ただ、君のために
ウェーブした髪を肩までのばした少女が一人、街の中を歩いていた。顔を半分ほど覆っていたマフラーをずらし、寒そうに手をこすりながら息を吹きかける。視覚化された白い息は、少女の手を少しだけ暖めた。
無意識のうちに、溜息が漏れる。
「どうせ私は、イヴに予定なんて入っていませんよ」
少女は顔を膨らませながらいった。大学内の友人が、クリスマスイヴの予定を聞いたのだ。一人暮らしで恋人のいない彼女は、なにも予定がなかった。しかし、友人は恋人と一緒に過ごすらしく、それをうらやましがっていたのだ。
恋人がいない理由。おそらくそれは、完璧すぎる彼女の容姿に原因があるのだろう。彼女を高嶺の花と決めつけ、誰も言い寄ってこないのだった。
「そうだ。新島先生なら」
携帯をポケットから取り出し、彼女の幼なじみである新島晴馬に電話をかける。数回、呼び出し音が鳴った後、かすれた低い声の男が電話に出た。
「あ、新島先生? 私、瑠衣です」
(携帯の画面を見れば、それくらいわかるよ。それでどうしたんだい、香月君?)
「今年のイヴのことなんですが、先生暇ですか?」
(悪いけど、その日は教授の手伝いをしないといけないんだ)
「先生もですか? 聖なる夜なのに……」
(聖なる夜って、香月君。君そんなこと信じているのかい? それに、恋人でもないのに、君からそんなことを誘っていいの?)
「別に恋人同士で過ごさなければならない訳ではありません。大切な人と過ごせたらいいんです」
電話の向こうから聞こえてきた唸り声に、少女、香月瑠衣は少し顔を膨らませた。
「もう、いいです。私は一人寂しく過ごすことにします」
(あのね、僕は別に、君に寂しい思いをしてほしい訳じゃないんだ。そこは誤解しないでほしい)
瑠衣がふてくされたように言ったせいか、新島は少しあわてて、早口になっていた。
「わかってますよ、先生」
くすりと笑う。
(それと、僕は、もう君の家庭教師じゃないから先生じゃなくていい。ただの大学院生だ)
「それもわかってます」
(そう、それならいいんだけど)
「それじゃあ、電話切りますね」
電話を切った瑠衣は、自分の頬がゆるんでいることに気がついた。なにが嬉しかった訳でもないが、新島と話せたことが原因なのかもしれない。別に、彼に好意を持っている訳でもないのに、不思議だと思った。
結局、彼も駄目だった。今年は、本当に一人で過ごすことになるかもしれないと思い、空を見上げる。曇ってきた空は、今の瑠衣を表しているようだった。
瑠衣は頭を横に振り、前を向いた。何となく、いやな感じだ。気分が滅入ってしまう。
もう一度溜息をつき、マフラーで口元を覆った。
頬に冷たい何かが当たった。
「あ、雨――――?」
手のひらを上に向ける。また冷たい滴が手に当たった。どうやら、雨が降ってきたらしい。
「嫌だなぁ。今日、傘持って来てないのに」
また空を見上げた。瑠衣には雨が降り始めたとき、ついつい空を見る癖がある。
その直後に、誰かが瑠衣の肩にぶつかった。突然のことだったので、バランスを崩した彼女は、その場に倒れかけた。
しかし、瑠衣が地面に倒れることはなく、誰かに腕をぐいと引っ張られた。
「ちょっと、気をつけなさいよね」
そう言って腕を引っ張られた方に振り返る。視線の先にいたのは、瑠衣より少し背の低い少年だった。彼は息があがっており、瑠衣の腕を握っている手の反対側には、ちょうど水筒のようなものを持っている。
二人の目があったとき、瑠衣は少年に何か違和感を感じた。
数秒、目があったあと、彼女はその違和感の正体に気がついた。
彼の容姿だ。顔立ちや肌の色は、一般的な日本人のものだったが、その瞳だけが青色だったのだ。
少年は瑠衣の腕を放すと、水筒のような物を彼女に押しつけた。
「必ず取りにくる。だから、それまで持っていてくれ。誰にも見つかるな」
すごい剣幕でまくし立ててきた少年に、瑠衣は呆気にとられ、何も言えずに水筒状の物を受け取ってしまっていた。そして、もう一度だけ少年は「いいか、絶対に誰にも見つかるな」と言い、走り去ってしまった。
「なによこれ……」
不思議に思いながらも、持っていた鞄の中に、少年が渡してきた筒を入れることにした。悪いことはしていないはずなのに、周囲にだれもいないか確認してしまう。
雨が本格的に降り出したため、瑠衣は急いでその場を後にした。
クリスマスまで、あと四日のことだった。
□■□□□
少年と会った次の日、瑠衣は新島にそのときの話を、大学の近くにある喫茶店で伝えた。
「香月君。その話、本当かい?」
瑠衣はまじめな顔で頷く。頭をかきながら、新島は煙草に火をつけた。そして、溜息と一緒に紫煙を吐き出す。
「それね、関わらない方がいいよ。怪しすぎる」
「そんなことはわかってます」
「わかっているなら、話は早い。帰ったらすぐに、その、何? 筒状の物を捨てるんだ」
有無を言わせない口調で言う新島に、瑠衣は無言で首を振った。新島は目を見開く。
「どうして?」
「だって先生。あの子、すごく必死だった」
「必死だったことに、意味はないよ。君は関わる必要なんてない」有無を言わさぬ口調だった。「わかったね、すぐに捨てるんだ」
少し口を開き、何かを言おうとした瑠衣だったが、何も言い返すことができずに、口を閉じた。その様子を見て、新島は声を出さずに笑う。ちょうど、喉をならすような笑い方だった。
「君は昔から何も変わってないね」
「え?」
「困っている人を見つけては、僕のところに厄介事を持ってくる」煙草を吸い、真上に息を吐いた。「本当に、勘弁してくれ」
言葉とは裏腹に、新島の顔は笑みを作っていた。こういう場合、表情の方が正しいということを、瑠衣は知っている。
「大丈夫です。もう私も大人ですから」
「そう言って、君は僕まで巻き込むんだ。頼むよ、君に何かあったら、怒られるのは僕なんだから」
今度はあまり嬉しそうな表情ではなかった。
「ところで先生。さっきから、私と話しているのに、何を聞いているのかしら?」
瑠衣は自分の耳をとんとんと叩いた。瑠衣と話始める前から、ずっと新島が左耳だけにつけているイヤホンのことを言っているようだ。
「ああ、これかい。これはラジオを聴いているんだよ」
「ラジオ?」
「そう、ニュースだ」
「今はどんなニュースが?」
「うん。お隣の国の辺境の方で、大量の死者が出たそうだ」
顎に手を当て、少し嫌そうな顔で言った。
「事件かなにかですか?」
瑠衣が首を傾げる。
「さあ、理由はわからないみたいだけど……。死体が見つかる、数時間前に赤い雨が降ったそうだ」
「赤い雨、ですか。初めて聞きました。何か関係があるのでしょうか?」
「いや、それについては、調査中らしい」新島は煙草の火をもみ消した。「どうせなら、赤い雨より、真っ赤な夕焼けを見たい」
新島と別れた後、瑠衣は自宅マンションにまっすぐ帰った。昨日の少年が渡してきた筒状の物を見る。新島は、瑠衣と別れる前に、もう一度すぐに捨てるように言ってきた。それでも、瑠衣にはそれを捨てることができない。
筒を手に取ってみた。昨日はあまり気にならなかったが、以外と重たい。振ってみると中からは、液体が入っているような音が聞こえた。どちらが上かはわからないが、水筒のように、ひねれば蓋らしき部分を開くことができるかもしれない。
蓋のような部分に手をかけ、ひねろうとしたその時、瑠衣の部屋の鍵が、音を立ててはずれた。ぎょっとした瑠衣は、玄関の方を向く。
鍵は確かに閉めていたはずだ。そして、彼女は誰にも合い鍵を渡していない。心音は徐々に大きくなる。瑠衣は、言いようのない不安を感じた。頭の中で、警報が鳴り響く。隠れる、助けを呼ぶ。それとも、何かで対抗する?
頭は回っているはずなのに、身体が言うことを聞かない。彼女は気がついていなかったが、筒をぎゅっと、力一杯握りしめていた。
扉が開き始める。
短い悲鳴。
ゆっくりと時間をかけて開く扉。
息が止まりそうになった。
全開。
恐怖で頭の中が真っ白になる。
人影が部屋の中に入ってきた。
「いやだいやだいやだ。誰か助けて」
そばにあった携帯を手に取り、電話をかけようとする。
「先生……!」
呼び出し音。そして、すぐに無機質な女性の声が聞こえる。目から滴が流れた。
(おかけになった電話は、現在電波の届かない――――)
新島が電話に出ることはなく、瑠衣はその場で固まってしまった。そして、横から腕が伸び、彼女の携帯を奪い取った。
「俺だ」
「え?」 震えるながら、ゆっくり人影の方を見る。恐怖で気がつかなかった。忘れることはない、つい昨日のこと。瞳だけが青い、東洋人。彼がその場に立っていた。
「アレはどこだ?」
「アレ?」
瑠衣は目元の涙を拭いながら聞いた。
「昨日渡した、筒だ」
「あ……」
胸の前で握りしめていた筒を見る。それを見た少年の目の色が変わった。
「お前、中を見たのか!」
少年が瑠衣の肩を持ち、前後に揺さぶる。一度は引きかけた涙が、また目にたまるのを感じた。
「み、見てない! 開けてもいないし、ただ見ていただけ!」
ほっと胸をなで下ろす少年。解放された瑠衣は、安堵の息を吐いた。
「何なのよいったい。これが何だって言うの?」
息を整えた後、少年に言う。彼は、筒の周りを注意深く確認していた。瑠衣の言葉など、耳に入っていないかのようだ。
「隣国で、大量の死者が出たのは知っているか?」
「今日、ニュースで言っていたやつ?」
「そうだ」そして、少年は筒を軽く横に振った。「その原因がこれだ」
瑠衣の思考は一瞬停止した。部屋の鍵を外側から開けられる時点で、非日常だというのに、大量の死者が出た原因が、今自分の目の前にあると言うのだ。常人であれば、そんな話を聞かされて、思考が停止しない者などいないだろう。
「ちょ、ちょっと待って、どういうことよそれ!?」
「別に信じてくれなくてもいいさ」
「そういうことを言ったのではないわ。あなた、そんな危険な物を私に渡したの?」
今度は、瑠衣が少年に詰め寄る。少年は後ずさり、壁際まで追いつめられた。
「どういうこと、話して!」
「お前に話す必要はない」
「何それ?」
瑠衣は少年の青い瞳を見つめた。
吸い込まれそうな青。瑠衣の好きな空の色と一緒だった。
少年の目が閉じられる。
「聞いたら、後戻りできなくなる」
そして、ゆっくりと目を開けた。
「また、明日だ。明日ここに来る。それまでに、どうするか決めておけ」
少年は、瑠衣の手を払うと玄関に向かって歩きだした。
「星が、泣いている」
ドアを開こうと手を伸ばした、ちょうどその時。奇妙な音が鳴った。驚いた瑠衣はあたりを見回す。そして、その音の原因が、少年の腹の音だということに気がついた。少年は無言のまま、自分の腹を見つめている。
「もしかして、お腹空いてるの?」
無言。
「ちょっと、聞いてる?」
「そうか」と少年は呟いた。「これが空腹と言うものか」
瑠衣は首を傾げる。
「あなた、さっきから何を言っているの?」
少年は向きを変え、瑠衣を見た。
「どうやら俺は、腹が減っているらしい」
にっこりと微笑んだ少年から、思わず顔をそらせた。青い目が、余計に魅力的に見える。
「たいした物は出せないけど」瑠衣は顔をそらせたまま言った。「何か作ってあげるから、あがりなさい」
部屋に戻り、冷蔵庫を開けた瑠衣は、食材を取り出しながらふと思った。少年との会話が、さっきから噛み合っていない。とにかく謎だらけの少年だと思った。
「あなた、って呼びにくいわ。ねえ、名前、教えてよ」
瑠衣は、無心に料理を食べ続ける少年に言った。食べるのをやめて、少年が顔を上げる。
「食べ終わったら、すぐに出ていくつもりだったのだが」
「ふざけないで。あれほど謎な言葉ばかり残しておいて、出ていくってどういうつもり? とにかく、名前だけでも教えなさい」
「こちらでは、坂本優真と名乗ることにしている」
またもや不思議な回答をしてきた少年に、瑠衣は頭をかいた。
「ユーマ? 不思議な名前ね。と言うより、名乗ることにしている、ってどういうことよ?」
「優真だ。後の問いには、明日答える」
「ねえ、ユーマ。あなた、ハーフ? だから、そんな変な日本語を使うの?」
優真は黙り込んでしまった。
「あ、もしかして、聞かない方がよかったかしら?」瑠衣は、優真から視線をそらせる。「ごめんなさい。言いたくなければいいの」
すると、優真は首を横に振った。
「おしゃべりな奴だ」
そう言って眉をひそめる。
「どういうことよ?」
「名前だけと言ったのに、質問責めにしてきた奴が、よくそんなことを言えるな」
優真はゆっくりと立ち上がると、玄関の方に歩いていった。瑠衣も後からついていくが、今回は止めようとしない。
「決めておけ、俺の話を聞いて日常を失うか、俺と出会ったことを忘れて、普通の生活を最後の時まで過ごすか」
青い瞳の少年は、そう言い残し瑠衣の部屋を出ていった。彼が出た数秒後、瑠衣はっとしたように部屋を飛び出したが、もう少年の姿は見えなかった。
「というわけなんです。どう思います?」
新島は、瑠衣の言葉に、ライタを持つ手を止めた。
「ちょっと待って……」
「え、ああ。はい……」
煙草の箱から、一本だけ取り出し火をつける。煙を深く吸い込み、新島は考えるような表情を作った。
「どう思うって、君は僕にどんな返事をもとめているんだい?」
「どうって、ただ先生が思ったことを言っていただければ」
「そうだね。なぜ、あの筒を捨てなかった? 関わらない方がいいと、言ったはずだよ」
厳しい口調で言われた。
「でも――――」
「でも、じゃない。話を聞く限り、隣国での事件は、その子の持っていた物が原因なんだろう? ますます怪しい。それに、鍵を外から開けて入ってきた。立派な犯罪じゃないか」
瑠衣は反論できずに、口ごもった。確かに、新島の言う通り、優真のしたことは既に犯罪の域に達している。
「警察に連絡しよう。今日も、その坂本優真と言う子は、君の家に来るといたのだろう? あの筒が隣国の事件に関係しているのならなおさらだ」
「先生、待って」
携帯を取り出そうとする新島の手を、瑠衣が止めた。机の上に置いてあった彼の携帯を、瑠衣が奪ったのだ。
「香月君。僕は君のためを思って……」
「先生。私がその言葉、大嫌いなのを知っているでしょう?」
瑠衣が新島を睨む。
「君のためだなんて、私を低く見ているのと同じだわ。そんな言葉、私に使わないで」
「すまない。わかった、僕が悪かったよ」
新島は両手を挙げ、瑠衣に向かって軽く手を振った。瑠衣を怒らせると厄介だということを知っている彼は、彼女が沸点到達間近になると、妥協策を練ることに専念するのだった。
「ならこうしよう。今日、そのこと会うとき、僕も立ち会わせてくれ。その後、どうするか判断する」
「約束ですよ?」
少し上目遣いになりながら、瑠衣が新島を見る。
「うん。それじゃあ、携帯を返してくれないかな?」
夕方になって、優真は言葉通り瑠衣の家に現れた。背中にはリュックサック。恐らく、その中にあの筒が入っているのだろう。
新島を見た彼は、一瞬の驚く表情の後、瑠衣を軽く睨んだ。ぴくりと震えた瑠衣を、新島が背に隠すように前に出る。
「誰にも言うなと言ったはずだ」
表情と同じ、厳しい口調で言った。新島には、それが子供を叱る親の口調に似ているように感じた。彼に向けられた視線には、明らかに敵意が見てる。
「歓迎されてないらしいな」
優真は視線を逸らさずに言った。
「わかっているのなら、引き返してもらえないだろうか?」
新島も睨むような視線を優真に送る。
「新島先生、話が違います!」
瑠衣は声を荒げた。だが二人の睨み合いは、収まる気配がない。
「別に俺はかまわない」優真は視線を新島から、瑠衣へと移した。「その方が、いくらかマシだ」
その発言に、瑠衣と新島の二人はきょとんと顔を見合わせる。優真自身はすぐに、瑠衣から床へとまた視線を移動させた。
瑠衣には、優真の表情がどこか曇っているように見えた。何かを憂いでいるような、そんな表情。彼の表情に、一瞬胸の痛みを感じる。
「ごめんなさい、ユーマ。でも、この人は悪い人――――」
「悪い人間かどうかじゃない、できるだけ知られない方がいいんだ。混乱を招く」
瑠衣の言葉を遮り、優真は言った。昨日と同じ、叱責するような口調のせいで、瑠衣は肩をすくめる。
「どういうことな? 詳しく説明してくれ。それによって、僕もとる行動が変わってくる」
「どう変わる?」
全くの無表情で優真が聞く。
「僕には、君がただの怪しい子供にしか見えないけど、話す内容によっては、警察に連絡する」
「先生!」
瑠衣は懇願するような目を向けながら叫んだ。新島は一度、彼女の方を見たが、優真と同じように無表情だった。
「瑠衣。君は黙っていなさい」
普段、瑠衣を名字で呼んでいる新島が、名前で呼んだ。それは、新島が無意識のうちに昔を思いだし、瑠衣を守る対象であると考えているということだった。
「別に、今すぐ警察を呼んだってかまわない」
意外な返答に、新島は目を丸くした。
「そうか。なら、そうさせてもらうよ」
瑠衣が、新島の腕にすがるようにしたが、彼はそれを無視して携帯を取り出した。そして番号を押し、耳に当てる。その間、優真は逃げようともせず、じっと新島をみているのだった。
「え?」しばらくして、新島が呟く。「どういうことだ?」
もう一度番号を押し、耳に当てた。しかし、電話の向こうからは、何の反応も返ってこない。呼び出し音すら流れないのだ。
「悪いが、俺は電波を遮断することができる」
□□■□□
その後、いくつかのやりとりが、新島と優真の間で行われた。瑠衣は終始、新島の腕にすがりつくようにしており、新島が攻撃的な発言をすると、彼の服の袖を強く引っ張っていた。
「つまり、君は地球外生命体だと?」
「そう思ってくれて問題ない。正しくは、俺を作った者たちが、だが」
「馬鹿馬鹿しい。そんなこと信じられるはずない」
「そうだろうな。そのために外見も機能も、人間に近く作られた」
「香月君、君はどう思う?」
「え?」急に話を振られて戸惑う。「私は、その……」
視線を泳がせて、なんとか返答をしようとした。だが、優真の話した内容が、あまりにも衝撃的すぎて、なんと言えばいいのかわからない。
「信じるも信じないも、お前たちの自由だ」
「それで、その隣国での事件に関係あると言った、筒の正体は何だ?」
優真は溜息をつきながら、リュックサックの中から筒を取り出した。
「そうだな。お前たちの言葉を借りて言えば、大量殺戮兵器。俺たちの言葉で言えば、星を救うための解毒剤だ」
瑠衣と新島は同時に息を飲んだ。優真の無表情さが、余計に恐ろしく見える。
「この中にはミクロサイズ生物が入っている。解放すれば、一度上空に昇り全世界に拡散し、雨と一緒に降り注ぐ。雨に当たった人間の体に浸透し、神経を侵す毒を大量に生成し、その人間を死に至らしめる。因みに、これ一本で、人類を滅亡させることが可能だ」
「ちょっと待って、どうしてそんな物をあなたが持っているの!?」
「言っただろう、星を救うためだ」
「星を救う?」
瑠衣が繰り返す。
「星が、地球が苦しんでいる。お前たち人間のせいで、この星が死に向かっているんだ。俺を作った者たちは、人間の世界を滅亡させ、地球を救うために俺を作り、これを持たせた」
「そんな……」
「俺が地球外から来たということは信じないのに、これが大量殺戮兵器だと言うことは信じるんだな」
俯き、少し寂しそうに優真が言った。
「実行は12月24日。お前たちがクリスマスイヴと呼んでいる日だ」
「何それ。明後日じゃない」
悲鳴に近い声を瑠衣があげる。
「それまでの猶予は与えている。後はお前たち人間次第だ」
愕然とする二人をその場に残し、優真は去っていこうとする。玄関で一度だけ振り返り、瑠衣の方を向いた。
「もう、後戻りはできない。何をするか、何をしたいか、それを決めるのはお前たちだ」
ドアに手をかけた優真は「また夜になったら来る」とだけ言い残し、瑠衣の家を後にした。
「先生、私たちはどうすればいいんでしょうか?」
新島は無言で俯いた。彼の表情からは何も読みとれない。今の話を聞いて、何を感じたのかさえわからなかった。
「香月君、どこか行きたいところや、会いたい人とかはいるかい?」
「ありませんし、いません」
瑠衣の反応は速く、即答に近かった。
「何か、やりたいこともないのか?」
「ありません」
また、即答。
「私、急にそんなこと言われたって、何も思い浮かびません」
「そうかい。いや、実を言うとね。僕もそうなんだ」
二人は同時に笑った。大きな声を上げて笑うのではなく、疲れたような小さな笑みだった。
「イヴに世界が滅ぶと知ってて笑っているの、私たちくらいですよ」
ぴたりと笑うのを止めた瑠衣は、新島に聞こえるかどうかわからないくらいの声で呟いた。
突然の出来事で、頭が回っていないことくらい、十分に理解している。それでも、まったく現実味がない。24日に世界が滅ぶ。なのに、なぜか優真の言ったことを信じている。瑠衣には、彼が迷っているように見えていた。
「今晩も、うちに来ると言ってましたよね?」
「え? ああ、言っていたね」
「どうせ晩御飯食べに来るんですよ」
「晩御飯?」瑠衣の発言に、新島は首を傾げる。「いったいなぜ?」
「お金、持っていないんじゃないかしら?」
ジョークにしてはあまりにも説得力があると、瑠衣は一人で微笑んだ。
「先生も食べていきますか?」
夕飯の時間になると、優真は何事もなかったかのような顔で瑠衣の家に訪れた。しかし、まだ夕飯は準備されておらず、優真は不思議そうな表情で瑠衣の顔を見る。
「人間は、この時間になったら食事をするのではないのか?」
「あのねぇ。食べるだけなんて、図々しいと思わない? 今から作るから、手伝いなさい」
一瞬きょとんとして、その後、部屋の隅で煙草を吸っている新島を見た。
「もちろん、僕も手伝うよ」
優真に笑いかけながら、新島は立ち上がった。瑠衣が用意していた、新島専用の灰皿で煙草の火をもみ消す。
「そうか、そういうものなのか……」
優真は誰にも聞こえないくらいで呟くと、キッチンに移動した瑠衣のところへ向かった。
「不思議だな。人間を滅ぼそうとしている奴に、食事を与えるなんて」
「それを言うなら、私の家に晩御飯を食べに来るあなたも、十分に不思議だわ」
包丁と野菜を優真に渡した瑠衣は、鼻で笑うように言った。危うい手つきで、優真が材料を切り始める。
「お前――――」
優真が話そうとしたところを、瑠衣が遮った。
「ねえ、昨日から思っていたけど、お前って呼ぶのやめてくれない? 私、お前って呼ばれるの、一番嫌いなの」少し怒ったように言う。「それに、あなた私より年下でしょう? もっと礼儀正しくするべきだわ」
「うるさいな」
顔を瑠衣からそらした優真は、ふてくされたような顔をした。
「危なっかしいわね」瑠衣が呟いた。「包丁、使ったことないの?」
「ない」
迷いのない、はっきりとした返事に、新島が吹き出す。彼は優真とは違い、スムーズに材料を切り分けていた。
「ああ、危ない、危ない! ちゃんと持ちなさいよ!」
危うく指を切りそうになった優真を見て、瑠衣が慌てる。その様子を見て、新島が声を上げて笑った。
「君たち、姉弟みたいだね」
新島の発言に、二人は目を丸くした。
「私たちの? どこが?」
「俺もこんな奴と同類だなんて思われたくない」
「それはこっちの台詞よ!」
お互いに睨み合い、顔を膨らませる。
「本当に、姉弟みたいだ」
□□□■□
「ねえ、ユーマ。あなた、どんな気持ちなの?」
夕食も無事に終わり片づけが済んだ後、瑠衣は静かに聞いた。満足そうな顔をしていた優真は、その問いを聞いて暗い表情になる。
無言のまま時が進んでいく。瑠衣は、新島のいる方を見た。頼りの彼は、今はベランダで煙草を吸っていて、中の様子に気づく様子はない。
「ねえ、答えて。私たちを滅亡させるのって、どんな気持ち?」
もう一度、今度ははっきり声に出し、質問の意味を明確にして聞いた。
「それを聞いてどうする……」
「別に、ただ気になっただけよ」
また二人の間に沈黙が流れた。居心地の悪い沈黙。瑠衣は、新島が早く戻ってこないかと思った。
しばらくして、優真が口を開く。
「俺は、作られた存在だ。いわば道具。目的を果たせない道具は、ただのガラクタだ。それだけは嫌だ」
瑠衣には、優真が何を言いたいのか、わかったような気がした。やはり、彼は迷っているのだ。自分の手で人間を滅亡させることに。
「なぜ俺は人間に近く作られた? ただの道具なら、トリガーだけで十分だったのに」
優真の内に溜め込んでいたものが、溢れ出ているようだった。
「24日まで待つ理由は何だ。何のために猶予を与えるんだ?」
「ユーマ。あなたは道具なんかじゃないわ」瑠衣は続ける。「怒ったり、ふてくされたり、お腹が空いたり。それに今も、ほら、あなたは考えている。生きてるってことでしょう」
いつの間にか、目を潤ませ俯いていた優真。瑠衣は、彼の顔を優しく包み、自分の方に向けさせた。
優真の青い瞳から、雫が一粒こぼれ落ちる。
「あなたが人間に近く作られたのは、人間のことを理解するためじゃかしら。猶予を与えられたのも、そのため。人間を学ばせる為じゃないのかな」
瑠衣は、優真の目からまた涙が落ちる前に、目元を拭ってやった。
「ほら、泣かないの」
まだ青い瞳は揺れていたが、涙はもう出ていなかった。
瑠衣が微笑みかけると、優真は恥ずかしそうに顔を背けた。
「馬鹿な奴だ。人間を滅ぼそうとしてる奴を励ましてどうする……」
優真は照れ隠しのように毒づいた。
「この季節になると、外はやっぱり寒いね。凍えそうだ」
煙草を吸い終えた新島が、ベランダから戻ってくる。まるで見計らったかのようなタイミングで、少し可笑しく思った。
「不思議な奴らだな。人類の敵が、目の前にいるというのに」
「君がそんな風には見えないから、じゃないかな?」
新島はきょとんとしたまま言った。
「ユーマ。あなた、夜はいつもどこで寝ているの?」
「近くの公園」
やっぱり、と言うような顔をして、瑠衣が顎に手を当てる。新島には、何かを考えているように見えた。
「それなら私の家に泊まって行けば?」
「え……?」
声を上げたのは新島だった。
「香月君。それどういうことだい?」
「だって、寝るところないなんて、かわいそうじゃないですか」
「駄目だ駄目だ。そんな、許すわけにはかない」
新島は瑠衣を睨むように言った。
「どうして?」
「どうしても! 泊まるのなら、僕の家にしなさい」
新島は有無をいわさぬ口調だった。瑠衣は別にそれでもいいというような顔をする。
「じゃあ、私も一緒に泊まらせてもらいますね」
「え、それじゃあ意味ないじゃないか?」
「何が?」
「もう、いいよ。わかった」
新島は、仕方ないというように、深いため息をついた。
「不思議な奴らだ……」
優真はその日何度目かになる言葉を呟いた。不思議で仕方がない。人類を滅ぼすためにやってきたと言った優真と、普通に話したり、寝床を与えたりする。優真の言ったことを信じていないのか、それかお人好しすぎるのか。今の優真にはまったくわからなかった。
しかし、どうせなら後者であってほしい。心のどこかでそう思っていた。そして、こんな人間たちのいるこの世界を、滅ぼしていいのか。そんな疑問さえ生まれてきた。
今までは、多少抵抗があっただけ。作られた道具だからと言っても優真には心がある。自分の手で、人間を滅ぼすことに躊躇していただけだった。
「俺は、人間を滅ぼし、星を救うために生まれた」
一度、呟いてみる。
しっくりとこない。
それが目的だったはずなのに、疑問を持ち始めている。
優真を作った者たちは、人間がこの星を蝕んでいると言った。無駄に増殖し、破壊活動を繰り返すだけの癌細胞だと。
本当にそうなのだろうか。少なくとも、瑠衣も新島もそんな風には見えなかった。むしろ友好的で、イメージとは違う。
瑠衣は、優真が人間に近く作られたのは、迷い考えさせる為ではないかと言った。自分を作った者たちは、人間にチャンスを与えるつもりだったのか。
それならば……。
それならば、最後のその時まで、人間たちの行く末を見届けよう。装置を起動させるトリガーはここに。優真自身が持っているのだから。
「あ、新島先生」
朝になり、目を覚ました瑠衣は、朝食の準備をしていた新島に声をかけた。
「優真君なら、朝早くに出かけたよ」
「え……?」
食卓を見てみると、一つだけ皿が残されており、食パンの粉がたくさん落ちていた。
「もう少し寝ていたかったんだけどね。彼にたたき起こされた」
「どこに行ったんですか?」
「いや、なにも言っていなかったよ。夜には戻ってくるそうだ」
「私、探してきます」
瑠衣が玄関へ向かおうとすると、新島はすぐに止めた。
「僕も行くよ。ああ、その前に」新島は椅子に座った。「朝食を食べないとね」
「ねえ、先生。私、少しだけ、気になることがあるの」
マフラーに顔を埋めていた瑠衣が言った。新島はしばらく瑠衣の方を向いて、その表情を伺う。
「優真君のことかい?」
「ええ……」
「いいけど、場所がね。もう少し、人が少ないくなってからにしよう」
人通りの多い街の中で、優真に関する話は避けた方がいいと判断した。恐らく信じる人間はいないだろうが、自分たちの頭がおかしいと思われるのは避けられないだろう。
あたりを見回しても人ばかりで、優真の陰すら見えない。せめて、正面から来てくれさえすれば、あの青い瞳ですぐに判断できるのにと、瑠衣は思った。
「心配かい?」
新島が聞いた。瑠衣は首を横に振る。
「別に心配はしてません。ユーマはちゃんと考えるといったし。ただ、迷子になっていないかな、と思うだけで」
それを聞いて新島は盛大に吹き出してしまった。
「私、変なことを言いましたか?」
瑠衣が眉間に皺を寄せて、新島を睨む。
「それを心配している、と言うんだよ」新島は必死に笑いをこらえながら言った。「君、本当に彼のお姉さんみたいだね」
瑠衣は顔を膨らませ、さっきより鋭い視線で新島を見た。そして、彼から離れるように、足取りを速めた。
ふと、瑠衣の目に街のディスプレイが目に留まった。ガラスで仕切られた空間の向こう側には、ネックレスやピアス、時計などのアクセサリーが置かれている。その中の、ある一つのネックレスに目を奪われていた。
「香月君。もしかして、それほしいの?」
後から小走りでやってきた新島が聞く。少し息があがっているようで、白い息が途切れずに見えていた。
「いえ、ユーマに似ているな、と思って」
「彼に?」
新島は瑠衣が見ている方に向いた。瑠衣が見ていたネックレスは、派手なものではなく、青い石がはめ込まれた非常にシンプルなものだった。言われてみれば、石の色が優真の瞳の深い青に似ている。
瑠衣は黙ったまま見つめていた。新島は聞こえない程度のため息を吐く。
「買ってあげるよ。今年、なにもプレゼント買っていないし」
「え、本当ですか?」
瑠衣が小さく声を上げた。しかし、その後に少し思い詰めたような表情になった。不思議に思った新島が、彼女の顔をのぞき込むようにする。
「どうしたの?」
「あ、いえ……あの、先生。私はいいから、これ、ユーマに買ってあげませんか?」
「彼に? どうして?」
「だって、あの子、誰もプレゼントをくれる人いないと思うから」
もう一度、新島はため息を吐いた。そして、瑠衣に微笑みかける。
「本当に姉みたいだよ。いい意味でも、悪い意味でも」
「一言余計です」
クリスマスプレゼントらしく包装されたネックレス。それを鞄の中にいれた瑠衣は、満足そうな笑みを浮かべていた。
「ありがとう先生」
「いや、いいよ。それより、それを渡す相手を探さないと」
「そうでしたね」
舌をちょっとだけだし、ウインクする瑠衣。
「それにしても、どこに行ったんだろうね?」
「さあ、それは私にも……」
「何か、心当たりは?」
「いえ、なにもないです」
瑠衣は首を傾げた。優真に出会って三日も経つが、彼は自分のことをあまり話そうとはしない。どこに言ったかの手がかりなど、瑠衣にはわからなかった。
「そういえば、彼、僕の家に泊まるまで、どこで寝ていたんだっけ?」
新島の問いに、瑠衣がはっと何かに気づく。
「確か、近くの公園って言っていました」
「君の家の近くの公園。ああ、あそこだね」
「行ってみましょう」
瑠衣の足取りは自然と軽くなった。
その公園は、ブランコと滑り台、ジャングルジムなどが置かれてある、公園だった。瑠衣も幼い頃、よく新島に連れて行ってもらったことのある公園だ。ベンチもいくつかあるので、優真は恐らくそこで寝ていたのだろう。
ただ、そんなところに今更何の用事があるのか、という疑問が瑠衣の頭をよぎった。何か、落とし物でもしたのだろうか。
「優真君は、地球外生命体に作られた道具だと、言っていたね」
「ええ、彼自身がそう言っていました」
「もしかすると、自分を作った者たちと、通信でもしているんじゃないかな?」
表情一つ変えずに、新島が言った。
「先生、それって……」
「彼がどんな内容を話すかはわからない。君が今想像した通りのことを話すかもしれない。けど、ありえないことでもないと思うよ」
瑠衣が不安そうな顔をしているのをよそに、新島はポケットから煙草を取り出していた。
「なにせ、彼の本来の目的は、人類を滅亡させることだし」
「私、そんなこと考えたくありません」
瑠衣は、新島を睨むようにして言った。
「可能性の話をしているだけだ。実際に、そうだとは言っていない」
「それくらい、わかっています」
これ以上、この話を続けたら感情が爆発しそうになるのを感じた瑠衣は、新島と顔をそらせて、優真の姿を探そうとした。
ぱっと見たところでは、優真の姿は見つけることはできなかった。公園自体が、木々や建物に周りを囲まれているので、死角になる位置にいるのかもしれない。
周囲の死角になりそうな位置を隅々まで探すと、ついに優真らしき後ろ姿を見つけることができた。向こうは、気づいていないらしく、振り向こうとはしない。瑠衣が近づこうとすると、新島の腕がそれを止めた。
「少し様子を見よう」
「ユーマを疑っているんですか?」
「いいや、そうではない。ただ僕は、君より少しだけ危機感を持っているだけだ。まだ、死にたくはないからね」
仕方なく瑠衣は引き下がり、新島と物陰に隠れて様子を伺うことにした。
しきりに周囲を確認する優真。そして、誰もいないと思ったのか、その場にしゃがみ込んだ。どうやら、彼の足下に何かがあるらしい。忙しく手を動かす優真の姿が見えた。しかし、瑠衣たちの位置からは、ちょうど彼が死角になって、何があるかわからない。
瑠衣の心臓が一瞬跳ねる。もし、そこにあるのが通信機器のようなものであったとしたら。もし、あの赤い雨の入っている筒と同じような物が出てきたら。そう思うと、落ち着いていられなかった。
横目で新島を伺う。彼は息を殺し、優真の動向に目を凝らしていた。彼はいったいどうするつもりなのだろうか。
じわりと気持ちの悪い汗が、瑠衣の額から落ちてきた。吐息が白くなるほど、気温は低いはずなのに、なぜか体が熱い。
しゃがみ込んだ優真が、両手で何かを持って立ち上がった。瑠衣も新島も思わず身構えてしまう。
「こら、くすぐったいよ」
そして、笑い声。
瑠衣たちは完全に呆気に取られた。確かに、優真のいる方から聞こえた。それが、余計に二人を混乱させる。
優真がその場で、体の向きを変えた。彼の腕の中には、真っ白な子犬が抱かれていた。子犬は優真の顔を、嬉しそうに何度も舐める。くすぐったそうにしながらも、笑顔でいる優真がそこにはいた。
瑠衣と新島は、顔を見合わせた。お互いに頷き、優真のところへ歩み寄る。
「あなた、そんな一面もあったのね」
不意に、優真の後ろから声をかけると、彼は子犬を抱いたまま飛び上がるようにした。
「お、お前、何でこんなところに!」
「行き先も告げずに、どこかに行ってしまうあなたが悪いんでしょう」
優真は叱られた子供のように、うなだれる。
「勝手にどこかへ行ったら、心配しちゃうでしょう」
「人類を滅亡させようとしているやつを、心配するなんて変な話だ」
苦し紛れのように、優真が呟く。
「それを言うなら、そんな子が、こんなところで子犬と遊んでいるのも変な話だと思うけどね」
「俺になついてるのか、よってくるんだ」
子犬を降ろしながら言う。子犬は尻尾を振りながら、瑠衣に近づいた。その場にしゃがみ、耳の後ろのあたりを撫でてやる。
「この子の親は?」
「いるよ。でも、まだ今日は見ていない」優真も座って、子犬の背中を撫でる。
「そうだ……」
何か思い出したように、背中のリュックサックを探る優真。そして、その中から包装された小さな箱を取り出した。どこかで見たことがある、と思った瑠衣は、優真に買ったクリスマスプレゼントを思い出した。
「ほら、これ」瑠衣に押しつけるように渡す。「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼントだ」
「あ、ありがとう」
「なんだ。嬉しくないのか?」
「ううん、そんなことない。嬉しいよ」
不安そうな顔をする優真に、瑠衣は微笑みかける。
「ただ」
「ただ?」
瑠衣は鞄の中を探り、さっき買ったプレゼントを優真に渡した。
「たぶん、同じ物だと思うけど」
「え、同じなのか?」
苦笑いをしながら、瑠衣は頷く。優真もつられて笑ってしまった。
「結構悩んで買ったのにな」
□□□□■
「あれ、先生。ユーマは?」
瑠衣が目をこすりながら聞いた。胸元には優真が買ってきたネックレスがある。
「その言葉、昨日の朝も聞いたよ。まあ、今は夜だけど」くすりと笑う。「彼なら、昨日の子犬のところだ」
「そう、私も行きたかったわ」
「君、寝る時間、早いからね」
新島が笑いながら言った。瑠衣は顔を膨らませる。
「呼んでくれたってよかったじゃない」
瑠衣は愚痴をこぼしながらテレビをつけた。
「11時くらいに家を出たよ。そんなに時間はかからないと行っていたと思うけど」
「気になりますか?」瑠衣がくすりと笑う。
「それは、まあ、ね。夜遅いし……」
二人が沈黙する中、テレビから音が流れる。瑠衣が追求してくると思っていたが、彼女は何も言ってこない。拍子抜けした新島は、沈黙の原因が気になり、瑠衣の方へ向いた。瑠衣はテレビの画面の方を向いたまま、ぴくりとも動かない。
「どうしたの?」
新島が聞く。ゆっくりと瑠衣は振り返り、彼を見た。その顔は蒼白で、おびえきった表情だった。
「先生、これ」
テレビを指さす。画面に映っている物を見た瞬間、新島も凍り付いてしまった。
「これは――――」
臨時のニュース番組。カメラがとらえていたのは、街の上空に浮かぶ、真っ赤な雲だった。
「どういうことでしょう?」
瑠衣が息を切らせながら聞く。
「どうもこうもないよ。優真君が、あれを解放したんだ!」
「そんな……」瑠衣が息をのむ。「どうして」
ニュースを見たあと、すぐに二人は家を飛び出し、優真を探すために走っていた。
「とにかく、彼を速く見つけて止めさせないと!」
「先生、あれ!」
瑠衣が指さした方を見ると、ふらふらと力なく歩いている優真がいた。目は虚ろで、涙を流している。服は何があったのか、血で赤く汚れていた。
「優真!」
瑠衣の声に、優真が顔を上げる。
「優真。あなた、何をしたの!?」
瑠衣の問いに、優真がふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
「あいつらが悪いんだ。あいつらが、あんなことをするから」
「なに、あいつらって?」
「知らない。知らない奴らだよ」
「優真。いったい何があったの?」
瑠衣が優真の肩をつかみ、揺さぶる。
「殺されたんだよ!」
突然怒鳴った優真に驚き、瑠衣は後ろに下がった。新島が二人の間に入る。
「殺されたんだ、目の前で。あの子犬が……」
「え?」
「何であんなことをする必要があるんだ。生きているのは、人間だけじゃないんだぞ」
優真が瑠衣を睨む、彼女が悪いわけではなかったが、それでも怒りをぶつける相手がほしかった。
「もう無駄だ。なにをしても遅い」優真は無表情で言った。「何で人間はこうも醜い? なぜ、そこまで残酷になれる?」
ため息をつき、空を見る。
「絶望した」
「絶望?」ひきつったような顔で、新島が聞く。「どういうことだ?」
寂しそうに俯き、優真は首を横に振った。
「話したところで意味はない。もう、装置は起動させた。いや、正確には、起動してしまった」
「そんな……!」
瑠衣が悲鳴に近い声を上げる。
赤い雨を振らせるための装置が起動した。
それは、『赤い雨』がどのような物か知っている瑠衣と新島には、すぐに恐怖の対象となった。
「止めることはできないのか?」
新島が叫ぶ。
「起動させるための装置は、俺自身だ。止めることはできないし。止める必要もない。俺は、元々人間を滅亡させるための道具なのだから」
抑揚のない声で、淡々と続けた。瑠衣は、優真の近くにいこうとしたが、新島がそれを止めた。
「駄目だ! すぐに逃げよう、どこか雨の当たらないところへ!」
新島が走り出す。瑠衣もすぐに付いていこうとしたが、振り返り優真の腕を引いた。瑠衣は、目をいっぱいに見開いて驚く優真を後目に走り出した。
「なんで俺まで」
「黙っていなさい。先に安全な場所に着いてから!」
優真は戸惑いながらも、瑠衣と一緒に走る。
「安全な場所なんて、どこにもない」
その声は、瑠衣には届いていなかった。
「先生、私のマンションに行きましょう!」
「ああ、ここからなら近い」
必死に走る二人を、優真は瑠衣の手に引かれながら見ていた。
「ユーマ、大丈夫? まだ走れる?」
「なぜ、俺の心配を」
「知らないわよ。とにかく、もう少しだから頑張って」
「どうせみんな死ぬんだ。走ったって、意味ないさ」
「いやよ。私は死なない、死にたくない」瑠衣は続ける。「それに、あなたも死なせない」
その言葉に、心臓が大きく跳ねた。人類を滅亡させる引き金を引いた自分を、死なせないと言った瑠衣。
この人間はどこまで、お人好しなのだろう。こんな人間だっているのに、どうしてあの子犬は、殺されなければならなかったのだろう。
雨が降り始めたら、すべては終わりに向かう。子犬を殺した人間ーーーー優真自身が殺したいと思った人間も、優真に優しく接してくれた瑠衣も、新島も、全員死んでいく。どんな人間かなんて関係なく死んでいく。
あの瞬間に、人類を滅ぼそうなんて考えなければ……。
「着いたわ!」
瑠衣が優真を見ながら叫んだ。
「え?」
突然、瑠衣の見ているものすべてが、スローモーションになった。それが、周りが遅くなったのではなく、事故にあった瞬間。スローモーション感じるのと同じだと気づくのに、時間はいらなかった。
視界には、赤色の雨。
位置は、優真の頭上。
優真の腕を強く引き、
自分と位置が逆転するように引き寄せる。
優真は、瑠衣の行動にバランスを崩して、
その場に倒れた。
新島が、こちらに走ってくる。
優真が見ていた。
大丈夫、と微笑みかける。
雨が、瑠衣の頬に落ちた。
ああ、当たっちゃったと、自嘲する。
「瑠衣! 優真君!」
新島が駆け寄り、優真に手を貸した。マンションの入り口まで、あともう少しというところで、瑠衣はめまいを感じた。体が言うことを聞かない。瑠衣は足がもつれて、その場に倒れ込んでしまった。
「速く中へ!」
優真が瑠衣を抱き起こし、マンションの入り口に飛び込んだ。数秒遅れて、雨が振っているとわかるくらいまで強まる。
「香月君、どうしたの?」
新島が瑠衣の顔をのぞき込む。
「あはは、雨に当たっちゃいました」
瑠衣はせき込みながら言った。笑おうとはしているが、無理をしているのがわかる。何度もせき込み、徐々に顔色も悪くなっている。
「優真君、何か方法はないのか?」
優真は黙ったまま、瑠衣の顔を見ていた。
「無駄だ。建物の中にいたところで、雨は降りやまないし、そのうちみんな死んでしまう」
「そんな……」
新島が悲鳴に近い声を上げた。
「せん、せ……優真。私、だいじょう……ぶ」
それだけを言って、瑠衣の体からがくりと力が抜けた。
「香月君」
新島が、瑠衣を抱き起こし体を揺さぶる。だが、瑠衣は何の反応も返さない。
その様子を見ていた優真は、眉間に皺を寄せ今にも泣きそうな表情になっていた。
「せめて、香月君だけでも、何とかできないのか?」
涙を流しながら新島が聞いた。その涙に、優真は鋭い胸の痛みを感じた。
自分のせいで、瑠衣が死にかけている。
「俺が、俺という存在が、あの生物たちを機能させているんだ」
そこまで言って、優真はあることに気が付いた。
「ああ、そうか……」
簡単だ。
瑠衣を助ける方法。
「そう、簡単なことだったんだ」優真は呟いた。「俺がトリガーなら、俺の機能が停止してしまえば、この装置も止まる」
優真が瑠衣の近くにしゃがみ、彼女の服の中に手を入れた。腹の辺りに手の平をあてる。
「なにをするつもりだ」
「俺とこの生物たちは、同じもので作られている。こうして、命令すれば近くのやつくらいなら、俺の方に移す事が出来る」
手の平から自分の体内に、さっきまで瑠衣の体内で暴れていた生物が移ってくる。最後の一匹が、優真の体内に入ったのがわかり、優真は立ち上がった。
「あとは……」
優真がマンションの外へ向かって歩き出す。
新島が空いている方の手で、優真の腕をつかんだ。
どうやら、優真の意思が伝わったらしい。必死に力を入れ、優真を止めようとしていた。だが、既に優真の意思は固まっていた。それに、そうするしか、瑠衣と新島を助ける方法はないのだ。
「これ以外に、この雨を止める方法はない」
自分でも驚くほど、穏やかな口調だった。すべてを受け入れているからこそ、こんな口調で言えるのかもしれない。
「瑠衣を頼む」
優真がそう呟くと、新島の手に込められていた力が、徐々になくなっていき、最後にはうなだれるように下を向いた。
首にかけられたネックレス。瑠衣がクリスマスプレゼントだと言って渡したネックレスを、じっと見つめる。
優真は、新島の腕の中で眠っている瑠衣を見た。もう、状態は安定しているらしく、安らかな寝息をたてている。
優真の身体の中では、瑠衣の身体から取り出した、赤い雨の生物たちが暴れ回っていた。呼吸が苦しくなり、身体が酸素を求め何度もせき込む。酸素が頭まで回らず、ふらふらしながらも、優真は建物の外へ出た。
赤い雨が直接、優真の身体に当たる。じわじわと皮膚から身体の中へ浸透していくのがわかった。
生物たちに命令を出して、操っているのは優真の身体。優真から発せられる命令を止めてしまえば、赤い雨の生物たちは死に絶え、ただの赤い色の雨でしかなくなる。それならば、優真の生命活動が停止すれば、いいだけのこと。
彼の考えた結論。瑠衣と新島を助けるために、導き出した答えだった。がらくたに成り下がってもかまわない。二人には死んでほしくない。結果的に他の人間が生き延びることになったとしても、二人が死んでしまうよりは、何十倍も何百倍もマシだと思った。
もう息をすることさえできない。死が迫っているのがわかった。
瑠衣と新島を見る。新島は涙を流しながら、彼を見ていた。そんな顔をするなと、優真は無理をして笑って見せる。これは、俺が望んだことなんだ、と。
はっと、何かに気がついたように、新島が瑠衣を見た。優真は立っていることができなくなり、地面に膝をついていたが、視線だけは瑠衣からそらさずにいた。
うっすらと瑠衣の目が開く。新島が何か声をかけた。ゆっくりと視線を動かし、やがて、膝を付き赤い雨に打たれている優真を見つけた。
瑠衣の手が優真へと延ばされる。
もう、届かない距離。
すぐそこなのに、
たった十数メートル。
その距離がとてつもなく遠い。
瑠衣の目元から、雫が溢れた。
優真は、微笑みながら首を横に振る。
近くにあった時計台から、
音楽が流れ始めた。
そちらを見る。
地球にきてから、何度も町中で聞いた音楽。
いつの間にか、午前0時。
そうか、今日は――――。
瑠衣に向かって、今できる精一杯の笑顔を作る。
「メリークリスマス、瑠衣」
その声は、人類を滅亡させるという、本来の機能を失ってもなお降り続く赤い雨の音にかき消された。