晩ご飯にはまだ早い
八畳の静かな部屋に響くのはカチコチと時を刻む時計の音と、それと同じくらい無機質なゲーム機の操作音。カチャカチャと普段なら小さすぎて聞き逃す些細な音も、部屋に自分以外誰もいないとなると耳に入ってくるものだ。
———まあ、部屋にというか家に私しかいないんだけどね。
心の中で入れたツッコミは自分自身に向けたもの。そんななんてことない言葉を口に出すのも面倒なくらいには、このゲームにも飽きてきたところだった。
何もすることがないと手持ち無沙汰にしていたところに懐かしいゲームが出てきたからやってみたのだが、そろそろ潮時かもしれない。
私の名前は栗原夕月。昼と夜の間の淡い夕暮れの空の中で、青白いとも黄色ともいえない不思議な月がとても綺麗だったのだと、母が私にこの名前を付けてくれた。
その時の月をまだ赤ん坊だった私が覚えているわけもないが、夕暮れ時を母と歩けば「あの時の月もこんな風に綺麗だったのよ」とよく聞かされたものだ。
まあその母も、今はもうどこにもいないのだけれど。
ゲームのデータをセーブして電源を落とす。何度も繰り返した単純な手順は、もう目で確認しなくとも音だけでわかってしまうから早々にゲーム機から視線を外す。部屋の壁に立てかけられた時計は十七時を超えてしばらく経過していた。思っていたよりもやりこんでいたのだと、ようやく気付いて頭を抱える。 朝食も昼食もろくにとらず、部屋に常備されていたスナック菓子だけで夕方までごろごろしていたと知られたら、きっと美知子さんはカンカンになって怒るだろうということは想像に難くない。
美知子さんというのは私の義母で、正確には叔母にあたる人なんだがその辺の混みあった話は正直思い返すのも面倒だから省略しようと思う。とにかくその美知子さんが生活習慣にはとても厳しい人だということだけわかってくれればそれでいいのだ。
とはいえその美知子さんも旦那さんの茂さんも今はいない。二人とも結婚記念日の旅行に出かけているからこの家には留守を任された私しかいなのだ。
だからこうしてグータラな生活を送っていても怒られる心配はないのだが、何となく帰ってきたらすぐにでもバレそうだなという思いがしてならないのはたぶん気のせいではない。
陽が落ち薄暗くなってきた部屋の中でピカピカと光り存在を主張する携帯を手に取れば件の美知子さんから沢山のメッセージが送られてきていた。画面をスクロールすれば茂さんと楽しそうに映る旅行先からの写真がずらりと並んでいて写真好きの美知子さんらしくそのどれもが上手く撮れていた。
二人に旅行に行ってはどうかと提案したのは私だったから、こうして楽しそうにしている写真を見ると言ってみて良かったと思う。旅行を満喫しているという内容の文章の下に追伸で『昼間っからゴロゴロしてませんか?たまにはゆっくり外を散歩してみなさいね』と添えられてあり苦笑いをするしかない。やはり遠く離れていても美知子さんにはお見通しのようだ。
送られてきた写真には風景だけの写真もいくつかあり、息抜きに家の外へ出て散歩をして欲しいという美知子さんの思いがひしひしと伝わってくるようだった。
突き抜けるような気持のいい青空の写真と、薄いカーテンの隙間から除く夕暮れを見比べてポリポリと頭を掻く。最近陽が落ちるのが早くなってきたから暗くなるのは時間の問題だろう。
ごめん、美知子さん。今からゆっくり散歩してたらただの深夜徘徊になりそうです。
仕方ない、散歩はまた今度にしようと腰を上げて二階の自分の部屋を後にする。
成人してからは一人暮らしをしていたから、こうしてこの家の階段を下りるのも随分久しぶりな気がする。それでもこまめに掃除をしていてくれたらしい私の部屋は家を出る前とほとんど変わっていなくて、少しだけ過ぎた年月に思いを馳せた。
二人を空港まで見送ったすぐ後は、掃除や洗濯、持ち込んだ仕事で結構パタパタと動き回っていたと思ったのだが、人間怠けるのは簡単なもので大学生の頃のような怠惰な生活になってしまっていた。
有意義な休みとは言い難いが、こんなのんびりとした休日も悪くはない。
「でもまさかこんだけ有給が貯まってるとは思わなかったな。連休も普通に仕事入れてたし、貯まって当然と言えば当然なんだろうけど……それにしたって一週間も休みをもらっちゃったけど、皆大丈夫かなー」
こうして長い休暇を貰ったのはいいが、私がこの休みを望んだのかと言われれば答えは否だ。
それがどうしてこんな長期休暇になってしまったのかと問われれば、それらは全て上司や先輩、ひいては後輩からの切なる願いにより叶えられたものだと答えるほかない。
仕事において、かなりストイックなタイプな私は会社ではかなりの問題児だった。
作業をする上で何よりも邪魔になるのはその作業の流れを止められること。それがたとえ自分の休憩だとしても手を止めるのは一つの作業が片付いてからじゃないと嫌なタイプで、自分からはまず休憩をとろうとしない。だから朝一に貰う仕事は午前午後に分けず一日分を一気に貰い、一つ一つの作業の合間にササっと食事やら何やらを済ませる。
自分ではそれが一番効率のいい方法だと思っているし、実際に自分に与えられた仕事で会社に居残ったことは一度もない。けれど周りからしたら休憩なしのノンストップで作業する姿は異常らしく入社当初はかなり心配された。
また会社というものは組織で成り立っているものだから、個々人の仕事がそれぞれ別の誰かの仕事とつながっていることは往々にしてある。それ故に職場になれた二年目あたりから他人様の仕事にまで首を突っ込むようになったところ、周りの人の態度が少しずつ変わっていったのだ。
初めは、「ありがとう、助かるよ!」と言ってくれていた同僚も、「無理しなくていいよ……?」になり、「働きすぎじゃない?こっちは大丈夫だから少し休んでて」と言われ、最終的には「あんたの仕事はもうおしまい!さあ帰れ!さっさと帰れ!今すぐ帰れー!」と言われる有様。
お世話になっている先輩には、
「おまっ!それは別の奴の仕事だろう!?休憩中によその奴の仕事までするんじゃねえ!」
「でも先輩、私まだ」
「でもじゃねえ!休憩も仕事のうちだと思っとけ馬鹿野郎がっ!おい、誰かこいつ飯に連れてってやれ!当分帰ってこさせんなよ!」
とある後輩には、
「栗原先輩、先日は本当に申し訳ありませんでした!」
「ん?ああ、この間の追加資料の作成ね。大丈夫よ、前の案件でお世話になった会社で私も面識あったし、いろいろ役に立つ情報があってよかったわ」
「でもっ!先輩あの時半休とってらしたのに、結局遅くまで一緒に残って作業してもらって……ただでさえ先輩はお忙しいのに、私貴重なお休みを取ってしまったんじゃ」
「いいの、いいの。あれは部長に半ば無理やりねじ込まれた休みだったから逆に助かったわ。私あの後も別件の仕事で会社に泊まってったから、全然気にしなくていいのよ?あ、でもこのことは部長には内緒に」
「ぶ、部長―!!栗原先輩がまた泊まり込みで働いてましたーー!」
「またか~!栗原くん!ちょっとこっちに来なさーい!!あれほど休めと言ったでしょうに~!」
と、なぜか上司にまで働きすぎと小言を言われるような問題児にまで成長してしまったのだ。そしてついには上からも下からも休め休めの大コールで日本の社会人にはあるまじき超休暇を頂いたのが事の次第であります。
……この間実家に持ち込んだ仕事はこっそり会社に送っておこう。うん、そうしよう。なんかまた先輩に怒られそうだけど、うん、悪いことはしてないはず!
まっさらなホワイト企業に、頼りになる先輩や上司、可愛い後輩に恵まれた良い職場であることは間違いない。帰ったら今まで以上に働こうと気合を入れて淹れたてのコーヒーを流し込む。インスタントなのはご愛敬だ。
少し早い夕食を作ろうと飲み切ったコップを流しに置き、蛇口をひねって水を出したところでなんだか無性にトイレに行きたくなってきた。まあトイレには朝起きた時の一回しか行ってなかったし、今コーヒーを飲んだばかりだからトイレに行きたくなるのも頷ける。
スリッパの底をパタパタと鳴らしながら急いでトイレに向かう。焦ってトイレに向かうなんて行儀が悪いが誰も見てないからノーカンだ。
便座に座りほっと一息つき、夕食の献立を考える。
え?トイレでご飯のことを考えるなんて気持ち悪いって?……こういう所があるから恋愛対象には見れないとか言われるのかな。別によくない?効率良くて。
さっぱりしているというかざっくりしているというか、昔から友達以上恋人未満な仲良しは男女問わず沢山いたが残念ながら結婚の目途はたっていない。
『お前は良いやつだが、女としてみるにはちょっといろいろ足りてない』というのが彼らの意見だ。
そのちょっと足りない所を具体的に教えてほしいんだが、とりあえず腹が立ったから頭をひっぱたいておいた。そういう彼らはもう妻子持ちの立派なお父さんだ。
……全然悔しくなんてないけど、もう一発たたいておいた私はきっと悪くない。
「そのうち美知子さんがお見合いでも持ってきそうだけど、その時は……うん、その時考えよう。それよりも、うーん……どうしよっかな。冷凍のハンバーグあったしそれをメインにして、卵のせて、あ、ソースは自分で作らなきゃ。サラダはまあ野菜室見てから決めよう。みそ汁はあおさに木綿豆腐を入れて、ねぎを入れるのもいいかも」
厄介ごとを頭の隅に押しやれば、ポンポンと決まっていくメニューに顔色も次第に明るくなる。そこに昨日通販でやっと届いた人気の“幻の極上プリン”があると思えばトイレでゆっくりしている暇はない。朝から空けていた胃の中を考えれば、口の中が妙に乾いているような気さえしてくる。
「よし!一日だらだらした分、おいしいご飯を作って仕切り直そう!」
立ち上がりしっかりと手を洗って宣言すれば、手洗いの上の鏡にご機嫌な自分の顔が映っていた。化粧もしていないしお世辞にも綺麗とは言えないが、それでもなんだか久しぶりに見た自分のサッパリした表情に満足気に笑みを浮かべた。
まずは美知子さんのエプロンを借りに探しに行くとこから始めようと、トイレの扉に向かって手を伸ばす。広くないトイレの中では扉まで一歩踏み出せば十分だ。
しかし残り僅かな今日を過ごすと信じて疑わない私に、見慣れた茶色のトイレの扉は予想外の場所を連れてきた。
扉を開けた先は、トイレの壁より一段明るい白い壁紙と木目の綺麗な短い廊下が見えるはずなのに、一体いつからシャンデリアを飾る豪華な家になったのだろうか。
美知子さんの趣味とは思えないが、もしかして茂さんの好みだったのだろうか。それなら一昨年にあげた渋い深緑のマフラーはかなり地味で面白みのないプレゼントだったことだろう。
ごめん、茂さん。今年はもうちょっと派手なものを用意するから許してください。
この際二人の趣味については置いといて、我が家のトイレの扉がどこでもドアだったなんて知らなかったなと、踏み出した一歩を地面につけることすら叶わず考えている。
正直冒険ができるほど若いわけではないのでできれば普通に我が家の廊下につながってほしいのだが、この場合もう一度扉を閉めればいいのだろうか。それともあの青いタヌキに大声で助けを求めたらいいのだろうか。
答えなんて出るはずもなく、一瞬遠くなった意識の中で私は倒れないように握ったままのノブに力を込める。
この瞬間が私の人生を大きく変える出来事なのだとしたら、その華麗なる初めの一歩を踏み出す場所が、我が家のトイレだったことに不満はなかったのかと問われれば私はきっとこう答えるだろう。
「とりあえず、用を足したあとでよかったと思います」と。