名前は何ですか
バタバタと騒がしい廊下の音に耳を済ませていた夕月だったが、もしもの時の為にとテーブルの上にあった花瓶を拝借していた。
いや実はこの花瓶凄く高そうで内心ビクビクしているのだが周りに武器になりそうな物はこれぐらいしかなかったのだ。あくまで友好的に済めばいいけど、女の力でできることなんて高が知れている。だったらなりふり構っていられない。
バタン!
そうこうするうちに扉が勢いよく開き4人の男とさっき出て行った人が部屋に入って来た。よく見れば4人の男は夢の中で見た顔と一緒だったから、あれは夢ではなかったということがこれでわかってしまった。
「dkdfkf!、¥&&zldnーkっs」
そのうちの一人が話しかけてきたが言葉はやはり理解できない。けれどどこか心配気なその表情に幾分か落ち着きを取り戻す。花瓶をぎゅっと握りしめたまま夕月は伝わらないとわかっていてもゆっくりと話し始めた。
「すみません。運んで下さったのか突然私が現れたのか判断はつきませんが、誓って悪いことを企んでいる訳ではありません。けれど無断で入り込んでしまったことは事実です。そのことにつきましては深くお詫び申し上げます」
驚かせないようにゆっくりとけれど深く頭を下げれば向こうから布切れの音が聞こえる。更に話し声も聞こえ始め顔を上げるか迷ったがどうせ顔をあげてと言われてもわからないし自分であげた。
話し合いが済んだのか5人のうちの一人がゆっくりと近づいてきた。夕月は窓に背をつける形で対峙してるからもう後ろには進めない。けれど身体は逃げるように下がり顔も強張っている自覚がある。それを向こうも察したのか、ある程度近づいたら適度な距離を保って止まってくれた。そればかりか小さな子供に話しかけるようにしゃがんで私よりも姿勢を低くしてくれたのだ。そして自身の胸に手を当てて一つの言葉を繰り返し言い始めた。
「kxgr」
「え……?」
「kdbFIFA,kxgr」
指をさすというわけではないが胸に手を当てる動作と繰り返されるkxgrの言葉にもしかしたら名前かもしれないと思い夕月も口に出してみることにした。
「くおるつ……?」
「!kxbr」
「く、クォルツ……」
どこか拙い喋り方な気がするが男の人が満足したようににっこり笑うものだからまた少しだけ気が緩んだ。
その後他の3人の男とも同じようなことを繰り返した。先程の中性的な方も教えてくれるのかと思って顔を見たら微笑まれるだけだったけれど服装や佇まいからして身分差があるのかもと考え視線を逸らした。
しかし名前を名乗った4人の男からそのうち意味ありげな視線を送られた。内心首を傾げたがそういえば自分の名前を名乗っていなかったと思い口を開きかけたがそこで思わず考えてしまう。
小説や漫画の見過ぎかもしれないが、名前を使ってその人を縛るとか操るとか……とにかくあまり良くないこともファンタジーな世界にはよくある話だ。それに日本は古来から言葉を大事にしてきた。色、音、日常の何気ないもの、そして名前。言葉は生きるとはよく言ったもので昔は言霊というのが信じられていたらしく名前は特に真名として名付けた親と伴侶以外には伝えないものだったのだそうだ。
そして夕月は普段から本当に信頼している人にしか名前を呼ばせない。自身でも意識して苗字を強調して言うようにしているぐらいだ。それが何故かと言われれば名前を呼ばれるのに酷く抵抗を覚えるからだった。違和感とも言ってもいいかもしれないがとにかく子供の頃から少しずつその違和感は大きくなっているように思う。そして結局夕月は意を決して口を開き“ユエ”と名乗った。夕月から月をとって中国語にするとこの発音になるのだ。
けれども夕月のこの言葉に少しピリッとした空気が部屋に流れた。何故、と思うが言ってしまったものは仕方ない。ただただ相手の様子を伺っていれば次第にその雰囲気は薄れ男達は復唱するように名前を唱え始めた。
「kdj……yue……ユエ」
確認するような視線に小さく頷けば嬉しそうに微笑まれて困ってしまう。けれど一歩前進したかと夕月は幾分か肩の力を抜くのだった。