第三話・女の子
「いやあ、実に素晴らしいところにきた」
湯につかりながら、ラレルは言った。なかなか広い。シャワーが3つ並んでいることからも明らかに一人用ではない風呂場だ。湯船も三人か四人一緒に入れそうである。
ただ、大きさのわりには入っている湯の量は少なかった。小学生のラレルとっては、特に問題はないが。
「ここで暮らしてるっていってたな、殊音ちゃんは。でも、住んでるのは殊音ちゃんと先生だけなのかな? 俺も一緒に住み込めたら……。うふふ」
ラレルのスケベな妄想は留まることを知らなかった。それでも鼻血が出ることはない。血は下半身のウインナーへぐんぐん集まってゆくので。
「だけどここでするわけにはいかないな。そろそろ上がるか」
一方、殊音たちはキッチンで料理の支度をしていた。
「今日はラレルくんが来るから豪勢にしようと思ってたの」
「何作るの?」
「カレーライス」
「まあ、うちじゃそれが限界でしょうね」
殊音は溜め息をついた。実はここ「あおぞら」の経営状態はかなり悪いのだ。
「ちゃんと肉も入れるよ! 豚肉百g、買ってきたから」
「一人30gかあ」
ここでラレルが風呂から上がり、キッチンにやってきた。ラレルが何をするまでもなく、鳴は元気に呼び掛けた。
「おお、ラレルくん! 今日は晩御飯を一緒に食べていってよ。ごちそうするんだよ!」
「え、あ、はい……」
「量はそんなにないけど、もし良かったら」
殊音も小さい声でラレルを夕飯に誘った。
「そうだねー。肉は結構あるんだけど、ちょっと米が少ないかなあ」
そう言いながら鳴は炊飯器を開けた。中には何もなかった。
「何もないってことはないさ。ここについてるご飯粒を集めるとだねー」
「ねえナル、それは一般的になにもないっていうのよ」
この会話から、ラレルは彼女達の経済状況を察することができた。
「あの、別に無理していただかなくても……」
「えー! せっかく食べていってよ、お願いだから」
「そんなこといったってほとんど食べるものないじゃない。しょうがないよ」
殊音が鳴をなだめ始めた。やだ、やだ、と駄々をこねるのは鳴。どっちが子供かわからない。結局ラレルはご馳走になることにし、米はラレルの家から持ってくることを提案した。二人ともお腹が空いているせいか、特に遠慮はしなかった。
さきほど来た道を戻るラレルと殊音。空は夕暮れどきの色になりかけている。ラレルは橙に染まっていく殊音のツインテールを気に入っていた。
「ごめんね。こっちが奢って貰うみたいで」
「いや、うちは田舎からたくさん米が送られてくるんで余ってるんだよ。貰ってくれるのは嬉しいよ」
「そうなの。ありがとう」
二人は歩きながら談笑していた。生まれてこのかた友人がいなかったラレルにとって、それはほとんど未知の体験だった。それでもエロゲに学んだ知識を駆使し、殊音と会話し続けることに成功している。でもそれは殊音が自分に合わせてくれているからだと感じた。
どうしてこんなにも、強く、優しく、しっかりした少女が学校に通わないのか? それは本人に聞くことはできない。しかし、そのアニメチックな金髪ツインテールからしても、殊音は集団と相容れない個性を持っているのだろう、とラレルは推測した。
二人が出会ったコンビニまで戻ってくると、ラレルはまた、見覚えのある人物を発見した。
「ちょっと待って! やっぱり周り道していこうよ」
「あ、またあいつらか」
殊音も無駄な争いを避けたかったようで、その足を止めた。
二人は回れ右をしたが、会話の内容が気になって、曲がり角で留まった。コンビニの前のいじめっ子たちは、一人を除くさっきのメンバーに加え、バイクに乗った男女がいた。話し声は大きかったが、それでも聞き取り難い。話しているのは主にバイク乗った女の子だ。運転を担当する前の男は終始黙っていた。彼等はだいたい次のようなことを言っていた。
「こんなとこにコンビニあったのかよ」
「ここでそいつに襲われたんだけど、」
「キモブタ井締の奴がヤクルトを吹き出しやがったらよ、そいつがいきなり現れて佐藤が蹴られて……」
(どうもラレルと殊音が悪者にされているようだ。しかしいつものこと。バイクの女の子が何か問いつめている)
「で、そいつはどこだよ?」
「いや、それが俺らやられた佐藤を見てたから、どこにいったかわからなくて」
「ああ!? てめえ何しに来たんだ!? その女シメに来たんだろうが!」
女の子はバイクから飛び降りてその少年を殴りつけた。彼は吹き飛ぶように倒れた。
「何あれ。乱暴な女っていやだなあ。あいつもラレルの知り合い?」
殊音がつぶやく。ラレルはその顔を渋い表情でじっと見つめた。殊音が不思議そうに振り返ると、ラレルは口を開いた。
「うん……。あの子には特に嫌われてて……」
彼女の名前は「二条恵理香」ラレルにとって特に辛い記憶がある少女だ。
恵里佳は大企業の社長の娘として生まれ(何の会社かラレルは知らない)、もともとストレートの黒髪で、長いスカートに地味な色の服装をしていた子だ。
また彼女は勉強もスポーツもクラスで一番だったし、いつも清らかで優しそうな笑みをたたえていた。
そんな恵理香と、五年生になってクラスが一緒になったラレルは、清楚可憐な彼女に惚れてしまった。
ラレルは学校にいる間、終始いやらしい目付きで恵理香を眺めていたため、その思いはいじめっ子の佐藤たちに悟られてしまう。佐藤はこのことをクラス中、学校中に言いふらした。ラレルと恵理香はその関係を冷やかされることになった。
そして数ヵ月前、ついにラレルを騙った偽のラブレターを恵理香の机に入れる者が現れたのだ。
「拝啓、愛する恵理香さんへ。僕、イジメラレルは貴方のことを思うとペ○スの膨張が止まりません……」
などと幼稚で下劣な文章で書かれたそれは、少女恵理香の心を深く傷つけた。彼女は目に涙を浮かべて学校から走り去り、家に着くと熱を出して寝込んでしまったのだ。
彼女が復帰するまでの間、ラレルは「お嬢様、二条恵理香」につきまとう「ストーカー」として、断罪と言う名の過酷ないじめを散々に受けていた。
ある日は水の入ったバケツに何分も顔を押しつけられ、ある日は屋上からロープで逆さ吊りにされた。完全に生命の危機に及ぶものだった。
恵理香は一週間ほどで学校に復帰した。髪を薄茶に染め、両耳に高そうなピアスをつけ、マニキュアを塗り、胸を露出させる服を着る、などという以前とは正反対の格好で。
恐らく、地味な格好をするとキモい男に好かれてしまう、と誰かから聞いたのだろう。
(ラレル自身、それは正解だと思っている)
しかし、今どきそんな小学生はめずらしくない、ということか、恵理香に対して
「ラレルとの仲はいかほどか」とからかう男子は後をたたなかった。女子からも、からかわれることもあった。この時点で彼女はまだ、いじめられっ子だったのだ。
ラレルが恵理香の恐るべき策を見たのはその後だった。
ある日の放課後、皆が恵理香に注意がいっていたのか、ラレルはめずらしく誰にも邪魔されずに、図工室で木彫りの銀様を彫っていた。
そのとき、ラレルと彼女をからかっていた男子の中心、そして殊音に内臓を破壊された彼、佐藤が、恵理香に連れられて体育館裏の倉庫に入っていくのをラレルは窓から見たのである。
その日から佐藤がラレルと恵理香の仲についてからかうことはなくなった。すぐに他の児童も、そのことには言及しなくなった。また彼女は多くの男子児童と親密になっていった。
一体倉庫の中で何が行われていたのか? ラレルの充血した生殖器は本能的に彼女の行動を知ったに違いない。しばらく彼のオカズはエロゲでも銀様でもなく、恵理香だった。
身体と金を駆使して、徐々に学校の中心人物になった恵理香は、自分を苦しめたラレルを学校総動員でいじめるように指揮した。彼女自身の性格も気に入らないものは殴り飛ばすような凶暴性を帯びてきた。
担任も校長も恵理香の味方に回り、ラレルはいつも難癖をつけられて教室の後ろに立たされテストは無理矢理0点にされた。
同じようなことは以前にもあったのだが、今回はラレルはあっさりと耐えるのを辞めた。
こうして5年以上いじめに耐えたラレルはついに不登校の道を選んだのだ。
自分がきっかけとなって、小学生の間に性が蔓延したことに、アニメやエロゲなどの幻想の世界に生きる自分は耐えきれなかったのかも知れない。コンビニの前、水平に見ればパンツが見えそうな黒いスカートをはいている恵理香を見て、ラレルはそう思い直した。
「こんな情けなくて、肉体的なこと、殊音ちゃんに言えるはずないだろ」
一方で殊音は恵理香たちの会話を随分熱心に聞いていた。
「どうも、私のこと探してるみたい」
「関わらないほうが良いよ」
「あいつらいつもここにいるの?」
「ここというか、俺が外に出るとしょっちゅうクラスの誰かに会うんだ。運が悪いのかな。あの子はあんまり見ないけど」
「それは、困るねえ。私がいって話をつけてくる!」
「だめ! 君まで標的にされるよ!」
「もうされてるでしょ!」
ラレルは殊音の腕をぎゅっと掴んで彼女を止めようとした。しかしきつく睨まれて手を離してしまった。初めて女の子の腕を触った気がする。殊音は少し立ち止まったが、ついに恵理香たちの方へ歩いていってしまった。
「それで、どんなやつだったのそいつは!?」
倒れた小島少年は襟を乱暴に掴まれ尋問されている。
「金髪で、ツインテールで、日曜の朝のアニメに出てきそうな髪型の女だよ!」
その言葉を聞いて、恵理香は表情を緩め、手を離した。
「……そいつに蹴られて、佐藤は怪我したの?」
「そうだよ!」
一瞬沈黙する。
「もしかして知ってる?」
周りの少年が恵理香に聞いた。
「ん……。そういうやつ知ってるけど、私が前住んでたとこにいたやつだし」
この言葉を聞いて殊音の足が止まった。恵理香たちのすぐそばまで来たが、まだ誰も気づいていない。
突然、コンビニから男の子が出てきて叫んだ。
「おいおめーら! 新しいからあげくんができだぞ!」
恵理香たちは品のない歓声をあげてコンビニの中に入って行ってしまった。
「いこうか」
ラレルは殊音の後ろにまで近付いき、声をかけた。
「うん。でも……」
二人は見つからないようにコンビニの前を走って通り抜けた。そのままラレルの家まで何事も起こらず来ることができた。
「ここがラレルのうち? 大きいねえ」
「別に普通だよ」
「そうなんだ」
よくある二階建ての家だが、数年前にリフォームしたのでなかなか新しく見える。ラレルが殊音を家の中に案内すると、母が仰天の顔で出迎えた。
「まあまあラレル! その子いくらで買ったの?」
「なんて失礼なことを言うんだ! この子は僕の……」
そこまで言ってラレルは困った顔をして殊音の方を向いたので、殊音が答えた。
「友達です」
「あらあらラレル! お母さんに見栄はってレンタル友達なんか借りてきちゃったのね! どうせお金払うなら遠慮なく風俗にいってきていいのよ! あんたは一生素人童貞に決まっているんだから!」
殊音の顔がひきつっているのがわかる。
「そんな金持ってないの知ってるだろ。フリースクールでできた友達だよ。女の子の前で下ネタいうのやめてくれ」
「女の子を気遣うのはちょっとでも女の子に会話して貰える男がすることなのよ。ラレルはそんなこと気にしなくていいの」
「私は!」
殊音は叫んでいた。この母親が冗談でこんなことを言っているわけではないと、気づいてしまったようだ。
「ただの友達です……」
「ああ、ありがとう。貴方のお家も色々あるだろうけど、気をしっかりもって頑張るのよ! いつか報われるときがくるから!」
そういいながらラレルの母は財布から一万円札を取り出した。一歩足を引いた殊音の目には最早、絶望を通り越して恐怖の色が浮かんでいた。
「そうじゃなくて……」
「ご飯向こうでご馳走になるから、うちからも米を持ってこようと思ってさ」
「ああ、はいはい。待ってて」
母はパタパタと廊下をかけていった。
「ごめん、おかしな親で」
「あやまらなくても良いよ」
殊音は下を向いていた。ラレルがどう声をかけて言いか迷っているうちに、母が米袋を持って戻ってきた。
「え!?」
予想以上に持ってこられたので殊音は驚いているようだった。
「足りないかしら」
「いいえ! こんなに貰っちゃ悪いです」
「気にしなくていいのよ! ラレルの初めてのお友達なんだから!」
「あっ……」
「プロとはいえね」
二人は一瞬喜んだが、ぬか喜びだった。母にはどうしても殊音がレンタル友達に見えるらしい。
「違います……」
殊音は不満そうだったが、ラレルは母の思い込みを正すことの難しさを散々に思い知らされていたので、殊音を引っ張るように家を出た。
古い貸家が目立つ住宅街を通って、二人は「あおぞら」へ向かっていた。殊音は自分が売女のように扱われたことが、気に入らないとポツポツ言い始める。ラレルは自分の母の異常さを説明しながら、殊音をなだめた。