とある魔術師への追憶
*
後ろを見ずに走った。
自分が怖くて、他人が怖くて、訳がわからなくて。
気づくといつの間にか自転車に乗って坂道を下っていた。
真っ正面から風を受けて頭が冷えていく。
物理的にも、精神的にも。
私は何をやってるんだろう。
作業は?もう学園祭まで三週間を切ってるのに。
(バカだ私は)
胸のうちに呟く言葉は誰に聞こえるわけもなく。
……鈴鹿くん、どうしたかな。怒ってないかな。嫌われてないかな。
(……っ!)
怖い。それが今の正直な心。
(誰か)
助けて欲しい。
(一人は寂しいよ)
抱き締めて欲しい。
(そばでずっと頭を撫でて)
この怖さを取り除いて欲しい。
(おかあ、さん)
そこでハッとした。
私は今…。
(そんな風に助けを求める『権利』すらないくせに)
唇を噛み締める。
ふっ、と。
刹那、目の前に黒い影が横切った。
濁った視界に写った“それ”に、反射的にブレーキをかけ、ハンドルを切る私。
(っ!!、な、何?)
(何かを轢いた感触はなかったけど…)
一応、確認のために自転車を完全に止めて振り返る。
……何もいない。
そこには人はおろか動物の類いもいなかった。
(気のせい、だったのかな)
だとしたら私も相当参ってる。早く家に帰って眠ってしまおう。
そう思った時、
たんっ、と軽い音がした
その方向に目線を向ける。
そこには犬が――真っ黒な大型犬が四本足で地に立っていた。
(いつの間に…)
一瞬そう思ったけど、少し考え直す。
もしかしたらさっきの影はこの犬だったのかもしれない。
それに今この犬が何かから降りた音がしたし。
轢かれる危険から逃れるために塀に登ったんだと考えれば辻褄があう。
(はぁ、よかった)
その犬も怪我をしている様子はない。
ほっと胸を撫で下ろして、取り敢えず自転車に乗ろうと犬に背を向けた。
(……ん?)
『視線』を感じる。
振り返る。
するとそこには、行儀よく座った犬が身じろぎもせずこっちを見ていた。その姿はまさに大きなぬいぐるみのようで。
これがまだ小型犬なら可愛い!とか言って近づけるけど、この場合相手は大型。
だから可愛い、というよりか少し不気味だった。
(何なんだろう?)
気にはなったけど、犬には首輪がしてあったから誰かの飼い犬なのは間違いない。
だから飼い主が現れるか、犬自身がそこに帰って行くだろうからこれ以上ここに留まる必要性はなかった。
視線を感じつつも自転車にまたがり、家へ帰る道を走り出す。
幾ばくか進んで。
タッタッタッ…。
何かの足音。振り返ると犬が追いかけてきていた。
(え……?)
次第に迫ってくる犬。ふと、追いかけられる獲物の気分になる。
その時、
いつか見た、あの『夢』が甦った。
(あの夢の中で私は何に追いかけられていた?森のなかで何か――“黒い”何かに追われて…)
そうだ。
あの時、あの夢で私が逃げていたのは、
犬に、それも『黒い犬』に追われていたからだった。
それを思い出して、背筋が凍りついたような感覚に陥る。
(なん、で)
漕ぐ足が止まりそうになる。
頭と脚が切り離されたような感覚。
息が詰まる。
吸っているはずなのに吸えていない。
水溜まりに取り残された魚みたいだった。
(あ、うあ…)
本能に感じる恐怖。
視界が滲んで霞む。
夢と現実がだふる。
自転車のスピードが落ちる。
犬との距離があと十メートル、八メートル、六メートル――
その時、チリッと胸元に焼けたような痛みが走った。
(つっ!、あ……、)
その痛みで硬直していた意識が再び覚醒する。
漕ぐ足が速まって、追いすがる犬との距離が開いていく。
結構な距離が離れたところで、流石に諦めたのかその犬の足も止まった。
しかし、その『目』は最後まで私を射ぬいていた――
*
とぼとぼ、という擬音語がまさに使われるような速度で。
私は歩いていた。
家はもう目と鼻の先だ。
次の角を曲がったらすぐ視界に入るだろう。
(まぁ、そんなことはいいとして)
思うことがあった。
(なんなんだろ今日は)
どうにも散々過ぎる。
鈴鹿くんにどんな顔して明日会えばいいのか分からないし。
悪夢の続きを現実で見たりするし。
……さらに思う。
(何か逃げてばっかりだな私)
そう考え始めたら途端に自分が情けなくなった。
(私は一人でも生きていくって決めたのに)
本当にバカみたい。
(それにしても)
さっき感じた『痛み』、というか『熱さ』は何だったんだろうか。
あれのお陰で我に帰ったのだけど…。
胸元に手を当てる。
ここにあるのは――
(叔父さんから貰ったペンダントだけだし…)
まさかこれに発熱機能がついてる、なんて想像は馬鹿馬鹿しすぎる。
(…いや逆にあの人が送ってきたものならあり得るのか?)
絶対に無い、と言い切れないところにあの叔父の変人度を察して欲しい。
そんなこんなうやむやと考えていると、もう曲がり角に差し掛かっていた。
(さっさと寝ちゃおう。そして、面倒で嫌なことは明日から考えよう)
そんなダメ人間な決意をして角を曲がる。
――しかしどうやら神様は、今日の私を素直に眠らせる気は無いようだ。
(あれ?)
誰かがうちの前、すなわち骨董店の前に立っている。
(休業の札は出てるはずなのに。物好きがいたもんだ)
そこにいる人は店の方を見ていたから、後ろから近づく私からは顔は見えない。
しかし次第に違和感、というか既視感?、多分言葉の意味は間違っているけどそんな風なものを感じた。
(灰色の髪…。いやまさか)
その時、押していた自転車が小石でも踏んだのか縦に揺れて、自転車の鈴がチリンと鳴った。
その音が聞こえたようで、店の前に立つその人がこちらを振り向いた。
「あ」
思わず声が出る。
何故って。振り向いたその人は、あの『転校生』だったのだから。
*
まず最初に私の頭をいっぱいにしたのは、“何で”“どうして”という疑問符だった。
あの完璧王子がうちのガラクタ骨董店に何の用があるのだろう?
パチパチと瞬きばかりしていると、
はた、と目が合う。
「あ………」
「あの………」
教室での一件を思い出すしばしの無言。が、しかし。
「貴女は確か…日向さん、でしたよね?」
口火を切ったのは彼だった。
「は、はは、はい!?そ、そうですけど」
私はそれに対して完全にしどろもどろ。非常に恥ずかしい。
「あ、あの、うちの骨董に興味があるんですか?」
どうにか、顔の赤らみを吹き飛ばそうと必死に考え出した言葉を言った。
「前を通りかかった時に興味を引かれたんです」
にこりと彼はそう答える。そして店の中の商品の一つを指さした。
「あの置き時計、かなり古いものではありませんか?」
「あ、うーん…。私あんまり詳しくないから分からないかな」
その答えに――
「え?……そうですか」
――何故か彼は動揺したように見えた。
気のせい?
「あの、気になるなら見ていきますか?」
「いいんですか?ありがとうございます」
にこり、完璧な王子スマイル。それを見てやっぱりさっきのは気のせいだったのだと理解する。
「ちょっと待っててください。自転車を置いてくるんで」
パタパタと小走りで家に向かう。
そして返す刀で店の内側から鍵を開けた。
「いらっしゃいませ。ようこそ夜月骨董店へ」
……久しぶりに言ったなこれも。ここに越してきてから三回目くらいだろうか?
まぁ、私がいる間しか開いてないからそれも仕方のないことだけど。
この店は、私の両親が逝ってしまってからおじさんが用意してくれたものだ。
転勤の多かった両親に持ち家は無く賃貸のマンションが残されていたけど、そこは今のこの学校には遠かったため引き払った。そして自分で部屋を探すつもりがいつの間にか勝手にこの家が買われていたのだった。
――そして今に至るわけで。
もとから何かの店をやっていたらしくて、その商品もそのまま置いている。そこにおじさんから送られてくる訳の分からないものが加わって、もはや趣旨が不明な店が完成していた。
そんな店に。
彼が、招き入れられた。
「……お招きありがとう」
その瞬間、ふわりと、冷たい風が吹いた。
反射的に体を強ばらせる。
――いやに冷たかった。木枯らしだろうか?
「寒いですね。扉、閉めちゃいますよ」
「あ、はい」
気を使ってくれたのか、ガラガラと引き戸は閉まり。
こうして王子と私のマンツーマンの空間が誕生した。
(二人っきり…。あああ、いや変なこと考えちゃダメだ私!)
「じゃあ、見せていただきますね」
「あ、はい!ご、ごゆっくり!」
そう言って私はそそくさと家に引っ込んでしまう。そうでもしなければあの場に耐えられる気がしない。キッチンの縁に手をついて精神集中をする。
……おかしい。どうにも調子が狂う。
(平常心、平常心。向こうに変な気はないし私にもない。それは明らかであってこんな風にテンパっているのは先輩の言葉と私の変な妄想のせいだ)
恋っていうのはもっと段階を踏んだものだろうし。
(これはアレだ、物凄く値段の高い美術品を目の前にして焦ってるみたいな)
そんな感情なんだ。
(だから私は)
至って普通に接することが出来るし、話せるし、
(お茶だって出せる)
……考えながらだったから我ながら緩慢な動きではあったけど、お盆には湯気の上がる湯飲みが2つ置かれている。
それを持って、私は店に出た。
彼は静かに、そして何処か懐かしそうに商品を手に取っている。
そんな彼に、『平常心』で話しかけた。
「これ日本茶なんだけど、飲んだことある?」
「あ…、そんな。気を使って頂かなくても」
「いいのいいの。今のあなたはお客さんだし」
(普通に、話せた)
それが何だか嬉しかった。
彼は恐縮した様子だったけど、結局お茶を受け取ってくれた。
商品として展示してある椅子に腰をかけてお茶を飲む。
私も一口すする。
「凄く、美味しいです」
「あ、でもイギリスだったら紅茶の方が良かったかな?」
「いえ。僕はグリーンティーの方が好きですから」
そう言って彼はもう一口すする。姿と顔は完全に海の向こうの人なのに、お茶をすする格好は日本人そのものだった。
(何から何まで絵になるな…)
灰色、または銀色とも呼べる髪。左右対称な瞳。少年と青年の中間の顔。線の細い立ち姿。そしてあの微笑み。
(悩みなんて無いんだろうな)
「日向さん?」
「…あ、え?な、なに?」
「いえ。先程から僕の顔をじっと見ていらしたので。どうしたのかな、と」
「え、あー…」
さて。今までならここでテンパってたけど、気合いを入れた私は一味違う。
「いや、お茶を飲む動作とかが凄く慣れてたから。誰かに習ったのかなって」
本当は羨んでいたなんて言えないし。けれど、これは確かに抱いていた疑問だった。
「ええ。親しい人に教わったんです。日本語もその人にだいぶ鍛えられました」
「あー、なるほど確かに日本語も上手だしね。納得かも」
その日本語の先生というのはかなり優秀に違いない。
それか単に目の前の彼の順応能力が凄いのか。
……まぁ、どっちでもいいんだけどね。
*
それから。
他愛のない話――学校のこととか、店の商品のこととかを話して。
普通にいい感じだったと思う。あくまで私の主観だけど。
(思ってたより気取ってなくて接しやすい奴だったなぁ)
あの超人っぷりで性格に難アリならまだバランスがとれそうなものだけど、そんな雰囲気は欠片もなかった。
これで王子は性格もパーフェクトだということが証明されたわけだ。
…なんか残念がってるのかな私は。
欠点が一つぐらいあった方が可愛らしいというか、人間くさいというか。
これも、全くもって勝手な私の願望だけど。
(それはもういいや)
これ以上私が何か考えても意味がないし。
それにしても。
さっきの彼に対する応対、今の私にしては最高のものだったなぁ。
ちゃんと笑顔が作れたし。初めて普通に接することが出来た。
一応、先生に世話係を任されてはいたけど学校では全くお呼びじゃなかったからなぁ…。
ちょっと気にしていたことだったからすっきりした。
(……本当の問題は、まだあるけどね)
そう。極力考えないようにしていた問題がまだ残っている。
(晩ご飯、作らなきゃ)
結論から言えば。
結局この時、私は考えることをしなかった。
――心的外傷を好き好んで自分でほじくる人間がいるだろうか――
『明日になれば、どうにかなってくれるんじゃないか。誰かが解決してくれるんじゃないか』
淡く、浅はかな『逃げ』にすがる。
でも。
神様はやっぱり明日までは待ってくれなかった。
††
(ここにも…ない、か)
深夜。大抵の人間が寝静まった闇夜の中で。
ガサガサと、どれだけ気を付けても出てしまう物音を極力無くしながら物色を続ける。
(隠し小窓…。ち、これもフェイクか)
アンティークの家具、特に貴族が使っていたようなものには稀に巧妙な細工が施されていることがある。
これもソレの部類に入るのか、テーブルの裏の一部がずれる仕掛けがついていた。
…しかし“俺”が探しているのはその仕掛け自体ではない。
あの石を――“俺”は必ず見つけ出す必要がある。
しばらくテーブルを探していたが、見切りをつけて次の品にうつるとしよう。
次は――
(あの時計…。なにか意味が有るのか?)
店の中央に鎮座する置き時計に狙いを定める。
重りを上げて、それがゆっくりと下に降りることで時を刻むタイプだ。
詳しい年代は分からないが百年は経っているものだろう。
嵌め込まれたガラスに触れ、文字盤を注視する。
(装飾に使われたりは…ないか)
あの時。
外からチラリと見た時に、一番怪しいと思ったのだが検討違いだったようだ。
(そう簡単には見つかってはくれないか…)
立ち上がり、他のものに手を伸ばそう。
そう思ったとき。
ゴーン、ゴーン…!
(なっ…)
時計の鐘が、急に音を立て始めた。
(何の冗談だ…!?)
重りを引き上げた覚えもない。それなのにこの時計は鳴っている。
外にまで響くほどではないだろうが、同じ家にいれば眠っていても目を覚ますレベルの音。
と、すれば…。
ギイ…。
と、目の前の扉が開く。
そこから明かり(おそらく懐中電灯)が見えた。
「誰か、居るんですか…?」
次に覗くのは恐々とした様子の“彼女”の顔。
(偶然、か?)
この状況。
……なるほどな。
あの魔女が言う通り、『運命』とやらは何事もなく俺に“石”を渡す気はないらしい。
(だが…)
“俺”にだって易々(やすやす)と見つかってやる気は毛頭なかった。
それは隠れ場所を知っているとかそういうことではない。
ただ単純に、今の“俺”の姿は『人には見えない』のだから――
「アルカード、君?」
夜に溶ける闇は、
『月』によってその姿を鮮明にされて。