水槽の魚のうたう歌。
ギターケースに腰掛けると、人の足がよく見えた。
目的地を求めて、止まることから逃げ出すようにせかせかと行き交う人々。スーツのズボン。ジーパン。ミニスカートにハイソックス。素足にサンダル。秋の柔らかな夜をかき消すように煌々と照らされたタイルを踏みつける無数の足。電車到着のアナウンスが響く。
猫の視線はこんなだろうか。
ふとそんなことを思う。あたしはこうして、ときどき猫になるのかもしれない。人の世を離れて、奇異の目で通り過ぎるたくさんの人生をみつめるのだ。夏目漱石の小説みたいに。そして、それをアコースティックギターの頼りない和音にのせて紡ぐ。それが今のあたしに唯一できることで、したいことだった。
スキニージーンズに覆われた足を軽く組む。抱え込むようにして、ギターを安定させる。左手には弦の感触。右手にはピック。ボーン、ひと弾き。すっと凍てた夜の空気を吸って、あたしは唐突にメロディを紡ぎ始める。
囁くように。叫ぶように。
誰もひとりになるなら どうか人魚に
つまらない人生を泡にしてしまおう
かなわない夢があるなら どうか月夜に
あなたへの想いも水面に浮かべましょう
透明な 透明な水槽で
あたし 泳いでいるわ
冬の底を
目覚めない夜にあたし 熱帯魚になって
自由を優しく拒むガラスに頬をつけた
今日はまた 音もない
思いをただ言葉にして、ギターで奏でる和音にのせる。足の持ち主たちはあたしを一瞥してまた目的地へと急いでいく。彼らにはあたしは駅前で歌う小娘にしか見えないのだろう。たまにいるよね。そんな程度だ。
ねえ、聞こえてる? あんたたちのこと歌ってるんだよ。決まりきった毎日の中をぐるぐるする、水槽の中の熱帯魚みたいなあんたたち、それからあたしのこと。
「うっとうしい歌詞」
ふいに声が降ってきた。
かすれて、でもどこか甘やかな男の声。歌をとめる。見上げれば、パーカのフードを目深にかぶった男がひとり、隣に立っていた。影になった顔で光る目は鳶色で、あたしはその目をじっと見つめ返す。数秒ののち、男はふっとまなざしを緩めて、フードを外した。黒い短い髪と、浅黒い肌。あたしと同じくらいの、若い男。
「そんな歌詞じゃ、プロにはなれねえよ」
男はそう言って、そのまましゃがみこむ。あたしたちの視線がそろう。
整って野性味を帯びた男の顔の中で、切れ長の鳶色の目がライトの光を吸ってぬらりと光っていた。深みのある、それでいてあたしのすべてを見透かしていそうな目。
「それにそんな噛みつくような目ぇするのもだめだ」
その台詞にあたしはいっそう目をとがらせる。もう睨みつけているに等しい。あたしは別にプロになりたくて歌っているわけじゃなかったし、こんな見知らぬ男にうるさく言われる筋合いはもっとない。
「あんた誰」
「ただの通りすがり」
「じゃあ黙ってて」
睨みつけるような目のまま、そう言うと、彼は呆れたように鼻で笑った。あたしはそれを無視して再びギターをかき鳴らす。今度は歌わずに。そうすると、男は何を思ったかどかりと私の隣に座りこんだ。
「何か用なの?」
あたしはギターを弾きながらため息をついて尋ねる。目は合わせない。あの目と長い間みつめあっていると、あたしの心の底まで暴かれてしまいそうで。
「別に」
「あっそ」
「歌わないの」
「あんたが今うっとうしいって言ったばっかりじゃない」
そっけない会話。あたしのギターの音にまぎれて、世界には届かない会話。
明けることを忘れた空が、病んだ月を引っかけて更ける。目の前を行きかう足は、少しだけ数が減っていた。
「俺は好きだよ、あんたの歌」
唐突な言葉に、ギターを弾く手がとまる。数秒ののち、あたしは小さく吹きだした。何とも陳腐なお世辞だ。
「そりゃどうも。うっとうしい歌がお好みなわけね」
「妹が死んだんだ」
あたしの言葉を無視して、唐突に彼はそう言った。あたしは一瞬呼吸を忘れた。
「俺の目の前で、屋上からバイバイって手ぇ振ってた。いつもみたいに笑ってた。次の瞬間にはあいつは空を飛んでた。あいつは水槽の魚で、人魚になって自分の人生を泡にしたんだ。あんたの歌みたいに」
あたしは凍りついたように身動きが取れなかった。ただ彼の淡々とした深い声が耳の奥へと染みこんでくる。
「この世界に囚われたなれの果てを、みんな知らない。あんたの歌が心に残らないくらいに」
「あたしは」
思わず飛び出た言葉に、続けるべき一言がうまく見つからなかった。あたしは浅い呼吸を繰り返して、ようやく言葉をのどから引っ張り出す。
「あたしは、弱くてずるくて、世界を嫌って、こんな歌を歌って、そのくせ自分だって変われない。世の中をばかにするふりをしながら、誰かに聞いてほしいと願ってる。この世界に囚われた最期を、見て見ぬふりをしてる。この歌はそんな愚かでうすっぺらい歌だよ」
そうだ。あたしはこの男が思うような高潔で鋭利な人間じゃない。
あたしの歌う歌は水槽の外側の人の歌じゃない。
脆くて、きたなくて、水槽の中でうろうろするだけの哀れな熱帯魚の歌。
「それでも」
低い声とともに肩をつかまれる。男と目が合う。深くて深くて、鋭い鳶色の瞳。
「あんたはそれを歌った。その歌を俺は聞いた。好きだと思った。それで十分だ」
そして、ぐい、と引き寄せられた耳元で男が一言、囁く。
すっと離れた男の体はそのまま立ち上がり、静かな足音を立てて遠ざかっていった。やっと息が出来た。
あたしは大きく深呼吸をして、ギターを抱え直す。
そうして、あぁ、と思った。
あたしは初めてあたしの歌を聞く人に出会ったんだ。
彼は初めて彼の絶望を歌うあたしに出会ったんだ。
それは、世の中にはあまりに意味のないことで。あたしたちがそれで変われるわけもなくて。それでも、何かは起こった。
小さく、彼の囁きを繰り返してみる。
それは、頼りなくて、でもほのかに光る希望。
相変わらず目の前を横切る足たちを見つめて、あたしはまたギターを奏でる。
夜明けはまだ遠い。
「また明日」
読んでくださりありがとうございました。
久しぶりの投稿です。いつも通り青くて暗い物語になりました。
突発的に書いたので、未熟な点も多いと思います。感想・批評などびしばしくださるとうれしいです。