9話 雨の音
朝、家を出る前。
「今日、夕方から雨だって」
キッチンでスマホを見ながら、母さんが何気なく言った。
「ふーん」
そう思いながらも、玄関に立ち、天気予報をもう一度だけ確認する。
降水確率、四十パーセント。
微妙な数字だ。
降るかもしれないし、降らないかもしれない。
こういう日は、大抵持っていかなくて後悔するか、持って行って邪魔になるかの二択になる。
「……一応、持ってくか」
俺は、玄関の傘立てから一本引き抜いた。
午後の五時限目。英語の教科書を読む先生の声と、古びた天井の扇風機が回る音だけが、眠気を誘うリズムを刻んでいた。
ふと、窓の外が暗くなった気がして目を向ける。
さっきまでの穏やかな曇り空はどこへ行ったのか、墨を流したような重たい雲が校庭を飲み込もうとしていた。
――ポツ、と窓ガラスが鳴った。
それを合図にしたかのように、一気に世界が騒がしくなる。
ザァァァァッ!
音は次第に強くなり、それなりの勢いで雨が降り出す。
校庭の乾いた土の色が、みるみるうちに濃い茶色に変わっていった。
教室の中が、少しだけざわつく。
「あー、降ってきちゃったな」
「傘、持ってきてないよ」
そんな小さな呟きが、授業の合間にいくつか混じった。
教室のあちこちで、傘を持ってこなかった連中が顔を見合わせ、肩を落としていた。
紺色の、何の変哲もないジャンプ傘。
朝、玄関で迷った末に引き抜いたあの一本が、今は妙に頼もしく、勝ち誇ったような光を放っているように見えた。
「……正解」
あの時、面倒くさがらずに傘立てから持ち出してよかったと、静かな安堵が胸に広がる。
窓の外を見れば、雨は止む気配もなく、しとしとと地面を濡らし続けている。
終礼のチャイムが鳴っても、雨脚は変わらなかった。
帰宅を急ぐ生徒たちが足早に廊下を駆けていくのを横目に、俺はゆっくりと支度を済ませる。
昇降口に降りると、そこには立ち往生しているやつらが何人もいた。
「マジかよ、結構降ってるな」
「コンビニで買うしかないか……」
そんな会話を背中で聞きながら、俺は迷わず自分の傘を手に取る。
そのまま外へ出ようとした時、少し離れた柱のそばに、天瀬さんの後ろ姿を見つけた。
彼女は困ったように眉を寄せ、スマートフォンの画面と、白く煙る校庭を交互に見つめている。
その手には傘らしきものは見当たらない。どうやら、降水確率四十パーセントに賭けて外れた口らしい。
いつもは物静かで、どこか凛とした雰囲気のある彼女が、所在なげに自分の肩を抱くようにして雨を見上げている。
俺は彼女の方へ歩み寄り、手に持っていた傘を無造作に差し出した。
「貸そうか?」
声をかけると、天瀬さんは少し驚いたようにこちらを振り向いた。
「え……」
俺が差し出した傘を見て、彼女は瞬きを繰り返す。それから申し訳なさそうに、小さく首を振った。
「いいよ、そんなの。悪いし……」
「俺、カバンに折りたたみ入ってるから。これは予備みたいなもんだし」
適当な嘘が口をついて出た。
そう言った方が受け取りやすいだろうと思っただけだ。
「そうなの……? じゃあ、お言葉に甘えてもいいかな」
天瀬さんは申し訳なさそうに、けれど安心したように傘を受け取った。
俺は「じゃあ」と短く告げて、カバンから折りたたみ傘を出すふりをしながら、そのまま雨の中へ駆け出そうとした。
だが、数歩もいかないうちに後ろから呼び止められた。
「……ちょっと、待って」
振り返ると、傘を広げた天瀬さんが、俺をじっと見つめてきた。
「嘘でしょ」
鋭い指摘に、言葉が詰まる。
「見せてみて。その、折りたたみ傘」
「それは……」
「嘘ついて、自分だけずぶ濡れになって帰るつもりでしょ!」
図星だった。
反論の言葉を探して視線を泳がせたが、彼女のまっすぐな眼差しから逃げ切ることはできなかった。
一歩、天瀬さんが近づいてきた。
そして、自分が差している傘をぐいっと俺の方へ傾けた。
「やっぱり高梨くんは優しいね」
その一言が、冷たい雨よりも先に、胸の奥に染み込んできた。
「じゃあ、一緒に帰ろ?」
首を振る間もなかった。
結局、俺たちは一本の傘の下、肩を並べて歩き出すことになった。
距離は近いのに、歩調が微妙に合わなくて、時々肩が触れそうになる。
「雨、強くなってきたね」
天瀬さんが、前を見たまま言った。
「そうだね。こんなに降るとは思わなかったよ」
そんな俺の動揺を知ってか知らずか、天瀬さんが弾かれたようにこちらを見上げてきた。
「……あ、ちょっと。高梨くんの右肩、すごく出てるよ!」
確かに俺の右肩には、冷たい雨の粒が次々と当たって、制服の色を濃く変えていた。けれど、俺は前を向いたまま、素っ気なく答える。
「いいんだよ、これくらい。男だし、ほら……水も滴るいい男って言うでしょ?」
我ながら恥ずかしい台詞に、内心で顔から火が出そうになる。
ところが、天瀬さんはそんな俺の言葉に、花が綻ぶような満開の笑顔で返してきた。
「ふふっ、そんなことしなくても、高梨くんは十分いい男だよ〜!」
俺は顔が赤くなるのを隠すように、傘を持つ手に力を込めた。
右肩に当たる雨は冷たいはずなのに、左側から伝わってくる熱のせいで、身体中が熱くて仕方がなかった。
しばらくすると、さっきまでの「しとしと」なんて生易しいもんじゃない。空が怒っているみたいに、視界が真っ白になるほどの豪雨が俺たちを襲った。
「雨すごくなってきたね……」
天瀬さんの声が、激しさを増す雨音に消されそうになる。
風まで出てきて、一本の傘ではもう防ぎきれない。
傘を持つ俺の腕が、雨風にあおられてぐらりと揺れた。
このままでは、二人ともずぶ濡れになるのは確実だ。
俺は辺りを見回し、公園の片隅にある屋根を見つけた。
「天瀬さん、あそこ!」
「あ、うん……っ!」
彼女の肩を抱き寄せるようにして、一気に屋根の下へと滑り込む。
「……っ、ふぅ。間一髪」
バチバチと屋根を叩く凄まじい音が、すぐ頭上で鳴り響く。
目の前の公園の遊具が、白く霞んで見えるほどの土砂降りだ。
屋根の下に入ってようやく一息ついたが、俺はまだ彼女の手首を掴んだままだった。
「あ……ごめん」
「ううん、大丈夫。引っ張ってくれて、ありがと」
慌てて手を離すと、天瀬さんは濡れた髪を耳にかけた。
ベンチが二つあるだけの狭い空間。
周りは激しい雨のカーテンに囲まれて、まるで世界に俺たち二人きりになったような錯覚に陥る。
「二人ともびしょ濡れになっちゃったね!」
天瀬さんが、楽しそうに、でも少し困ったように笑った。
「まあ、これくらいならすぐ乾くよ」
そう強がってみせたけれど、正直なところ、結構冷たい。
すると、天瀬さんが「あ、そうだ」と小さく声を上げた。
「タオル、あったんだった!」
カバンの奥をまさぐって、彼女が取り出したのは、キャラクターの刺繍が入った可愛らしいタオルだ。
それを迷わず、俺に差し出してきた。
「高梨くん、これ使って!」
躊躇いなく差し出されたタオルに、俺は一瞬戸惑う。
びしょ濡れになっているのは、もちろん天瀬さんの方も同じだ。
「ありがとう。でも、天瀬さんが先に使ってよ」
タオルを手に、天瀬さんはどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「じゃあ、先に私から使わせてもらうね。……でも」
彼女はそこで言葉を切ると、少しだけ頬を赤らめて、俺の様子を伺うようにちらっと視線を投げかけてきた。
「ちょっと、制服の中……体の方も拭きたいから。高梨くん、後ろ向いててくれる?」
一瞬、思考がフリーズした。
制服の中、体。その言葉が持つ破壊力に、心臓が跳ね上がる。
そして、俺は慌てて反対側を向いた。
狭い屋根の下、背中合わせに近い距離。
ザァザァと地面を叩く激しい雨音に混じって、背後からカサリ、と布地が擦れる微かな音が聞こえてくる。
タオルで肌を拭っているんだろう。天瀬さんが動くたびに、すぐ後ろで空気が揺れるのがわかる。
視界を真っ白に染める豪雨をじっと見つめながら、俺は必死に別のことを考えようとした。けれど、意識すればするほど、背中越しに伝わってくる彼女の気配が鮮明になっていく。
「もう、いいよ」
背後から、少しだけ照れを含んだような、柔らかな声がした。
俺は固まっていた体をゆっくりと解き、おそるおそる振り返る。
そこには、濡れた髪をタオルで軽く抑えながら、ほんのりと頬を桜色に染めた天瀬さんが立っていた。
「……大丈夫?」
「うん。おかげで少し落ち着いたかな。高梨くん、使って」
差し出されたのは、さっきまで彼女が使っていたタオル。
受け取ると、雨の冷たさを上書きするような熱と、彼女の香りがふわりと鼻先をくすぐった。
「ありがと」
俺はそれを頭に乗せ、水滴を吸い取るようにゆっくりと押さえる。
さっきまで彼女の肌に触れていたものだと思うと、ただのタオルのはずなのに、妙に意識してしまって手がうまく動かない。
心臓の音が、雨音に負けないくらい大きく響いていた。
しばらくすると、さっきまで世界を白く塗りつぶしていた雨音が、少しずつその勢いを失っていった。
屋根を叩く音が、激しい打撃から、落ち着いたリズムへと変わっていく。
「雨、弱くなってきたね」
天瀬さんが、屋根の外を覗き込みながら言う。
公園の遊具も、さっきほど霞んでは見えない。
地面を叩いていた水飛沫も、少しずつ大人しくなっている。
「このくらいなら大丈夫そうだね」
「うん。ずっとここにいるのも寒いし……」
言葉に合わせて、彼女は腕をさすった。
濡れた制服が、まだ肌に張りついている。
「じゃあ、行こうか」
そう言って、俺は傘を持ち一歩踏み出した。
弱まった雨が、アスファルトを静かに濡らしている。
分かれ道が見えてきて、俺は足を緩める。
この先で、天瀬さんとは別方向だ。
「……あのさ」
自分でも驚くほど、声が少し硬かった。
天瀬さんが首を傾げて、俺を見る。
「どうしたの?」
ほんの一瞬、迷う。
余計なお世話だと思われるかもしれない。
「天瀬さんの家まで送るよ」
「え……?」
彼女は驚いたように俺を見た。
「そんなのいいよ。もう雨も弱いし、走れば大丈夫だよ!」
案の定の反応だ。
俺は視線を逸らしつつ、続ける。
「でも、まだ降ってるし。暗くなってきたしさ」
言い訳みたいな言葉を並べながら、最後に本音を足した。
「それに……俺が、そうしたいだけだから」
「……いいの? 遠くなっちゃうよ?」
「別に。これくらい、大した距離じゃないよ」
一瞬、沈黙。
雨音だけが、二人の間を埋める。
天瀬さんは少しだけ俯いて、傘の縁を見つめたあと、そっと笑った。
「じゃあ……お願いします」
そう言って歩き出すと、彼女は「ふふっ、ありがと」と小さく呟いて、俺の歩幅に合わせた。
さっきまでより、ほんの数センチだけ、二人の肩の距離が近くなった気がした。
初めて踏み込む、彼女の家の方向。
「うん、こっちだよ」と彼女が指差す方へ、俺たちは並んで歩き出した。
どこか落ち着かない気持ちと、傘の中に閉じ込められた二人の体温。言葉は少なかったけれど、互いの輪郭が近くなったような不思議な感覚があった。
「あ、高梨くん見て! あのパン屋さん、明太フランスがすっごく美味しいんだよ」
「あ! 見て見て、ねこちゃんだ! 雨宿りしてる……ふふっ、丸まっててかわいい〜!」
彼女の弾むような声を聞いているうちに、雨に濡れた不快感なんて、いつの間にかどこかへ消えていた。
「あそこのマンションだよ!」
彼女が示したのは、街灯に照らされた落ち着いた佇まいのマンションだった。
エントランスポーチの広い屋根の下に入ると、俺は傘を閉じた。
「送ってくれて、ありがと」
「うん。……じゃあ、また明日」
自動ドアの前で、天瀬さんが一度だけ振り返る。
「高梨くん」
「ん?」
「あ、えっと……」
彼女は何かを言いかけて、少しだけ迷うように視線を泳がせた。けれど、すぐに何かを誤魔化すように小さく笑う。
「……ううん、なんでもない。気をつけて帰ってね!」
ガラス越しのロビーへと消えていく彼女の背中を、俺は姿が見えなくなるまで見送っていた。
一人になった途端、傘を叩く雨音がやけに大きく、寂しく響いた。




