第八話・帰還
朝ご飯は昨日のあまったブラックカレーだった。一晩置くとまずくなるカレーとは、なかなか新鮮であった。
そして朝九時頃、舞がまた「あおぞら」にやってきた。いよいよ授業が始まる。
「あれ、でも僕は今日何も持ってきてませんよ」
ラレルは昨日、手ぶらでここに来たのだ。
「ま、いいじゃない。勉強道具はここにたくさんあるからさ」
「時間割とかあるんですか?」
「ないよー」
人数が少ないので各個人が自分のしたい勉強をするスタイルとなっている。教室は何故か和室で、六畳間。人が増えれば繋がっている隣の部屋も使う。舞はさっそくドリルをカバンから取り出したが、ラレルはどうしていいかわからず周りを見回した。
「殊音は何をやっているの?」
ラレルは隣に座っている殊音の様子を見た。大きな問題集とノートを開いて、赤ペンを持ち丸つけをしている……。
「何これ?」
「宿題」
殊音は手を休めずに答えた。
「誰の?」
「ナルが働いてる塾の。忙しいからって私に答え合わせさせてるの」
「そうか。大変なんだなあ」
座っている殊音の隣を見ると、何冊もノートが積まれていた。かなりの分量があるようだ。鳴や殊音も大変だが、これをやらされる塾の生徒も大変だろう。
「でも、小学生が丸つけしていいの?」
「どうかな。ナルは補習プリントも私に作らせているんだよ」
「すごいねー。殊音は頭良いんだ」
「そんなことは……」
殊音が丸つけをしている算数の宿題ノートを見ると、間違った箇所には答えを詳細に書いている。鳴一人ではこのようなことはできないだろう。テキストについている答えは難解なので、わかりやすいものを作るのも殊音の仕事だそうだ。
「ラレルくん、舞ちゃんに勉強を教えてあげてくれないかな?」
舞の勉強を見ていた鳴が、顔を覗かせてきた。
「僕は全然勉強できないですよ?」
しかし、舞が見ている問題集は二年生用のかけ算のドリルであった。
「舞は九九も全部覚えてないの」
横から殊音が言った。
五年生になっても九九を覚えていない……。それはどういうことだろうとラレルは考えた。そして彼の得た結論は
「そうか。舞ちゃんは帰国子女なんだね」
帰国子女なら九九を知らないのも納得だ。
「キコクシジョって何?」
舞が顔あげて、ラレルを見た。
「外国に住んでいた人のことだよ」
「私、前は父島で暮らしていたの!」
「やっぱり帰国子女なんだね! 日本の生活にはもう慣れた?」
「父島は日本じゃ……」
殊音がそう言ったが、ラレルが返した。
「違うよー、チチ島なんていやらしい名前が日本語のはずないぜ。乳島が日本ならエロマンガ島だって日本だよ」
「何そのむちゃくちゃな理屈!?」
「エロマンガ島ってどこの国だっけ?」
鳴がまた首を突っ込んで来た。
「ブラジルの島だよ。エロマンガってポルトガル語で『味噌カツ』って意味なんだ」
「チチ島は?」
「チチ島はドイツの人工島だろ。あの国は日本と違って島が少ないから、リゾート地としての島が人気なんだ。ちなみにチチっていうのはドイツ語でおっぱいのことさ」
「日本語と同じじゃない!」
「めずらしいことじゃないよ。人間の発音は限られてるけど各言語の単語は何十万とあるからね。同じ音で同じ意味の単語もあるんだ」
「私ってドイツ育ちだったんだ」
「舞はドイツ語なんて知らないでしょー」
「知ってるよ。バームクーヘン」
「え!? 本当に帰国子女だったの?」
「ネルフ、ゼーレ」
「舞がドイツ語しゃべってる!」
ラレルは驚いた。冗談で言ったつもりなのに、舞が本当に帰国子女だったとは……!
「この人たち悪ノリしすぎ……。そんなのエ○ァファンなら誰だって知ってるよ」
「じゃあ殊音もドイツ語いってみてよ」
「んーと、ATフィールド」
「それは英語だよ」
「……」
こうしてラレルたちは楽しくドイツ語の勉強をした。
「他の子は来ないんですか?」
11時半になっても、ここにやってきた生徒は舞だけだった。舞は結局まだ六の段も覚えられていないようである。
「うーん、みんな気まぐれだからねー。そろそろにお昼にするかあ」
「……まだカレーあんの?」
殊音が静かに聞いた。
「あと一杯分しかないよ」
「じゃあそれはあんたが食べてね」
「そんなああああ!」
ラレルはそろそろ家に戻ろうと思った。生活が大変そうなのに三食食べさせてもらうわけにはいかないだろう。
「僕はうちに帰って食べてきます」
「そう?」
正直家には帰りたくない。ここはラレルにとって、優しい女の子に囲まれる天国なのだから。
「ご飯ご飯ー」
舞は自分の弁当を持って、リビングのテーブルに着いていた。殊音も立ち上がった。
「私は外で食料を調達してくるよ」
「調達……!? 」
まさか残飯を漁って食べているのだろうか。そこまで追い詰められていたとは。
「野草や山菜をとってくるの。食べるものがなくてね」
「そうか。僕はてっきり生ゴミを漁るのかと思ってたよ」
「それなら朝か夜の方が良いでしょ」
「……」
「ご飯はまだあるからオニギリ食べていきなよ」
「私のお弁当わけてあげる」
「ありがとう」
鳴と舞は殊音におにぎりとウインナーをわけてあげた。殊音はモヒモヒと飯を食べる。真剣な顔をして食べているのが、可愛らしかった。
「ラレルくんも殊音と一緒にいったら? 二人でいったら楽しいと思うぞ」
鳴がカレーを皿に盛りながらいった。
「え? いいの?」
「私は構わないけれど」
ラレルにとって、殊音と一緒にいられることは嬉しかった。
「じゃあ、ラレルくんが戻ってきたらいきましょうね」
「ラレルの家からの方が近いから私がいくよ」
「うん、じゃあ家で待ってる」
ラレルが家に帰ると、母が出迎えた。
「おめでとうラレル! ついに女の人と一晩過ごせたね!」
「僕は何もしてませんよ」
「緊張してたたなかったの?」
ラレルはこの親は完全にだめだと心底思った。
ラレルは着替えた後、昼食のカップラーメンを食べ、殊音が来る1時まで、自動でダウンロードしていたエロ動画をチェックしていた。こうしていると、さっきまで美少女と一緒に勉強していたことが夢のようだ。今は以前と同じように、他人の交尾を見て悶々するだけの悲しい人間である。もうすぐ殊音が家に来る。彼女がそういった。しかし、パソコンの前に座っていると、ひきこもりだったときを思い出す。本当に彼女は来てくれるのだろうか?
ピンポン
動画の内容をチェックしているとムラムラしてきて、パンツから膨れ上がったちんちんをとりだしたとき、殊音が来た。
殊音は自転車に乗って来ていた。
「ラレル、自転車は?」
「乗れない……」
二人は一瞬沈黙した。
「そう。今度一緒に練習しようか」
ラレルは恥ずかしくて何も言えなかった。結局殊音は自転車をラレルの家に置いておくことにした。
「ところで、どこの山にいくの?」
「川の向こうにあるあれ」
「電車だと二駅先か。遠いね」
「歩いていける距離だよ」
ラレルの住んでいる街は都心まで電車で二十分でいけるが、隣の市は山や雑木林がたくさんあり、自然が豊かな地域だ。
「川原にも食べられる草があるよ」
二人は川を目指して歩き出した。
殊音の横顔を見ていると楽しくなってくる。やっぱり夢ではないんだ。この子は、俺と一緒にいてくれる。
二人が住宅街を通り抜けると、高架橋の下にある商店街に出た。
「このあたりのお店の人はよく食べ物をわけてくれるよ」
引きこもりがちのラレルには久しぶりに来たように思えた。
「ここはなんだかいやだなあ」
「どうして?」
「何かいやな予感がする」
突然ラレルの背中に硬いものがあたり、冷たくなった。
「何!?」
さらに何かが飛来してくる。殊音はそれを片手でキャッチした。
「卵!」
「うわあああ」
ラレルがその場から逃げ出す。殊音も追うように走り出すが、卵を投げてくる者を見つけようと振り向きながら走る。
木造でやや古臭い居酒屋、コンビニ、八百屋、肉屋、食堂などが並ぶ商店街。買い物に来ている主婦やニートっぽい青年は散見されるが、卵を持っている人間はいないし、不審な人物もいない。
殊音は犯人を見つけられず、さらに2つ、3つ、4つ、の卵が飛んできた。
「逃げて!」
それらはラレルたちには当たらず、コンクリートの地面に落ちて割れた。
ラレルと殊音は高架下の柱に身を隠し、辺りを見回した。
「あ、あいつらだ!」
殊音にとって、二人の見覚えのある少年がいた。一人は昨日ラレルをリンチしていた小島少年だ。
「なんだ? 俺達が何したっていうんだ?」
「卵投げつけてきたでしょ」
「俺達がやったっていう証拠がどこにあるんだ!」
「なにー!?」
そのとき、ラレルの背後にまた何かがあたった。
「向こうにも仲間がいる!」
「おお? 誰だ卵なんて投げつけちゃったやつは! まったく良い奴だな!」
小島達がゲラゲラ笑いだした。殊音とラレルが卵が飛んできた方向を見れば、今度は逆から卵が飛んできた。とっさに柱に隠れたので当たらなかったが。小島達が投げたに違いない。
「なんでこんなイヤがらせされるの? 私が仲間を病院送りにしたから?」
「うるせえ!」
おそらく佐藤のことよりも、自分が女の子と一緒にいるのが気にくわないのだろう、とラレルは思っているが口には出さない。
「ていうか小学生でしょあんたら! 授業はどうしたの!?」
「それはてめーらもだろうが! お前達がデートしてる最中に教室で糞親父どものつまんねえ話なんか聞いてられるかよ!」
小島がそう叫ぶと、別の方向からさらに卵が飛んできた。それらは外れたが、結局ラレルと殊音は逃げ惑うことになる。
「誰か助けて!」
しかし、やはり街の人は知らん顔で通り過ぎていく。例によって、クスクス笑いながら道をゆく人もいる。この街にラレルの味方などいないのだ……
ところが
「おいおい君達、やめたまえ」
深緑色の大きなエプロンをかけた一人の中年の男が、少年達に声をかけた。
「卵屋のおじさん!」
この商店街にある、卵専門店の店主だ。殊音がラレルに説明した。
「この人は良い人だよ。たまに店のあまり物をわけてくれるんだ」
ラレルはその男の顔を見た。悪寒が走った。
――見える……! 未来がっ……!!
「助けておじさん!」
殊音はその男にかけよった。ラレルはその結末が分かっていたが、彼女を止めることができなかった。
男は殊音ではなく、小島の方へ歩いていき、声をかけた。
「食べ物を粗末にしちゃいけないよ。投げるならこの賞味期限が1ヶ月過ぎた腐った卵にしなさい」
「これはこれは親切にありがとうございます」
小島がその男から卵を二個受け取った。
「え……」
殊音は何が起こったのかわからない、といった様子だ。
「一体どういうつもり!?」
しかし、ラレルには分かる。殊音にとって、この人は卵を分けてくれる親切なおじさんだったのだろう。しかし、この井締ラレルは実に数多くの親切、良い人、できた人間と言われた人たちから酷い中傷、暴行を受け続けてきた。あるときは人気者の教師、あるときはみんなに優しいおまわりさん、あるときは教会の神父など……。もちろん二条恵理香も例外ではない。
みな、ラレルの顔を見ればまずほとんどの人が激しい憎悪を抱き、凶悪な人間になってしまう。この殊音という少女、そしてあおぞらにいた人たちこそ特殊なのだ。
そう、夢の世界の住人――
「卵屋さんどうして!」
「殊音……」
井締ラレル。絶対的に醜い顔を持つ男。誰もに嫌悪される定めを持った男。彼の顔を見たものは、たとえ良心に溢れる聖職者であっても激しい嫌悪を抱き、彼を突き飛ばすであろうと言われている。
「ぶひひ。さあこれでもくらええ」
小島達は開きなおってふりかぶり、渡された腐った卵を投げつけてきた。二人はあわてて再び高架橋の柱の陰に隠れた。
「ラレルはそこに隠れてて」
殊音は低い声で言い、柱の側にある、大きなゴミ箱を指差した。
「え、でも、ちょ、これって……」
「いいから!」
殊音はラレルを無理矢理ごみ箱の中に押し込んだ。
「ぶじゃああああああああああああああああ!!」