ウチの主人
冬のある日であった。やることもなく、冷たいフローリングの上に手持無沙汰で座り込んでいる。
じっと見つめたのは、ウチの主人の背中だ。椅子に座った背中はちょっと丸まっている。指を器用に動かしてカタカタと音を立てる。ウチの主人の仕事はお家でする仕事だ。何をしているのかは、難しくて分からない。
でも、カタカタと鳴り続けるリズミカルな音は嫌いではなかった。だから普段は大人しく聞いている。邪魔をしたら主人は嫌がるのもあったので。
だけど、無性に堪えられない時もある。今日もそうだった。私が悪いのではない。冬の寒さが悪いのだ。寒さは孤独さを際立たせる。だから主人に構って欲しかった。
そろりそろりと、忍び足で近づく。あと少し、あと少し……。最後にひょいと一息に距離を詰める。ちょんちょんと、主人を突っついてみた。
「ん~?」
カタカタという音が止み、代わりに主人の間延びした声が上がる。
全く、『ん~?』ではない。私が寂しがっているのが分からないのだろうか? 構って欲しいのサインに決まっているでしょうに!
それなのに、主人は私を一瞥しただけで、またカタカタを再開する。
これだ。ウチの主人ときたらもう、鈍感でいけない。仕事をしていない時なんかは、そっとしておいて欲しい時でも、あちらからベタベタ近づいてくる癖にである。
一度仕事をするとこうなのだから。私と仕事、どっちが大切なのか問い詰めたくなる。
余りに憎らしいので、もっと積極的に妨害することを決める。ぬっと身を乗り出して、主人の片腕に絡みつくようにした。
するとどうだ! カタカタが止まったばかりか、今度は主人を席から立ちあがらせるのに成功したのだ。よし、よし! ついに音を上げたと見える。さあ、私を構え! 少しばかり気恥ずかしいけれど、精一杯甘えて上げようじゃない! 今日ばかりは特別だ。
しかし、これはぬか喜びというものであった。主人が私の後ろについたかと思うと、あれよあれよと主人の仕事机から遠ざけられてしまう。
「ほら、大好きなコタツだよっと。温かいねー、ぬくぬくだねー、羨ましいなあ」
そんなことを言って、私をコタツの中に押し込んでしまう。何て酷い。この仕打ちは流石にあんまりだと思うのだけど。
パチンと音がしたかと思うと、真っ暗なコタツの中にオレンジ色の灯りがともる。
あっ、温かい。ぬくぬくだー。このまま惰眠を貪るのも悪くない気がしてきた。何て策士かしら。どうやら主人の作戦勝ちのようである。おや、す、み……。
しとしと、と雨が降る。ああ、これは夢だ。夢を見ていると分かる夢。あの日の夢だ。
あの日、私はどこにも行き場がなくて、しゃがみこんで震えていたのだ。体を濡らす雨が余りに冷たかった。
どれほどそうしていただろうか? 不意に影が差す。体を打つ雨が遮られた。
「大丈夫?」
その声に、ゆっくりと顔を持ち上げる。見上げた先に、傘をさした人の姿。あの日の主人だ。今よりいくらか幼い顔立ち。ただ、優しげな声は今と変わらない。そう、その優しくて、たおやかな声音は――。
『――、――』
微睡みの向こうから私を呼ぶ声が聞こえる。主人の声だ。あの日と変わらぬ、優しくて、たおやかな声音。私は重たい瞼を持ち上げる。
「あっ、起きた」
主人がコタツの布団をめくり上げて、こちらを覗き込んでいる。くりくりと大きな目だ。私のとは正反対の黒くて長い髪がさらりと流れている。
「シロ、おいで。お仕事は終わったから、一緒に遊びましょう」
主人が手招きしてくる。うずうずと飛びつきたい衝動に駆られるが、先程の恨みもある。私は意地を張ることにした。私は安い女じゃないのよ――まるでそう主張するように、そっぽを向いて見せる。
「あれ~? ご機嫌ななめかな? 今は構って欲しくないのかしら?」
主人がどこかしょんぼりした声を出すと、めくり上げたコタツの布団を下ろしてしまいそうになる。
あー、もう! どうして主人はそう素直なのだ。駆け引きの何たるかを知らない。もう少しこう、心の機微というものを学んで頂きたいもの。
私は慌ててコタツから這い出すと、主人の胸元に飛びつく。主人は抱きとめると、ぎゅっと抱き締めてくれた。温かい。正直に白状すれば……コタツの温かさも好きだけれど、それよりずっと主人の温かさの方が大好きなのだ。
そう、あの日。寒さに震える私を抱きしめてくれた、この温かさが。
はしたないことだけど、余りの心地良さに私は、ゴロニャンと喉を鳴らしてしまったのでした。