第143話 強制ワープの城、地下深く
アルバスト・ル・ハイアである。
つい最前まで風魔の小太郎がいた空間に、今は人影の欠片もない。皮肉にも城塞森林公園の巨樹が無様にたおれた姿を晒して横たわっているだけであった。
「消えたな」
私の慨嘆にバックドアが首肯した。
「俺は正直逃げ切れないと思いました。あいつ、何をしても食いついてくるし」
「お前には咒札によるワープがあるではないか」
「見せたら真似されますよ。あいつは光と闇の両方を持ってましたからね。ああいう奴には見せないことが肝心なんです。実際相対してみると宰相派が敗れた原因を分析して出した解答以上の恐ろしさでした。ハロルド枢密院の小姓は…………」
「なぁ」
「はい上役」
「それを言うならもう見せずに済むわけだから、そろそろ結社のポーションをくれないか」
いかに秘密結社の厳しい情報統制とは言え、今のこの情況なら使用も許されるはずだ。するとバックドアが何も言わずに闇収納を開いて小瓶を取り出してみせた。小瓶の中には青みがかった紫の液体が縁まで満たされている。
手足を切られた私を飲みやすいようバックドアが抱え直すと、小瓶を傾けてそのポーションを飲ましてくれた。飲まされると身体中にどろりとした感覚が染み渡り、闇収納から取り出した断たれた四肢をバックドアが元の位置に近づけるだけで、私の傷跡に癒着した。
ポーションのどろりとした感覚が指先から足先まで通って行くようだ。その感覚が広がって完全に身体として馴染むと、魔法で治癒してた時以上にしっくりときた。
今は別の物をつなげたという感覚もない。
付きましたね、とバックドアが言い、頷く私にそのまま話を続けた。
「しかも悪いことに、あの小姓よりもっと上手な存在があのハロルド枢密院にはいる」
「ああ、あいつか。例のもう一人の方だな。国政会議で名を売った主戦力、サマース・キーと言ったか。そいつもガウェインに対抗出来るとしたら、いや、国政会議で活躍した主戦力である以上。我等が今日相手した風魔の小太郎より上なんだろうな。あの風魔の小太郎より…………」
しかし期待したような返事は来なかった。
「なんだ」
「いえ、上役はケルプの生まれじゃないから風魔の小太郎なんて嘘っぱちを信じてしまうのは仕方ないけど、あれ、詐術ですからね」
「そうなのか?」
「風魔なんて土地はケルプにはありやせんぜ」
「だから勇者なんじゃないのか? どこか別の星から連れてこられた」
「わからないですね。ガウェインと互すだけでおかしいんです。ただあいつはダルマーイカ自治領のヒュー・エイオリー。それ以上でもそれ以下でもなくそれだけが事実です」
それと、とバックドアが付け足した。
「上役の云う通り、国政会議という最重要な場で重用されなかったヒューにしてこの強さなのですから、もう一人の従者とは会わないことが肝心です。幸いヒューの方はこの城塞都市の魔法陣の能力でできる最果てまで飛ばしたから大丈夫だとは思いますが、サマース・キーの方はどこにいるかもわかってないです。万一の時にもう一度同じ事をやれといわれても、咒札の方はもう崩れてしまいましたから」
「そうか」
私は頷いた。
「仕方あるまい…………」
その様子をバックドアが窺ってた。私は心にあった引っかかりを捨てた。
「で、後から現れた女は誰だ。知ってるようだったが」
「ライムの王女にして冒険者のメラニー姫ですね」
「あれがか…………。ならば姫がいたなら王剣筆頭もいた可能性があるのだろ?」
「あの場には居ませんでした。しかし居なくてもいずれは会敵したかと」
「なら尚更良しとしよう。王剣筆頭と姫の介入、それからあの風魔の小太郎の三人を同時に相手取らずに済んだのだからな。僥倖だった」
私は立ち上がって手足の感触を確かめた。
「はい。これだけ前がかりにしないと逃げる糸口さえつかめなかったのは誤算でした。上役の相棒でさえ万全を求めましたし、今のうちです。撤退しましょう」
そう言ったバックドアがジッと自分を見ていた。つながった四肢の好不調を見ているわけでもあるまい。その目は雄弁に語っていた。
やるのかやらないのか、と。
おそらく風魔の小太郎が口を酸っぱくして言ってた小言の数々がバックドアの脳裏にもあるのだろう。
だがそれをためらうわけにはいかなかった。何しろやがて訪れる魔王のその配下は、どうしてもライムの属国であるキボッドかサーバに引き受けてもらわなければならなかった。魔族が神の気配を嫌うという秘事を知った以上、魔族を誘導するためにも神の関わる物を誘導先に放置しておくことは出来なかった。
もしこれをしなければ故国に残った僅かな土地が魔族に蹂躙される。
翻って星を形成する根幹でもあるル・ケルプの痕跡は、この王都から消し去らねばならなかったわけで、それが我等の任務でもあった。
「神の御業の使い手にも会いたかったのだがな」
「使えないという話をそのまま鵜呑みにするわけにはいきませんでしたしね」
私は肯いた。
できればル・ケルプの残滓と共にアート王は殺しておきたかったからだ。
だがそれを嫌がってたのが実はオスニエルとホリーであった。この二人の権勢がふたたび日の目を見ることはないだろうというのは誰の目にも明らかであったが、二人はそう思っていないようだった。しかし事実として、先の国政会議でこの二人は宰相派の本当の首魁として評判が地に落ちた。
だがそんな評判も、この地に住まう民衆を魔王の侵攻から食い止めでもすれば復権の足がかりになると結社のお偉方を言いくるめて、二人して国外への一時退去という今回の話に落とし込んだのだ。
ホリーとはその会議の席から犬猿の仲である。
お前の夫にアート王が王冠を載せることはもうないというのに、何をそんなに王から正式に王冠を譲られる日が来ると夢みていられるのだろうか――。
私はちいさく首を振って周りを見渡した。夜の帳がもうすぐそこにある。
「相棒」
「憂き身のことか」
「そうだ。私はここにはもうル・ケルプに関わるような物はないと思うのだが、そなたはどう感じる」
「ここにはもう憂き身しかおらん」
城にも神を感じる物はないということか。
私は右手にそびえ立つ城を眺めた。
「あそこも最早空城か」
「うむ」
ガウェインが重々しく返事した。
「バックドア、これが答えだ」
地上に神を祀る物は欠片もなかった。魔法の集合地として城塞都市の根幹を成していた秘奥の間にもル・ケルプは隠されておらず、その最重要地点も計らずとも王杖が吹っ飛ばしてしまった。
後顧の憂いはもうない。なくなっていた。
「よいな」
「わかりました。後は予定通りに」
私の決断にバックドアも賛意を示すと、闇収納から咒札を取り出して魔力を流しこんだ。だが作動させようとしたはずの咒札が反応しない。
「またかよ。だがこれは」
「ん? どうした」
バックドアが何やら咒札に刻まれた回路の流れを確認してる。
「駄目か。ないな。上役、どうやらワープポイントがずらされたようです」
「なんだと?」
「ワイバーンは? 収納しただろう」
闇収納に手を入れ、たらりとバックドアが汗を流した。
「おい。バックドア」
「抜かれてます。ワイバーンも使われたか居なくなったか、とにかく居ません」
「共用にしたのが徒となったか」
「ヒュー・エイオリーとの戦闘中にもこんなふうに不発になった咒札があったので、それはあいつのせいかと思ってたんですが、こうなってくると」
と言ったバックドアが私に目を合わせて来た。
「あの女か…………」
「はい。ホリー夫人の仕業で間違いないかと」
途端、私は自分の頬に獰猛な笑みが浮かぶのを感じた。
舐めた真似をしてくれる。
「予定変更だ。現時点をもってオスニエル案は破棄する。これより本件は、秘密結社クーの第二案にもどすこととする」
「第二案ですか」
「そうだ。そしてサーバには滅びてもらう」
「ではフィッシュダイスを囲む右翼の部分を王都襲撃に回します。それとホリー夫人が決裁案をねじ込む前に用意してた分がこの城塞都市周辺に多数埋設してあります。回収する暇もなかったのでそのままにしてありましたが、この場合は助かったと言うべきでしょう」
「咒札か」
「はい。各地に埋設してあります」
「うむ、ついてるな。それで我等は逃げ切れるか」
「風魔の小太郎がどれだけ遠くに離れたかはわかりませんが、俺の裏技と短距離ワープを併用したなら、キボッドまでならどうにかなるかな、と」
フェルマータまでは戻れないが、キボッドになら届く、か。
今の状況を考えると――。
サーバから脱出して安全圏になり得るのは今はキボッドしかないだろうなとは私もそう思う。必然的にサーバには色々な意味で引っ被ってもらわなければならないわけだが、そこは脱出手段を潰したホリーの責任ということでいいだろう。今回の件でいずれはサーバの第一王子のオスニエルと、その妻であるホリーともぶつかるのは確定的だ。こちらも異界渡りをしたと思われる人物にこだわってしまったわけだが、そこはテロ行為への捕縛を試みる枢密院配下の者がいたという事でいいだろう。
勇者の可能性もあったと付け足すのも有りかもしれない。証人、証拠品と言うべきか、それにはガウェインもいる。
もっとも当の本人は勇者ではないと頑なに否定をしていたが…………。
私はふと生真面目な風魔の小太郎の顔を思い浮かべていた。その表情がみるみる変貌してゆく。
この第二案は、風魔の小太郎を激怒させるだろうなと、私は思った。
「だがやるしかない」
そうつぶやくと、胸の内につと光が灯ったような気がした。それが何なのかはわからない。だが私は心のままに眼前に広がる空を遠く眺めた。
暗い夜空に生き物の影はない。だがこの空のどこかに高笑いをしているホリーがいるはずだ。
「だいじょうぶ。第二案を採るなら逃げ切れますよ。ヒュー・エイオリーはここに釘付けになりますから」
気遣うバックドアに、私は黙って肯いた。
そこには第二案を採用すれば、城塞都市のどこかに居る神の御業の使い手も死に絶えると暗に指し示していた。それは私もわかっている。
もう一度空を見た。閑とした空間は異物を排除するような厳しさをたたえて雄大な構えを見せていた。そこには生き物の気配は欠片もない。
「異常な勇者にかまけてしまった分は悪いと思うが、ホリー。貴様の愚行は高くつくぞ」
◇
こちら、戸惑いの中にあるヒュー・エイオリーだ。
敵の奸計に落ちて亜空送りとやらを喰らったはずなのだが、どうにも亜空に送られた感触がない。あるのは足が何かを踏みしめたと思ったら真っ暗闇にいる、という視覚だけなわけだったが、ある意味読み通りでもあった。
ただ時間経過も一切感じなかったので納得出来ないところもある。
それは異界に出た感触がなかったことだ。亜空送りとは異界へ送ることであるという不穏さが念頭にあったので、異界渡りを経験したことのあるオレからすれば踏みしめる足場がある時点で疑問符が浮かぶのである。
しかしこの場所は何も見えない。真っ暗闇で五感のうちの一つが潰されている。亜空ではないが厄介なことには変わりなかった。
引っ張られてた感触も不意になくなった。これはメラニーがオレを押し留める必要を感じなくなったからであり、今はメラニーはオレのすぐ隣に立ち上がっているらしい。しかし問題はそこではない。
伝えるためにも言っておくべきだろう
「やっぱ亜空じゃねーじゃねーか」
サマースのように自治領の言葉で物申してみる。
だがそうだな。実際ここにいないがバックドアにはひと言物申したい気持ちはある。
「ちょっと、近くで騒がないでよ」
女子かよ。
とは思ったが口には出さなかった。善意など伝わらなければただの押しつけである。真っ暗闇でよく見えないこともあるしな。
「私がいるのにこんな所に飛ばされるなんて」
「私がいると違うのか」
「違うわよ」
「あー、まぁ確かに宗主国の姫なら歓待するもんだな。属国が魔法陣を使っておいてこんな真っ暗闇な閉鎖空間に間違っても運ぶようなことはしないよな。どうなってんだ全く」
「知らないの? ここ、強制ワープの城よ」
メラニーがキラリとした眼でこちらを見た。
背は低い。オレの口元当たりに頭があるのが、声の聞こえる位置から大体でわかる。
「まぁフォルテの人だし知らないか」
そう独りごちるとライムの姫が何かのカードを取り出して眺め始めた。薄く光ってるそれは、おそらくフォルテでいうところの名刺代わりとなる物だろうか。ライムの身分を保障する特殊加工をされた某かのカードのように見えた。
「ちょっと周囲を歩いてみる」
「どうぞー」
姫はカードをいじっている。
あんたは放っとくと与太話に花を咲かせるから私がしっかりしないととか、まるでオレの何かを知ってるような口振りでおざなりに扱ってくれるが、暗くて恐いとか、ぎゃーぎゃー騒ぎ立てたりしないので、そこらへんは助かっている。
おそらくアンナさんあたりだったら自分の恐怖とリアへの説明を同時にこなすことで、真面目な話が延々とつづいて騒がしいことになってると思う。
まぁ――。
こんな感慨を持ったと後でアンナさんに知られたらおっかないことになるのでこの話はここまでにして、オレはすぐに歩き出した。踏みしめた足元は砂粒のようになってるらしく、キュッキュと音が鳴る。
歩いてみて思ったのだが、ここが閉鎖空間なのは間違いない。声が四方から反響して戻って来るし、姫の灯した光もやけに滑らかな肌合いの岩肌を映し出している。
広さはサーバ城の国政会議を開いた会議室ぐらいの広さがありそうだ。
足元の砂礫は、きっと周囲の岩壁が長い時間をかけて砂となり、こぼれ落ちたのだろう。
耳も澄ます。
音がしないので、明かりを点けたメラニーに襲いかかるような魔物もここにはいないようだった。しかしメラニーの照らす範囲を抜けると極端に暗くなるので、オレは見えれば良いなと眼に魔力を込めてみたら、わずかな明かりでも遠くが見えるようになった。眼を凝らしながら進むと、二十歩ほどで壁に辿りつけ、不思議なものだと訝りつつもオレは注意して壁沿いを進んだ。
亜空送りと聞いた以上、この後も下手なところを踏み抜けば異界渡りのような状況になることも覚悟しつつ歩く。そう歩かざるをえないのだ。
そしてこの役をまさかメラニーにやらすわけにもいくまい。
すると壁に沿って歩く内に、思った通りこの壁が大きな円弧を描いているのがわかった。メラニーとの距離感も多少前後するが一定してる。おまけにどこまでも踏みしめる砂礫があるので、亜空の線は本格的に消えて、洞窟、洞穴、地下空間、あたりがこの場所の本質ではないかと確信をもって踏み進めることが出来た。
「やはり四方は岩で囲まれてる、か」
オレは一周してほぼ最初の位置へと戻って来た。
この状況確認でわかったことは、下へと落ちる心配はなく、砂礫の上にところどころ岩があって時にはぽつんと小さな岩山を形作ったりもしているが、そこにも異常はなく、仮にその岩塊の小山を登っても、とても天井には届きそうにないということだった。
足音が反響して上から落ちてくる音は、天井まで結構な高さがあることをオレに伝えている。感覚で言えば秘奥の間ぐらいの高さはあるのではなかろうか。
となると大体二十四、五メートル。
高いな…………。
メラニーの側にまで戻って来た。ここが洞穴の類でないことはわかった。どこにも通じていない、ただの地下空間であることも。
「一応伝えておく。出口はない」
「ん」
返事は無いわけではない。しかしおざなりだった。
どうすんだ、これ。
そう尋ねたかったのだが、メラニーは手元を忙しく動かしている。
「何をしてるんだ」
「記録よ、記録。それから現在位置もわかってるわ」
「ほう、そのカードでか。どこだ」
「サーバ城よ」
「城?」
「そ。たぶん城の地下深く」
「城の地下深くにこんな空間があるのか」
「フォルテにもあったんじゃないの。罪人を閉じ込めたりとか、昔の拷問部屋であったりとか、あったでしょ。どこの国も同じような物だと思ってたけど。ま、詳しく知りたければ後で別の人に聞くのね」
「うむ」
そう頷いたが、そう言ったオレの至らぬところを尋ねるべき雇い主殿はここにいない。
ハタと気がついた。
ライムの姫を表に連れ出すのがライムの国民なら国民としての義務になるのだろうか。
しかしオレの雇い主は枢密院殿なので枢密院殿の下へ馳せ参じなければならないわけで、オレは居ないとわかりつつも枢密院殿の姿を探す。
「思い出したように人を探すのね」
「いやこれは、参ったな。それで、そなたは慌てふためかないんだな」
「あなたも慌ててないじゃない」
何でここでオレが出てくるのだと思ったが――。
なるほど。オレはポンと手を拍った。
メラニーからすれば、オレが落ち着いてるのに自分だけが騒いでたら、後々「フォルテとライムでこの違い」とか、いろいろと比較されそうな話でもあると、そのことにオレも今更ながらに気づいたのである。そちらが姫ならこちらも一応王子であるので、比較されて国の威信を貶めるような素振りを見せるわけにはいかないのであろう。
「大変だな、そなたは」
眼をキョトンとさせて一瞬だけメラニーがこちらに視線を寄越したが、今度こそ返事はなかった。
それにしてももの悲しい場所だった。まるで水の中にあったようだ。
足元にはサラサラの砂。天井が崩れて四方は岩の塊。メラニーが崩れた天蓋の一角を見上げていた。あそこらへんの岩が崩れてここらは岩山が点在してるのだろうか。
「その、悪かったわよ」
「何がだ」
「邪魔しちゃったみたいで」
オレが小首を傾げると、
「あのモクモクからあんな凄い攻撃が来るとは思いもしなかったわ」
そんなことをメラニーが言った。
「逃げられちゃったし。だから、ごめん」
画面から眼を離して謝りながら、メラニーがオレの腕をぼんやりと見やっていた。照らされるままにオレもそこを見やると、腕まくりしたオレの腕が真っ赤に染まっていた。
そういえばこの腕でガウェインの呪いを叩き落としていたのだな。まぁこういうことにもなろうさ。
それにそれを言って来るならば、メラニーの方こそ血で真っ赤だった。彼女の浴びた血はオレの血である。思えばこの姫は、オレが殺されると思ってあの場からオレを移動させようとしていたのだ。
オレの身体の中心点である腰元に抱きついて、渾身の力で、である。
あれだけの攻撃を目の前にして普通の人がそんなことをするだろうか。
まずは自分の安全を確保するのが普通ではないか。それが常道であるとオレは思うのだ。
だがこの女子はそれをした。それを為したのだ。躊躇いも戸惑いもなく、一国の姫が、あの一瞬に、である。
「ふう」
「な、なによ」
「気にするな。逃げられると逃がしたでは大変な違いになるとは、あいつらと対峙してる間も確かにずっと心の片隅にあった」
「う」
「だがそこまで悪くはない」
印を打ち込んでる。
オレの降霊召喚からは最早逃げられない。
「それに」
「それに、何よ」
中々出来ることではなかった。ましてやワッカイン王から見切りをつけられたポンコツ王子にそなたがそこまで肩入れする必要も当然だが、ない。
オレは指を一本立てた。
「明るい未来をこさえましょう、ライト」
メラニーが唖然とした顔をした。それからオレの呪文がおかしかったのか笑いそうになるが、それを懸命に堪えていた。オレは素人だからな。こうなればいいなと思って魔法を唱えるだけだ。なのでオレは気づかないふりをして、そのまま光源であるライトをふわふわとオレたちの頭上に浮かべた。
魔法はつづく。
「顔を洗うよ、ウォーターボール」
そうしてメラニーのために水の塊を浮かべた。
「な、何やってるの」
「言葉のままだ。顔や手足を洗え。そなた、血を浴びて真っ赤だぞ」
オレが感謝を込めた声音で言うと、変な呪文、と笑いを噛み殺しつつメラニーは自分のほっぺたをペチペチ叩いた。
「言われてみればゴワゴワするわね」
自分の顔が血で固まってるのを確かめ、肌に張りついてるのだからカサカサにもゴワゴワにも感じるのだろうとオレは思った。しかし表現が手慣れた表現でもあった。この女子はいつもこんな感じなのだろうか。そういえばアーサー流を遣ってもいたな。こんな言葉がすらすら出て来る以上ライム本国でのアーサー流の稽古は厳しいのだろうな。
「アンタ、怪我は…………何ともないようね」
「ああ」
「ならアンタも血を落としなさいよ。私だけだと気になるじゃない」
「そうか。ふむ、そういうもんなのか? オレはフォルテでは勝手にやれという感じでほっぽかれてたもんが、ライムでは」
「ライムじゃないわ」
「ん? ライムじゃない?」
「そう。冒険者なら当たり前」
冒険者…………。
「そうなのか」
「そうよ」
メラニーがニマッと笑って顔をウォーターボールの中に飛び込ませた。顔だけに水が当たる感触を堪能してるようで、とても楽しそうにはしゃいでいた。
しかしそうか。これはライムではなく冒険者の流儀なのか。
母さまが亡くなってから数多の時が流れたのでオレもすっかり忘れかけてたが、これは母さまの流儀に近い物だなとオレは思った。
「血がとれた」
メラニーがわざわざ報告して来たので目を移すと、メラニーが顔を入れてたウォーターボールの中に大きな血の皮みたいなものが浮いていた。まるで彼女の頬の形のままのようだ。オレはその血をウォーターボールから排出して砂礫の中に落とした。血糊の皮は粉々に砕けて砂礫のなかに混ざり込んでしまった。
「わ、やるじゃない」
誉められたのでさらに水を新しくして綺麗にし、ボールの大きさももっと大きくして上げた。
「あはははは」
喜び勇んだメラニーがザブンと顔を突っ込んだ。オレは風魔法でつかう背反世界のように水をゆっくりと回してあげたのだが、メラニーはその流れを敏感につかんで肌に当てたい角度を色々と調節し始めた。
この女子は本当に楽しそうに動く女子だなと、そう思った。
というわけでオレも存分に血を落とすことにした。ウォーターボールを身体中に這わせて血糊を存分にこそぎ落としてく。
戦闘中ではアルバストが治そうとする姿を見て、それが敵の前ですることかと醜態にも似た感情を覚えたので、あえてあの女エルフの前では自分自身に回復魔法を施さなかったのだが、今は色々とやってみようかという風に心が動いていた。
前向き、と言う物なのだろうか。
「ん? なぁに」
「いや、オレたちは地下深くに飛ばされてしまったんだよなぁ」
「それがどうしたの」
それがどうしたの、か。
簡単な物だな。
「どうもしないさ」
「そ。なら怪我を治しなさい。冒険者はやれることなら全部やるのよ」
冒険者ではないのだがな。
オレは思うだけで口には出来なかった。だが言うだけ言って、自分の興味あることに夢中になり出したメラニーが次に何をやるのかが気になって、いつの間にかその姿をオレは追いかけていた。彼女は上半身ごとウォーターボールの中に入って衣服や装備に付いた血糊を水流で洗い流しはじめている。
メラニーはリアの二つ年長であっただろうか。
幸せ不幸せを別にしても、強いられた状況でへこたれることなく、この女子も人事を尽くしており、その姿を見ていると地下深くに落とし込まれてしまったオレだったが、不思議と心は軽やかになった。