テキサスから来た娘、ナンシー
カリフォルニアの最南端に位置するサンディエゴという街は温暖で気候がよく、住む人々も明るくフレンドリーな、そんなご機嫌な街だ。メキシコが近いということもありスパニッシュの陽気な香りがした。
ナンシーはこの街の海岸沿いにある“パシフィックカフェ”でウェイトレスをしている。
ナンシーは1年前、テキサスの田舎町からロサンジェルスに行くつもりでグレイハウンド(アメリカ大陸を縦横に走る長距離バス)に乗ったが、途中の停車地サンディエゴで降りてしまった。ロサンジェルスという大都市まで行く勇気がなかったのだ。いつの間にか、ここ、サンディエゴに住み着いていた。
ナンシーがグレイハウンドに乗ったのは父親と喧嘩したわけでも、行くつもりだったロサンジェルスで何かやりたい事があったわけでもない。ただ、テキサスの田舎町から抜け出したいだけだった。ナンシーは自分が生まれ育った町があまり好きではなかった。あの、舞い上がる砂埃の臭いも、ウエスタンブーツも、カウボーイを気取った男達も、1年経っても取れないテキサス訛も全て好きではなかった。
「ハィ! ナンシー。調子はどう!」
「ハィ! グレッグ。 絶好調よ! あなたも元気そうね!」
グレッグはサンディエゴでも優秀な大学“UCSD”の法律学科に通う学生だ。週に3日はナンシーの働くパシフィクカフェに訪れる。
「いつものでいいの? グレッグ」
「あぁー、ありがとう、ナンシー。君はいつも元気そうだね」
「ええ! それだけが取り柄よ」
グレッグはいつもホットコーヒーとアップルパイを注文した。それを口にしながら分厚い本に目を通していた。
「ずい分、難しそうな本を読んでるのね」
「ああ、法律の本でね。面白い本じゃないけど、読まないといけないんだ」
グレッグは海が見えるテラス席のいつも同じテーブルに座っていた。真剣な顔で本を読むグレッグのブラウンの前髪がオフシュア(海に向かって吹く風)でゆれていた。ナンシーはそんなグレッグのことが好きだった。
ナンシーは絵を描くのが得意だった。特に風景画好きで、木陰でまどろむ人や、川辺で水遊びをする人など自然と親しむ人の絵をよく描いた。本当は、美術大学に行きたかったが、ナンシーの家は娘を大学に通わせるだけの経済的余裕がなかった。
ナンシーはカフェに来る学生達に憧れていた。カフェに来る学生達を見ていると自分も同じように大学に通っている気がし、そんな時間が楽しかった。
ある日、グレッグがいつものようにコーヒーとアップルパイを注文した後、突然、ナンシーに言った。
「ナンシー、今度の土曜日パーティーがあるんだ。よかったら来ないか?」
「パ、パーティー?」
「ああ、大学のパーティーだよ。オレが尊敬している教授が論文を発表して、その打ち上げなんだ」
「だけど、私なんか…… 着ていくドレスだってないし……」
「いいんだよ、格好なんか。それに誰がきてもOKだよ。オレの知り合いだと言えば大丈夫さ!」
ナンシーの心臓はまるでバスドラムを連打するかのように鳴り響いていた。ナンシーはその音がグレッグに聞こえてしまうのではないかと思い、胸に手を当て鼓動を抑えた。
ナンシーはその日、仕事が終わると一直線にアパートメントに戻り、2階の自分の部屋に駆け上がった。そして、持っていたバックをキッチンのテーブルの上に放り投げ、冷蔵庫の上に置いてある陶器製のカエルの貯金箱を睨むように見つめた。
彼女はカフェで客からもらったチップを全てこの貯金箱に入れていた。特別、何かを買う目的で1年間チップを詰め込んでいたのではない、ただ、いつか使う日が来るような気がしていた。
ナンシーは貯金箱を両手でつかみ、床に向けて手を離した。
そのブティックはガーネット・アベニューとキャス・ストリートの交差点の角にある、街でも評判の店だ。
もちろん、ナンシーはこんなお洒落なブティックに来るのは初めてで、ただ、キョロキョロと店内を見回していた。すると、店の奥から背筋をピンと伸ばした厚化粧の店員がするすると近づいてきた。
「何か、おさがしですか?」
店員の口だけが笑顔に見えた。
「え、ええ、パーティー用のドレスを」
ナンシーはぎこちなく答えた。
店員に促され付いて行くと、いくつかのドレスがぶら下がっていた。
「これなんか、いかがでしょう? お似合いになると思います」
店員は無難な淡いピンク色のドレスをナンシーにすすめた。
しかし、ナンシーは一番奥に掛かっていたブルーのドレスに目を奪われ、すでに、手を伸ばしていた。店員の言うことなどまるで耳に入っていないようだった。それは、目の奥に突き刺さって来るような鮮やかなブルーのドレスだった。
店員はそのドレスが、どう見てもあか抜けないナンシーにはとても似合わないと思ったが、ドレスに穴が開きそうなほど熱心に見つめるナンシーに仕方なく言った。
「これは、今、とても流行っているラピスラズリ・ブルーのドレスです。あなたにとてもお似合いですよ」
「ほんとうに! 私にほんとうに似合うかしら?」
「ええ。ラピスラズリ・ブルーの光沢のある優雅な色合いはフォーマルパーティーにはうってつけです」
ナンシーは貯金箱の中に入っていたチップ全てと、自分とは不釣り合いなドレスを交換した。
パーティー会場にはすでに大勢の人達が集まっているようだった。ナンシーはパーティー会場に入る前にトイレの鏡で自分の姿を映してみた。急にナンシーはそのラピスラズリ・ブルーのドレスが自分には似合っていないのではないかという不安に陥った。
「ああ、やっぱり私にはこんな素敵なドレス似合わない……」
ナンシーはトイレから外に出ることができなくなってしまった。
「やっぱり、このまま家に帰ろう……」
ナンシーは家に帰ろうと思い、やっとトイレから出て、エントランスの前を横切った。すると、会場の奥にいるグリーンのジャケットを着たグレッグが目に入った。
ナンシーはしばらくエントランスの端で中の様子をうかがっていたが、後ろから急に声を掛けられた。
「入り口に立ち止まらないで下さい。さあ、どうぞ中へ」
「え、いや、私、だけど……」
ナンシーは係員に押されるように会場に入ってしまった。
グレッグはビールを片手に楽しそうに数人の男女と話をしていた。回りには入れ替わり立ち替わり人が訪れ、会話が尽きそうになかった。
ナンシーはただ立っていることに耐えられなくなりフルーツポンチをもらいにカウンターに向かった。それを片手に用もなくパーティー会場をうろうろしたが、グレッグの前まで行くことができず、また、フルーツポンチをもらいに行った。
何度かグレッグの方に目をやったが、彼の回りに人が絶えることはなかった。グレッグに発見してもらえないかと期待もしたが、グレッグはいつも人に囲まれナンシーのことが視界に入らないようだった。
いつの間にかパーティの時間は終わりに近づいていた。ナンシーは腕時計を観察するように見ていたが、意を決しグレッグの前に歩み出ようと思った、その時…… ナンシーの目に、自分と同じラピスラズリ・ブルーのドレスを着た女性が映った。
「あ、私と同じ…… どうしよう…… 」
ドレスを着こなした髪の長い女性はグレッグの傍らで楽しそうな笑顔をのぞかせていた。その女性のしなやかで美しい身のこなしはナンシーの決意を崩れさせ、彼女は後ずさりするようにパーティー会場を後にした。
気がつくと、ナンシーは自分のアパートメントのキッチンにたたずんでいた。そして、急に何かを思いだしたように今まで着ていたドレスを脱ぎ、箱から出した時と同じ形になるように丁寧に折りたたみクローゼットの奥にしまった。
「ハィ! ナンシー」
「あっ、ハィ! グレッグ」
「土曜、パーティー来なかったんだね」
「そ、そうなの。仕事がどうしても休めなくて。ごめんなさい」
「そうだったんだ。結構、人が集まって盛り上がってたよ」
「そ、そう。だけど、私なんかが行っても、きっと浮いちゃってたかも……」
ナンシーは微笑みながらそう言った。ナンシーはいつものナンシーに戻っていた。そして、いつものようにコーヒーとアップルパイをグレッグに運んだ。
The End