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世界の真実を知りたいですか

作者: 青狐
掲載日:2026/05/06

最初の一文は、迷惑メールにしては妙に行儀がよかった。件名も本文も短く、装飾もない。「世界の真実を知りたいですか?」それだけだった。青年は、使い古したスマートフォンの画面を指で弾きながら、鼻で笑った。どうせ詐欺か宗教か、あるいは退屈しのぎの悪戯だろう。だが、その夜も彼は負けていた。駅前の雑居ビルの三階、煙のこもる店内で、光る盤面に向かって何時間も座り続け、結局は財布の底を叩いた。帰り道、コンビニの前でレシートを丸めて捨て、ポケットの中で震える端末を取り出したとき、あの一文が頭の隅に残っていた。

 返信は、軽い冗談のつもりだった。「知りたい、と言ったらどうなる?」送信した直後、馬鹿らしくなって電源を落としかけたが、すぐに返事が来た。「条件があります。あなたはそれを満たせますか?」間髪入れない応答に、妙な緊張が走る。「内容次第だな」そう打つと、数秒の間を置いて新しいメッセージが表示された。「ギャンブルをやめてください。借金を返してください。親孝行をしてください。街のために何かをしてください。すべて終えたら、真実をお伝えします」

 ふざけている。そう思った。けれど、彼は画面を閉じなかった。負け続ける日々の中で、どこかで区切りを欲していたのかもしれない。条件は、あまりに凡庸で、あまりに面倒で、あまりに正しかった。「期限は?」と送ると、「設けません。あなたが終わらせたときが、そのときです」と返ってきた。女性のような、柔らかい文体だった。敬語の端々に、妙な距離感と温度がある。「名前は?」と聞くと、しばらく沈黙が続き、「必要ですか?」とだけ返ってきた。

 翌日、彼は店に行かなかった。偶然ではないと自分に言い聞かせるために、朝から街を歩いた。昼過ぎに、いつも寄る店の前を通り過ぎるとき、足が止まりかけたが、ポケットの中の端末が震えた。「今日は行かないでください」誰にも見られていないはずなのに、背筋が冷たくなる。「見てるのか?」と送ると、「あなたが見ているものは、あなたの行動の一部です」と、意味のわからない返事が来た。監視か、偶然か、あるいは単なる言葉遊びか。どれでもよかった。彼はそのまま歩き続けた。

 借金は、思っていたより重かった。カード会社からの通知、消費者金融の督促、携帯の支払い、細かな滞納が積み重なり、首を締めていた。働くしかない。彼は日雇いの仕事に登録し、倉庫で箱を運び、工事現場で資材を運び、夜はコンビニでレジに立った。体はすぐに悲鳴を上げたが、仕事のあとに感じる疲労は、盤面に座り続ける倦怠とは違った。眠りが深くなり、朝の光が少しだけまぶしくなった。

 数日後、メールが届いた。「順調ですか?」彼は苛立ちながらも返信した。「やってる。だが、これで何が変わる?」すぐに返事は来なかった。夜、狭い部屋の天井を見上げていると、ようやく画面が光った。「変わるのは世界ではなく、あなたです。けれど、その変化が、あなたにとっての世界の形を変えます」説教じみている、と彼は思ったが、同時に、どこかで納得している自分がいた。

 親に連絡するのは、もっとも難しかった。数年、まともに会っていない。電話帳の中の名前は、どこか他人のように遠かった。彼は、何度もかけては切り、かけては切りを繰り返し、ようやく発信ボタンを押した。呼び出し音が長く続いたあと、懐かしい声が出た。「もしもし?」言葉が詰まり、しばらく沈黙した。「……元気?」その一言が出るまでに、どれだけの時間がかかったのか、彼自身にもわからなかった。母は、少し驚いたように、けれど穏やかに応じた。「元気よ。あんたは?」彼は、嘘をつかなかった。「ちょっと、やり直してる」

 それから彼は、週に一度、実家に顔を出すようになった。台所の手伝いをし、古びた家の掃除をし、父の話を聞いた。昔なら退屈だと感じていた時間が、奇妙に静かで、どこか温かかった。帰り際、母が持たせてくれる惣菜の重みが、胸に残った。

 街のボランティアは、最初は面倒でしかなかった。河川敷の清掃、商店街のイベントの手伝い、子ども向けの工作教室の補助。誰も彼に期待していない場所で、彼は黙々と手を動かした。汗をかき、土に触れ、笑う子どもたちの横で、ぎこちなく笑顔を作った。終わったあと、主催者に頭を下げられたとき、胸の奥で何かが小さく鳴った。

 その間も、メールのやり取りは続いた。彼が愚痴をこぼせば、「それでも続けてください」とだけ返ってくることもあれば、彼が成果を報告すれば、「よくできました」と短く褒められることもあった。名前を尋ねても答えは変わらない。「必要ですか?」と返ってくるだけだ。だが、彼は次第に、その見えない相手に話すことが習慣になっていた。顔も知らない、どこにいるのかもわからない相手。けれど、彼の一日を、誰よりも正確に把握しているかのような相手。

 半年が過ぎた頃、彼はようやく借金の目処を立てた。すべてを返し終えた夜、部屋の中でひとり、通帳の残高を見つめながら、深く息を吐いた。達成感と同時に、妙な空虚が広がった。これで、終わりなのか。彼は端末を手に取り、短く打った。「終わった。全部」送信したあと、いつもより長く、返事は来なかった。

 深夜を回った頃、画面が静かに光った。「おめでとうございます。約束の時です」彼は背筋を伸ばした。「世界の真実を教えてくれ」数秒の沈黙のあと、メッセージが表示された。「世界の真実は、特別なものではありません。あなたがこれまで避けてきたこと、その一つひとつが、あなたの世界を形作っていたという事実です」彼は眉をひそめた。「それだけか?」打ち込む指が、少し荒くなる。

 「はい。それだけです」あまりにあっさりした返答だった。「ふざけるな。俺は……」彼は言葉を探した。何を期待していたのか、自分でもはっきりしない。世界の裏側を暴く秘密か、何か超越的な存在の証明か、あるいは、すべてを一変させる奇跡のようなものか。「もっと何かあるはずだろ」そう送ると、しばらくして返事が来た。「あなたが求めている“何か”は、あなたが変わる前に夢見ていたものです。今のあなたは、それを本当に望んでいますか?」

 答えられなかった。部屋の中は静まり返り、遠くで車の音がかすかに聞こえるだけだった。彼は、通帳と作業着と、テーブルの上に置かれた母の惣菜を見た。確かに、何かは変わっていた。だが、それは劇的でも派手でもない、じわじわとした変化で、世界の真実と呼ぶには、あまりに地味だった。

 「あなたはよくやりました」最後のメッセージが届いた。「そして、ここから先は、あなたが選びます」彼は打ち返した。「あんたは誰なんだ」数秒の沈黙。「それは、あなたにとって必要ですか?」いつもの答えだ。彼は苛立ちを抑えきれず、「ふざけるな」と送った。返事は来なかった。もう一度送っても、画面は静かなままだった。

 翌日、彼は仕事に向かった。体は軽く、動きも悪くない。昼休み、同僚と弁当を食べながら、他愛のない会話をした。夕方、帰り道に商店街を通り、見知った顔に軽く会釈をした。日常は、穏やかに続いていた。だが、どこかで、胸の奥に小さな棘が残っていた。これが、望んでいた結末なのか。あのメールの先に、何か決定的なものがあると、どこかで信じていた自分がいた。

 数日後、彼は久しぶりにあの店の前に立っていた。ネオンが瞬き、扉の向こうから音と光が漏れてくる。足は、迷いなく動いた。中に入ると、見慣れた匂いと音が彼を包んだ。席に座り、コインを手に取る。心臓が、少しだけ早く打った。画面の中で、数字が揃い、外れ、また揃う。その繰り返しに、奇妙な安心感を覚えた。

 ポケットの中で、端末が震えた気がした。彼は取り出さなかった。見なくても、そこに何が表示されているのか、想像できる気がした。あるいは、もう何も届かないのかもしれない。どちらでもよかった。彼は視線を盤面に戻し、コインを投じた。

 夜が更け、彼は店を出た。勝ちも負けも、以前ほど重く感じなかった。だが、それは良い意味での軽さではなく、どこか諦めに似た軽さだった。空を見上げると、街の明かりに滲んだ星が、かすかに見えた。世界は、相変わらず同じ形をしている。変わったのは、自分のはずだった。けれど、その変化は、長く続かなかった。

 帰り道、彼は端末を取り出し、受信箱を開いた。最後のメッセージは、あの夜のままだった。「あなたはよくやりました」それだけが、静かに残っている。彼はしばらく画面を見つめ、やがて閉じた。ポケットにしまい、足を進める。

 人は簡単には変われない。変わったと思った瞬間に、元の形に戻ろうとする力が働く。彼はそれを、身をもって知った。けれど、それでも、あの半年が無意味だったとは言い切れないことも、どこかで理解していた。理解していながら、彼は再び同じ場所に立っている。その矛盾ごと抱えたまま、彼の日常は続いていく。

 翌朝、彼の端末に、新しいメールは届かなかった。

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