私の名前を忘れるといい、それだけで君は幸せになれる
周りは皆、彼女を渾名で呼んだ。
否、流石に教師陣は苗字だが、基本的な渾名も苗字から文字ったものだった。
「さ、作ちゃん……」
個別で名前を印刷されたプリントを前に、彼女は黒のボールペンを握ったままだ。
グルグルと渦巻く黒。
まるで彼女の胸の内のように、黒く塗り潰されたそれを見て呼び掛ければ、真っ黒な瞳が俺を映す。
光を一つも含まない黒目。
それでも、硝子玉のように透明度が高く、濁らず、死んではいなかった。
その目から、ゆっくりと視線を下ろし、プリントを見下ろす。
作間しか残らない名前欄を見て、指を差したが、彼女はゆるりと首を傾けるだけだ。
長い前髪が、傾けた方へと流れる。
「それ」
彼女――作ちゃんは、目を瞬く。
無表情のままで、自分の手元のプリントを見下ろした後に、あぁ、というどこかぼんやりとした呟きと共に頷いた。
「この学校に同じ苗字の人なんていないって言ってたから、必ず苗字だけの表記にしてもらってたんだけど。今回は間違えたらしいよ」
いつもちゃんとしてるのにね、と小さな棘の見える言葉が続く。
やはり、無表情のままだ。
それでも右手はしっかりと動き、ぐりぐりごりごり、名前が書かれていたところを塗り潰す。
少し離れたところから見ている作ちゃんの幼馴染みは、小さな声で「狂気ね」と呟いている。
他の二人の幼馴染みも、それには同意を示しているが、何で止めないの。
「取り敢えず、ボールペン置こうか」
ね、と諭しながらボールペンを抜き取れば、そこでやっと表情らしい表情が出た。
ほんの少し、本当に僅かに唇を突き出したのだ。
これは、俺が人間観察を得意としているから分かることである。
「提出物だからね。これ」
「知ってる」
「じゃあ、止めようね」
もう既に遅いけれど。
同じことを作ちゃんも思ったのか、再度、首が傾けられた。
見下ろすプリントは、穴が開くのでは思うほどに強い筆圧で塗り潰されている。
裏を返したところで、名前が透けるとは思えない。
作ちゃんが頑なに本名を教えないのは、入学当初からだと聞く。
実際、俺も作ちゃんの本名は知らない。
苗字が作間、だから、作ちゃん。
これが、作ちゃんの名前に対する全校生徒の共通認識だと思う。
決して大袈裟ではない。
流石に、離れた席に集まっている作ちゃんの幼馴染み達は、本名を知っているだろうけれど。
そもそも、作ちゃんに限らず、作ちゃんを含む幼馴染みメンバーは、渾名で呼ばれている。
苗字からだったり、名前からだったり。
それぞれだが、やはりその分本名の認識が甘く、薄らとしている。
作ちゃんのように隠してはいないが。
「あのさ、崎代くん」
じっとプリントを見ていたら、作ちゃんの抑揚のない声が掛けられ、ハッとする。
真っ黒な瞳が俺を見上げていた。
「はいっ」
背筋が伸びたのに対して、一瞬だけ眉が寄せられたが、特に何も言われなかった。
作ちゃんは、丸くて長めの爪が生え揃った指先でプリントを持ち上げる。
目の前で揺らされるそれに、視線が釘付けだ。
「いつか皆、みんな忘れちゃうんだよ」
特別悲しげな顔をするでも、声のトーンを落とすでもなく、無表情で世間話でもするような声。
プリントを持っている手とは逆の手で、作間と印刷された部分を指差す。
「どうせ死んで忘れるから、覚えて欲しくない」
名前を出されても、誰だっけそれ、は二度目の死だと作ちゃんは言う。
肉体的な死の後には、誰かの記憶の中で死ぬ。
そんな説明が本来一番大事だと思うが、作ちゃんからすれば何よりも忘れる記憶は最初から取り入れる必要がない、ことの方が大事らしい。
ゆっくりと時間を掛けて瞬きをする作ちゃん。
長い睫毛を揺らし、細く深い溜息を吐いた。
最後の方には舌打ちが聞こえてきそうな、重いものに変わっている。
「個を識別するのが名前だよ。それさえ忘れれば、声だって顔だって思い出だって分からないはずだ。だから、最初から教えない」
力なく首が横に振られる。
鮮やかな色のシュシュで結えられてルーズサイドテールも、動きに合わせて揺れた。
柔らかそうな、ふわふわとした癖毛に、いつも触りたいと思っていたが、今日も手は伸ばせない。
「誰かの記憶で勝手に殺されるのは、納得がいかないでしょう?だから、ボクを覚えてるのはボクの身内だけで良いよ」
目の前で破かれたプリント。
綺麗に真っ二つだ。
そうして作ちゃんの細められた黒目は、俺を通り過ぎた先にいる幼馴染み達に向けられていて、そんな幼馴染み達からは、何か言いたげな視線が俺の背中に向けられていた。