をすることをここに宣言する! クラウディア、貴様は次期公妃として、あるまじき数々の行いをヘルタにしてきた! よって貴様の数々の悪事を、今ここで断罪する!」
アルザーティ公爵家によって統治される、アルザーティ公国。領土はそこまで広くないながらも、古くから学問への意欲が高く、様々なレベルの高い研究機関が存在している。それによって周囲の国々との契約を結び、他国から侵略されるようなことがあれば、より軍事力を持つ友好国が代理で戦ってくれるようになっている。他国からも、守るに値すると考えられるほどにアルザーティ公国が生み出す研究品たちは価値があるのだ。
そんなアルザーティ公国には、国民であれば貴族でも平民でも、誰でも入学できる公立学院がある。国内外に名をとどろかせる屈指の名門校である学院には、国外の貴族子弟たちも多く留学という名目で学びに来ている。
その公立学院の、年に一度開催される大規模なパーティの最中、突如としてその大声が響き渡ったのだった。
実のところ、このパーティは学生たちが己が研究成果を発表する場も兼ねているため、パーティには生徒他、国内の研究機関の人間や、他国の有力貴族などもやってきている。そんな、場で、突如として壇上に上がった男子生徒が――しかも次期公爵と称される者が――大声を張り上げたのだから、周りの人間も何事かと壇上を見上げる。
「……何なんだ、突然」
その一人であったシュケルゼンは、眉間に皺を寄せる。
シュケルゼンはアルザーティ公国の人間ではない。半年前より公立学院に留学してきている、他国――ブリーカ王国の第四王子だ。そして今回のパーティに出席している者の中では、最も立場の高い人物の一人である。
何せ今回のパーティではシュケルゼンがこの半年間で発見した「新種の植物とそれを利用した新たな風邪薬」についての発表が、一番大きな発表物なのだ。
研究機関が優秀であり学ぶ意欲の高い生徒が多いといっても、研究はそう簡単に成功するものではない。数多の失敗の上にやっと一つの成功が成り立つというようなものであるから、たとえ年に一度といえど、年によっては特に目新しい発表物がないこともある。
今回のパーティでは、偶然にもシュケルゼン以外に新作の発表を持つものがいなかったため、シュケルゼンが主役に抜擢されたのだ。勿論、「既に発見された、開発された事物をさらに改良させたもの」という類の発表はあるが、多くの招待客を引き寄せるほどのインパクトのあるものは他にはなかったらしい。
目玉となることを打診され、特に断る理由もないのでシュケルゼンはそれを引き受けたのだ。
とまぁ、身分的にも、学院的にも、パーティ的にも、主役であるシュケルゼンを放置して、突如として始まった婚約破棄からあっさりを視線を逸らし、シュケルゼンは壇上の更に奥にいる人物に視線をやった。そこには、アルザーティ公、つまりはこの国の君主であり、学院の名誉学長(実際の運営は学院長がしている)であり、アルザーティ公爵その人であり、今大声を上げたセルジオの実父である貴人が、妻である公妃とともに座している。そんなアルザーティ公と、シュケルゼンは目が合った。
(申し訳ありません)
(ああ、大丈夫ですよ)
と二人は目で会話をした。このぐらいの会話は貴族の嗜みである。
アルザーティ公や、口元を美しい扇で覆い隠している公妃、そして壇上に上ったセルジオのすぐ近くで怒りからか頬を赤く染めているフェリシア・アン・アルザーティ公女――セルジオの実姉だ――の顔を見れば、セルジオが一人で勝手に暴走しているのだと分かる。
とは言え、シュケルゼンの祖国であるブリーカ王国の関係者はシュケルゼンがある程度抑えられるが、そのほかの国の人間はそうではない。他国の人間が多数集まっているパーティで、公子とは言え、一生徒であるセルジオが自分勝手に騒ぎ立てるのは酷い醜聞だろう。
さて。シュケルゼンが冷静にそんなことを考えていると、壇上の騒ぎも進み始めた。
当初は一人で壇上に上っていたセルジオだったが、知らぬ間に四人の子息と一人の子女が増えている。壇上のすぐ近くには名指しされ突如として貶められ始めたセルジオの婚約者であるクラウディア伯爵令嬢が進み出ている。
クラウディアは比較的冷静に、セルジオの暴走を制止しようと声をかけたようだが、馬の耳に念仏となってしまったようだ。しかも口答えされたと(セルジオは)感じたのか、余計に怒った様子で騒ぎ立てている。
「知らないだと!? ふざけるな! ヘルタに嫉妬するあまりに行った様々ないじめを、知らないだと! なんて面の皮が厚いんだ!」
「ですから。いじめなどということを行った事実はございません。それよりもセルジオ様、この場をどういう場だと心得ておいでですか。それにゾーレン様がたも、何故壇上に上がっているのです? その場は研究発表をする生徒と、公爵様が上れる場でございます。今すぐ壇上から……」
「お前のような醜悪な女に指図されるいわれはない。今までは仮にもセルジオの婚約者であったからそれ相応の対応をしてやったが、破棄された今、お前などと会話をするだけでも吐き気がする!」
セルジオの周りにいる四人の子息のうち、一人はゾーレンという名前らしい。さすがのシュケルゼンも全ての生徒の名前を覚えている訳ではないので後ろに控えている侍従の安黒に振り返った。心得たように安黒が囁く。
「ナウマン伯爵家の子息、ゾーレン・ナウマン。学院付属の騎士養成所に通っている人物ですので、王子の覚えがないのもいたし方ないかと」
シュケルゼンはゆっくりと頷いた。
学院には付属で、そのほかの専門職を養成する教育機関も多数ある。その内の一つである騎士養成所は、その名の通り国の軍であったり貴族や研究機関の個人所有の騎士となるために学んでいる生徒が集まっている。学ぶ勉強も異なり身体を鍛える時間も多いため、学院付属の独立した教育機関となっており、当然校舎の位置は全く異なる。シュケルゼンが会ったことがないのも名前に聞き覚えがないのも仕方が無いだろう。
ゾーレンがセルジオを見た。
「セルジオ、いいか?」
「ああ、勿論だ」
慣れた様子で頷くセルジオから、どうやらゾーレンを含む四人の子息たちとは親しい間柄らしい。で、彼らに囲まれている一人の子女は誰なんだ、とシュケルゼンは首をかしげる。どこか怯えた様子でクラウディアを見ているが、クラウディアの方は子女に視線も向けていない。相手にされていないのが分かる。
セルジオが促すように僅かに場所を譲ると、前に進み出た四人の子息はまたまた大声を張り上げた。
「私、ゾーレン・ナウマンは、ヴァネッサ・キルヒナーとの婚約を破棄する!」
ヴァネッサ・キルヒナーはシュケルゼンも知っている。伯爵令嬢で、シュケルゼンが在籍している植物研究科のメンバーでもある。学年が違うものの、顔を合わせれば多少の会話をする程度の仲だ。
「私、エイドリアン・グラブナーは、クララ・デリングとの婚約を破棄する!」
エイドリアン・グラブナーは知っている。子爵家の次男だが、優秀で、現在生徒会執行部のメンバーでもある。子女のほうは「デリング子爵家の長女、クララ。言語学科の生徒です」と安黒から補足が入った。
「私、ジュリアーノ・ボームマイスターは、キンバリー・ベルントとの婚約を破棄する!」
どちらも知らなかったので安黒が「ボームマイスター男爵家長子のジュリアーノ。ゾーレン同様、騎士養成所の生徒です。子女はベルント子爵の三女キンバリー、妖怪学科の生徒です」と説明をいれた。
「私、ハキム・アンドレセンは、ラナ=ティナ・エバーハートとの婚約を破棄する!」
ハキムもエイドリアン同様、生徒会執行部のメンバーだ。アンドレセン家は確か子爵だったか。ラナ=ティナ・エバーハートは確か今年の建築学科の主席である才女だったはず。元は平民だったがあまりの才能から、建築関係で財を築いているエバーハート子爵の養女となった人物だったとシュケルゼンは記憶している。
「貴様たちもクラウディアとともに、ヘルタへの数々の嫌がらせを行ってきた! よって我々の婚約者として相応しくない!」
堂々と宣言する様は良いが、空気が圧倒的に読めていない。現場の状況を冷静に判断し動かなければならない騎士としては不採用だなと心の中でシュケルゼンは思った。
ともかく、突然関係者が増加してしまい、パーティ会場の混沌度は上昇した。もう訳が分からない。シュケルゼンは喉が渇いたので安黒に飲み物を要求した。安黒は速やかにジュースを持ってきた。シュケルゼンの研究発表はまだ済んでいないので、アルコールを飲む訳にはいかないのだ。
壇上の奥では、座しているアルザーティ公が近衛に何かを囁いている。さて、どう治めるつもりなのか。シュケルゼンはとりあえず見守ることにした。
クラウディア同様、突如として名指しされ婚約を破棄された四人の令嬢たちは様々な顔つきで進み出るや壇上にいる婚約者たちに反論をした。
「正気ですか? ゾーレン様。ヘルタ嬢へのいじめなど、私、家名に誓って、いたしておりませんが」
「エイディ、馬鹿なこと言わないで! 私はただ、婚約者のいるような男性になれなれしく接するのは不味いわ、と申し上げただけよ!」
「信じられませんわ、ジュリアーノ様。それほどまでに腑抜けてしまわれたのですか?」
「誤解はなはだしい。そもそもこの婚約は貴方が申しだしてきたものじゃないか、自分が言い出したことすら守れないの?」
「黙れッ! 貴様たちがヘルタを陥れようと様々な工作をしてきたことは、既に明らかとなっている。クラウディアを初めとしたお前たち五人には爵位剥奪、及び司法より沙汰があると思え!」
セルジオの発言に、場が緊張に包まれる。
爵位剥奪というのは貴族からすれば、相当な罰則だ。
研究や勉強を第一としているアルザーティ公国では比較的貴族と平民の壁が薄い。学院は平民であっても学ぶことが可能であるし、才能があればラナ=ティナのように貴族の養子として迎えいれられたりする。実力があれば平民のままであっても国政の要人にまでなることが可能だ。
だが、それでも貴族と平民にははっきりとした違いがある。
貴族には国からも一定のお金が”国に貢献した代金”として支払われている。また、今セルジオは司法といったが、その司法でも貴族と平民では別々の法律が定められている。罰せられ方が全く別なのだ。同じ罪を犯したとしても、罰の与えられ方は変わって来る。特権階級であるのは伊達ではない。
その爵位を剥奪されるということは、今まで持っていた特権を奪い取られるということだ。当然そういった罰も存在するが、それはあくまで司法の手によってその罪が重いと断定されたことによって下される罰。そして司法によって下された罰であるのならば正式な書類が頒布されるはずだが、セルジオは持っていない。つまり、彼は今、私刑を下したということなのだ。
アルザーティ公が立ち上がった。公妃は顔を青ざめさせてイスに座っている。もしかしたら、立てないのかもしれない。フェリシア公女も目に見えて怒っている。立場のある者が、自らの感情に則って私刑を下すなど、信じ難い行動だ。次期公爵家の当主としては、相応しくないの一言に尽きる。
シュケルゼンは凍えるような目で壇上の六人(セルジオを初めとした子息五人と、未だにシュケルゼンは誰だか分からない子女が一人)を見つめたまま安黒に声をかける。
「安黒、あれ、何か妖術でもかけられているのか?」
「いいえ、そういう訳ではないようですが」
「だとすると、本気であの発言をしているのか?」
「そうでしょうね」
「はぁ……父上の時は妖術がかけられていたからまだ情状酌量の余地あり、だったが、これはないな」
シュケルゼンは首を横に振ると、進みだした。周囲の人間がシュケルゼンの行動を感じ取り、道を空ける。さながら海を割った聖人の如く、シュケルゼンは歩みを進めた。
壇上と、五人の令嬢たちがいる付近には人が居ない。なのでそこに進み出てきたシュケルゼンは、当然目立った。
シュケルゼンはその場の生徒たちを見つめた。と、子息たちに守られるようにして立っていた名も知れぬ子女が、突然声を上げた。
「レアキャラのシュケルゼン様だぁ!」
キャッ、と甘えた声を上げる子女に、シュケルゼンは目を険しくさせる。そもそも、貴族同士の会話の際、まず格上の者が格下の者に挨拶をし、話をする。逆は基本的にない。非公式の場であったり、研究所のような仕事場であればありえるが、このパーティのような社交界も兼ねる公式の場において、名も知れぬ――つまりはシュケルゼンが顔と名前を覚えておく必要もないような身分の女が、勝手にシュケルゼンの名を呼び、話しかけるなど、非常識極まりないことなのだ。
それを分かっている令嬢たちは子女の発言に顔色を悪くさせている。彼女たちもこの学院で学んでいる者、学年こそ違うが、当然シュケルゼンが誰であるかなどわかっている。
が、子息たちの方はそうでもないらしい。
「誰だ、貴様」
よりにもよって、その発言をしたのはセルジオだった。セルジオたちの背後にいるアルザーティ公が鬼になった。公妃は部下によって退出されている。父親と同様、フェリシア公女も般若を背負っている。
失礼極まりない一言を黙殺し、シュケルゼンはセルジオたちを見上げると、静かに名乗りを上げた。
「私はブリーカ王国第四王子シュケルゼン。問おう、セルジオ・アルザーティ。一体、どのような心積もりで私の研究発表の場を乱した?」
王国の名を出すと、流石のセルジオも顔色を悪くさせた。ブリーカ王国とアルザーティ公国では圧倒的に立場が違う。王国としても広大な領土と力を持つブリーカの方が上であることなど自明の理だ。
唯一様子が違うのは、あの子女だ。耳障りな黄色い声を上げて壇上から駆け下りるや否や、シュケルゼンに抱きつこうと両腕を伸ばして近寄ってきた。ザァッとその場の空気が凍り、近場の令嬢たちも子息も顔色を青ざめたり白くさせる。
とはいえ、シュケルゼンに抱きつくなど、後ろに付き従っている安黒がさせはしない。音もなくシュケルゼンの前に移動した安黒は、子女の腕を掴んで押さえ込んだ。
「いったぁい、なによあんた、離しなさいよ! シュケルゼン様ぁ、この人なんとかしてください! いた、痛い! 腕を放してよ~!」
「誰だ、貴様」
ジト目で、シュケルゼンはセルジオと同じ発言を子女に投げた。
子女はえぇ? と首を傾げる。
「やだぁ、シュケルゼン様ったら、知ってるでしょぉ? 私のこと。うふふ、いつも視線を向けてくれてたじゃない! 恥ずかしがらなくていいのよぉ」
何を言っているんだろう。シュケルゼンはそう思った。だがこの状況で名乗りもしない女など、どうでもいいか、と考えを変える。
ともかくさっさと問題を起こした一団には去っていただきたい、というのがシュケルゼンの思いだった。彼らを退出させた後に会場に来ている客たちの意識や記憶を塗り替えるぐらいの優秀な発表をしよう、と考えている。アルザーティ公らには留学を受け入れてもらった恩義もあるのだから、少しでも醜聞を小さくする手伝いはしたい。
「話にならないな。ともかく、婚約破棄などと、世迷言を垂れるのはこのような公式の場ではなく、私的な場にしてもらいたいものだ。そうは思わないですか、アルザーティ公」
「――ええ、勿論、同意する。衛兵、この者たちを速やかにこの場から退出させろ。令嬢方には申し訳ないが、ともに来てもらう」
アルザーティ公の発言に、子息たちは「何故です父上!」「お待ちください公爵!」などと騒ぎ声を立てる一方、令嬢たちは静かに礼をして退出しようと動き出す。安黒にひっぱられ、衛兵に渡されようとした子女は未だ空気が読めぬようで、声を上げる。そもそも大声を上げるなど、貴族としてみっともないことこの上ない。シュケルゼンは心中嘆息する。
「待ってよシュケルゼン様! 私、私知ってるのよ。貴方の悩み」
は? とシュケルゼンは意味の分からない女の発言に視線を向けた。悩み? 全く覚えがない。反応をしたシュケルゼンに子女は顔色を輝かせて言葉を続ける。王子の悩み、という単語で周囲の視線も子女とシュケルゼンに注がれた。連行される途中の子息たちも移動途中の令嬢たちも、何事かとこちらを見ている。
発言を許してもいないというのに、女はペラペラと喋りだした。
「私、知ってるわ。貴方が本当は自分の出生を悩んでること。……可哀想に……色々な人たちから陰口を叩かれてきたのよね。半端者、バケモノなんていわれて……、でも大丈夫。私は貴方を愛せるわ。貴方に流れる血がなんだっていうの。もう悩まなくていいの。私は貴方の味方よ、貴方がたとえ、妖怪なんてものの血を引いているとしても――」
その瞬間、シュケルゼンは血が沸騰した。見開かれた彼の瞳は、瞳孔が縦に開いている。
こちらに手を伸ばす女の腕を、安黒が掴んで床に引き倒さなければ、シュケルゼンがその腕を引きちぎっていただろう。女は倒れ、ギャッ! とつぶれた鳥のような声を上げた。押し倒した安黒は、フーッ、フーッと荒い呼吸をしている。
今度こそ、間違いなく、会場中の空気が凍っていた。なんてこと……と呟いた、フェリシア公女の小さな囁きが、やけに大きく響いた。
「それは」
地の底から響くような低音がシュケルゼンの口からこぼれる。ひぃ、と悲鳴を上げたのは誰か。目が、ギラリと輝く。
「ブリーカ王国への。そして、ブリーカ王妃であり。国母であり。我が、母である、九姫への。……ひいては、その親である九尾の狐への、――そして俺への、侮辱だな……?」
見開かれたシュケルゼンの瞳は、人間のものではない。それは彼の母親である九姫から引き継いだ、狐の、つまりは妖怪の眼である。
この世界には、人間の他に、妖怪と呼ばれる種族が存在する。彼らは人間の基準から大きく外れた力生命力寿命を持った生き物だ。
シュケルゼンの母親は、その妖怪――しかも特に力を持つ、「九尾国」の姫だ。それはこの場の全ての人間が承知している事実である。
子女の言い分では、まるで、その血筋をシュケルゼンが疎んでいるようではないか。疎むなど、そんな事実は一切ない。シュケルゼン自身、母を愛しているし、誇りに思っている。王国の国民も、むしろたった三人にまで減っていた王族を子宝でもって再び繁栄させ、また、その多くの知識によって国を富ませた存在として王妃への尊敬は厚く、人気も高い。
そんな存在を、そして、まるで妖怪という種族そのものを。バケモノ、そう、バケモノなどと発言をしたこの女を、どうして許せようか? いや確かに女の発言は、本人ではなく他人が妖怪をバケモノと罵った、という言葉であったが、それを堂々と公の場で言うなど、正気の沙汰ではない。
「衛兵。さっさとその女を連れて行け」
シュケルゼンの言葉に、凍り付いていた衛兵は「ハッ!」と敬礼すると、安黒から女を受け取り大またで会場から姿を消した。子息たちも硬直したまま衛兵に連れ出されていき、シーンとした空気が会場に流れる。沈黙を保っていたシュケルゼンはとても静かに深呼吸を一つすると、会場中の人間に向かって笑顔を向けた。
「さて。一騒ぎがありましたが……私の研究発表をさせていただきましょう」
シュケルゼンの発言に会場の空気が緩み、人が続々と集まってくる。シュケルゼンの背後では侍従たちによって発表内容のボードや発見された新種の植物、そして作られた薬などが運び込まれた。シュケルゼンは笑顔を浮かべ、自らの研究の成果を発表し始めた。
◆
「酷い目にあいましたわ……」
「酷い目にあったな」
シュケルゼンと、アルザーティ公女のフェリシアが、向かい合ってお茶を飲んでいる。周囲には安黒を初めとしたシュケルゼンの侍従もいれば、二人がお茶を楽しんでいる庭の持ち主であるアルザーティ公家のメイドたちがいるが、まるで影のように存在を薄めている。
二人の言う酷い目、とは先日の学院のパーティにおける、フェリシアの弟であるセルジオ――現在は、ただのセルジオ――を筆頭とした五人の元貴族子息たちによる騒ぎのことだ。突如として元子息たちは、それぞれの婚約者である令嬢に婚約破棄をし、さらにはヘルタ――シュケルゼンからすれば名など聞きたくない存在だ――という男爵令嬢をいじめたという冤罪をかけられた上に爵位を剥奪するという私刑を行おうとした。当然、全ては阻止された。アルザーティ家からすればそれだけで十分に醜聞だが、シュケルゼンはその場でこのヘルタという女から、自らに半分流れる血、そして母親の種族である妖怪への差別に等しい言葉を吐かれたのだ。いい気持ちになどなるはずもない。
パーティ自体は、騒ぎを起こした一行が去った後にシュケルゼンがした研究発表と、その素晴らしさに触発されたその後の生徒たちの生き生きとした発表によって無事に終幕した。
その日の午後には、セルジオの廃嫡と爵位返上が決まった。続くように残りの四人の子息も皆廃嫡され縁切りされ爵位を取り上げられ平民に身分を落とされた。ついでに、彼らが血を残すことなど万が一にも起こらないよう、去勢されたそうだ。公爵家からしても、このような騒ぎを起こした男の子供に爵位を与える可能性など残せないのだろう。
ヘルタという元凶ともいえる女はというと、実家の男爵家は当然潰され、爵位も返上され、そのままセルジオたちとともに放り出され……ということはなく、監禁されている。発言が一部過激であったり、支離滅裂であり、危険と判断されたそうだ。まあシュケルゼンにはもうどうでもいいことだが。
さて。
アルザーティ公には子供が二人しかいない。長子であり長女のフェリシア、そして今回廃嫡された長男セルジオの二人だ。
本来セルジオが継ぐ予定だった公爵家だが、セルジオは居なくなってしまった。となれば、フェリシアが婿を取り家を継ぐしかない。
もともと、フェリシアは幼少期からいた婚約者を数年前に亡くし、最初の一年は喪に服し、最近やっと新しい婚約者を探し始めていたところだったので、ある意味で丁度良いとも言える。
コホン、とフェリシアが咳払いをする。シュケルゼンは目線で先を促した。
「事情がだいぶ、変わってしまいましたのですが…………シュケルゼン様は、これからのこと、どう思っていらっしゃるのです?」
フェリシアの言葉にシュケルゼンは一旦カップを置いてから目の前をじっと見つめる。視線を直接受けたフェリシアは、少し恥ずかしげに顔を逸らした。
フェリシアの髪は長い。アルザーティ公国では、未婚の女性は髪を長くし、既婚の女性は肩に触れる程度以下に短くするという風習があるのだ。
シュケルゼンはその髪を一房手に取り、そっと唇を落とした。
「私には、まだまだ知識も実力も足りないでしょう。けれど、それでも許されるというのなら、貴女と結婚し、アルザーティ公を継ぐのは問題ありません。私は第四王子ですからね」
「……そのお言葉を聞けて、どれほどわたくしたちが嬉しいか」
「元々この留学は私と貴女の顔合わせのための場でしたではありませんか。……少々事情が変わってしまいましたが、ブリーカ王国としては是非この婚約、前向きに話を進めるということで合意しています」
フェリシアがほっと息を吐く。
シュケルゼンがアルザーティ公国に留学しにきていたのは、表向きは学院への留学であったが、実のところそれを隠れ蓑とした、フェリシアの新たな婚約相手として、大々的ではなく顔を合わせるためのものだった。堂々と婚約者候補として入国してくれば、周辺国も国民も大騒ぎになる。もし上手く行かなかった時にも余計にあることないこと騒がれるだろう。留学してきただけであれば、シュケルゼンは王子なのだから公爵家に顔を出すのは不自然ではないし、婚約が上手く行かなかった時に帰国しても、ただ留学から戻っただけになれる。
そうした様々な思いが交錯する中、二人の顔合わせは成功し、婚約の話を先に進めようとした矢先に、先の騒ぎが起きた。
当初はシュケルゼンの元にフェリシアが嫁ぐ形にしようとしていたのだが、このような事が起きたため、予定を変更してシュケルゼンがフェリシアの元へと婿入りする形に変わることとなるだろう。
アルザーティ側としては、今回の一件で、婚約を無かったことにされるだろう可能性も高いと踏んでいたのだろうから、シュケルゼンからの言葉にフェリシアは酷くほっとするのも無理はない。
どちらももう貴族としては良い年だ。特に、フェリシアは貴族の結婚適齢期をそろそろ終える年頃。迅速に婚約者を見つけ、そしてスピード婚ではあるが、結婚しなければならない。
微笑みを浮かべるフェリシアを見ながら、シュケルゼンはこの後にアルザーティ公国とブリーカ王国の間でしなければならない様々な取り決めやら婿入りの際の運ばねばならない道具やらなんやらを思い、暫くは休めないなと目を閉じた。
登場人物
■シュケルゼン
ブリーカ王国第四王子。父親は人間、母親は妖怪のハーフ。学院の植物研究科に所属している。二十代前半なので一般的な学院生とは少し年が離れている。
フェリシアへの婿入りが決まったがアルザーティ公という役職には付かないかもしれない。(あまり拘りがない)
■安黒
シュケルゼンの侍従。妖怪。
▲アルザーティ公
公国の君主。セルジオの父。学院の名誉学長も兼ねている。
▲アルザーティ公妃
セルジオの母。腹を痛めて生んだ息子の散々な状況を見せられて気絶しかけた。
▲フェリシア公女
アルザーティ公の第一子、長女。セルジオの姉。このたびシュケルゼンとの婚約が決まった。多分公爵を継ぐのは彼女。女主人爆誕。
▲セルジオ・アルザーティ
アルザーティ公の長男。公爵家を継ぐはずだったが廃嫡された。クラウディアの婚約者だった。ヘルタに惚れている。
▲ヘルタ・フェ
男爵令嬢。所謂乙女ゲームのヒロイン。一推しはシュケルゼンだった。ゲームでのシュケルゼンは他の攻略相手を皆同時攻略していかないと会話すら出来ないレアキャラだったので頑張っていたのだが、あくまでもこの世は現実だったので結局は上手くはいかなかった。
▲クラウディア・ベーレンス
伯爵令嬢。公国では貴族は侯爵からなのでだいぶ上の家。セルジオの婚約者だったが一方的に破棄された。騒ぎの後正式に解消され、迷惑をかけたお詫びとしてアルゼーティ公から新しい婚約者候補を幾人か提示され、隣国の伯爵家に嫁いだ。
▲ゾーレン・ナウマン
伯爵子息。長男。学院付属の騎士養成所に通っている騎士見習い。ヴァネッサの婚約者だった。ヘルタに惚れている。
▲ヴァネッサ・キルヒナー
伯爵令嬢。次女。ゾーレンの婚約者だったが一方的に婚約破棄された。シュケルゼンと同じ学院の植物研究科に在籍している。婚約破棄後は暫く男は勘弁と家族にも宣言した。次女だったこともあり見逃され、正式に研究者として国内の研究所に所属。のちに同じ研究所に所属している平民と結婚した。
▲エイドリアン・グラブナー
子爵子息。次男。生徒会執行部に所属していたが騒ぎの後生徒投票でクビになった。クララの婚約者だった。ヘルタに惚れている。
▲クララ・デリング
子爵令嬢。長女。エイドリアンの婚約者だったが、一方的に破棄された。学院の言語学科に在籍しており複数の言語を操る。その能力を変われ、外交の仕事をしている貴族の後妻に招かれた。義理の子供たちとも仲良くなり幸せに暮らす。
▲ジュリアーノ・ボームマイスター
男爵子息。長男。学院付属の騎士養成所する騎士見習い。キンバリーの婚約者だった。ヘルタに惚れている。
▲キンバリー・ベルント
子爵令嬢。三女。ジュリアーノの婚約者だったが一方的に婚約を破棄される。学院の妖怪学科に在籍している。婚約破棄後、また従兄弟である男爵に嫁ぐ。後にシュケルゼンの婿入りで公国で増加した妖怪と、人間との問題解決に奔走する。
▲ハキム・アンドレセン
子爵子息。長男。生徒会執行部に所属していたが騒ぎのあと生徒投票でクビになった。ラナ=ティナの婚約者だった。ヘルタに惚れている。
▲ラナ=ティナ・エバーハート
子爵令嬢。元は平民だが才能を代われ、エバーハート家の養女となった。義兄が二人いる。学院の建築学科に在籍。主席を取っている。元々養女で無理に結婚する必要が無かったこともあり婚約破棄後は気楽に過ごし、のちに幼馴染の平民と結婚した。
■ブリーカ国王
人間。シュケルゼンの父親。妖怪の妻を迎えた。名前はジークフリード。昔セルジオと似たことをやらかしかけた。
■ブリーカ王妃
妖怪。シュケルゼンの母親。九尾の狐の娘。名前は九姫。夫との間に沢山の王子王女を生んだ。